失われる30年の軌道敷設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:54 UTC 版)
「オフショア市場」の記事における「失われる30年の軌道敷設」の解説
第一次開放と並行して、日英金融協議の場でイギリス政府は、自国の商業銀行系証券子会社を日本政府が証券会社として認めるべきだと迫った。日本は銀証分離を理由に断るつもりであったが、野村証券など日本の大手4証券会社がイングランド銀行に銀行免許の取得申請をしていたので、これが弱みとなった。イギリスはビッグバンの一環として銀行法の改正や1986年金融サービス法の制定を計画しており、それらに相互主義を盛り込む方針だった。結局、大蔵省はヨーロッパ諸国の銀行に対して、銀行の出資比率が50%以下の証券子会社による日本国内への支店開設を認め、1985年12月15日ドイツ銀行に証券業務を認める方針を伝えていた。このとき、ペイン・ウェーバー(現UBS)やシュローダー、カザノヴ商会などの証券業務が認められている。ドイツ銀行系では、香港のDBキャピタル・マーケットがシーメンスとバイエル両社からそれぞれ25%ずつ出資を受けて支店を開いた。1986年9月1日、ナショナル・ウエストミンスター銀行の子会社カウンティ・バンクにも証券免許を与えた。ここまでしてやっと、イングランド銀行が野村証券に免許を交付した。そしてアメリカが便乗してきた。1986年9月12日、東京で開かれた日米円・ドル委員会第四回フォローアップ会合で、うちにも日本でユニバーサル・バンキングをやらせろと言ってきたのである。 東京オフショア市場は1986年12月1日に発足した。1987年5月27日、ワシントンで行われた日米円・ドル委員会第五回フォローアップ会合で、日本政府が、JPモルガン、ケミカル、マニュファクチャラーズ・ハノーバー、バンカース・トラスト(現ドイツ銀行)、以上4社の証券子会社に証券免許状を与える方針を伝えた。ヴィッカース・ダ・コスタはその買収事業に在日支店が存するという理由で例外的に認められていた。このころ東証はコンピュータ売買の増加を決め、第二次開放として11月に会員定数を93社(空席1)から114社に増やす定款変更を行った。10月にブラックマンデー。12月に外国証券16社が新会員となったが、それはたとえばソロモン・ブラザーズ、キダー・ピーボディ、ファースト・ボストン、シェアソン・リーマン・ハットン、クラインワート・ベンソン(現ソジェン)、シュローダー、ベアリング、ソジェン、ドイツ銀行、スイス銀行コーポレイション、フィリップス・アンド・ドリューであった。1989年4月には、非居住者性の確認手続き、貸付相手先の資金使途に関する確認手続きの簡素化がなされ、東京金融先物市場も創設された。6月にオプション市場も開設された。集中した資金需要が10月に公定歩合を吊り上げ、翌1990年2月から株価の暴落が続いた。
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