国道1号の逼迫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:05 UTC 版)
東京 - 名古屋間のルートを巡って論戦が繰り広げられている時、以前から渋滞気味であった国道1号の道路事情はさらに悪化していた。 国道1号逼迫の原因は、昭和30年代以降、急速に増大したトラックの影響である。それ以前のトラック輸送といえば、鉄道貨物輸送を補完する形で日用品の地域輸送、および鉄道の両端を担当する小運送であった。当時の陸上貨物運送は鉄道が主流で、トラックはあくまで脇役であり、トラックの主な形態は小型三輪車や軽自動車であった。やがて100 kmに及ぶ近距離輸送にトラックが進出し始め、それが東海道の貨物輸送の九割を占めるまでになった。よって、国道1号における交通混雑はまず、都市部周辺で始まった。さらに、首都圏と中京圏、近畿圏をつなぐ東海道は長距離貨物の需要が旺盛であることから、近距離貨物に割って入って長距離貨物の伸長も著しかった。 東海道に対する路線トラックの免許は、1950年(昭和25年)に東京 - 名古屋間におり、4年後には東京 - 大阪間を22時間で結ぶに至った。一方で国鉄貨物は東京 - 大阪間に3日を要し、以後、鉄道貨物輸送はトラック輸送の後塵を拝するようになった。これには高度経済成長を契機として、大量生産、大量消費時代へと突入して増え続ける輸送需要を鉄道貨物が賄いきれず、それに代わってトラックが持ち前の機動力と利便性で次々と貨物を取り込んでいったこともトラック輸送伸長の一要因である。事実、1956年度から1965年度までのトラック輸送の伸びは、1955年(昭和30年)の12 %から1965年(昭和40年)には26 %と倍以上に伸び、一方の国鉄貨物は53 %から10年後には31 %までシェアを落とした。この流れを受けて1959年(昭和34年)には、路線トラック12社が東海道路線の免許を取得し、同年に全面舗装なった国道1号で長距離の定期便トラックの運行を本格化させた。もっとも、舗装といっても相変わらず道幅は狭く、曲がりくねったままの旧道がコンクリートに置き換えられただけのことで、東京 - 大阪間を大型トラックが高速で移動することは到底不可能であった。 歌川広重による東海道五十三次の浮世絵と、幕末の東海道と松並木。この牧歌的な道をほとんど改良せず、トラックをはじめ自動車が行き交うのが戦後の国道1号であった。 なお、ワトキンス調査団のまとめたレポートの巻頭には、米国の高速道路の写真に続き10葉の日本の道路の写真が掲載されており、その全てが調査団来日当時の国道1号である。そこには、未舗装の道を砂埃を舞い上げて走る自動車、大雨によってぬかるんだ未舗装の道に轍をとられた自動車を大人数で押している写真、あるいは首都東京の路面を無秩序に占有するおびただしい数の自動車の写真など、凄まじいまでの東海道が写されていた。当時の国道1号は道幅が狭く、その両脇を民家が軒を連ねていた。そこを道幅一杯にトラックやダンプカーが走ることで、軒先が瓦もろとも剥ぎ取られる始末で、およそ安全とは言い難い道路であった。挙げ句は、車の往来で路面に敷かれた砂利が吹き飛ばされることで、民家の戸や障子が傷つけられるため、被害防止のために金網を付けるか、日中でも雨戸を閉める家も少なくなかった。そして町を抜ければ、歌川広重の東海道五十三次、あるいは東海道中膝栗毛に登場する松並木の牧歌的光景が広がり、これでは到底、戦後の新生日本を背負って立つ大動脈の役割を国道1号に着せることは出来なかった。 昭和30年代は、自動車交通の異常な進展に対して道路条件の改善が進まなかった時代である。昭和20年代には自動車の通行がほとんど見られなかった農山村にも自動車が入り込み、大小の型の貨物自動車が通過するようになった。行き交う交通は、10トン級の大型トラックから、軽三輪自動車、原付自転車をはじめ、1960年(昭和35年)頃までは東京銀座の繁華街さえ荷馬車が通行していた。国道1号においても、道路を走り抜く交通は自動車だけではなかった。牛車、馬車、自転車、人間が走り、そこへ大型バスがすれすれにすれ違うという状況で、こうした緩速交通に邪魔されることから、国道1号の一日に走りうる距離はせいぜい220 km(東京 - 静岡市清水区間に相当)が限界であった。なお、1960年(昭和35年)末に、1964年開催の東京オリンピック大会の事前視察に来日したローマの新聞記者達は「日本の交通状況は狂的といってよいほどに悪く、果たして、オリンピック大会が実施できるかと思うほどに悪い」と本国に打電している。一方で、その2年後に来日したフランス人記者達は、「日本の自動車生産施設の整備および生産体制の充実は見事というほかない」と評したが、これなど、当時の道路状況の劣悪さと、躍進する自動車交通のアンバランスさを象徴的に捉えたエピソードである。 その後、建設省によって大規模な改良が施されたが、その努力を突き破る勢いで遠距離の自動車交通が急増し、日に日に国道1号の交通状況は悪化した。かつて「ゴールデンロード」と呼ばれたこの道路は、この時に至って「倒壊道」とあだ名された。建設省がまとめた1965年度全国交通量調査では、国道1号の全延長636 kmの約86パーセントにあたる547 kmが混雑度100パーセントを超え、そのうちの272.8 kmが許容量の2倍に到達するという凄まじさであった。特に、京浜間、藤沢 - 小田原間、清水 - 静岡間、浜松市内、岡崎 - 名古屋間で顕著で、トラックの平均時速は 37 km/hという低速ぶりであった。こうした混雑によって、東京 - 大阪間における大型トラックの走行時間は、当時の標準15 - 16時間が18時間に増加し、事故発生のあかつきには20時間まで伸びるに至った。その上、ひとたび大雨が降ればところによっては立ち往生が発生し、時間を浪費したトラックが遅れを取り戻そうと空いている区間を猛スピードで飛ばして事故に至るケースが多発した。なかでも当時の新聞記者が国道1号の上で僅か200 km程度を往復した中で、トラック事故の光景を一日に三度目撃したという。それほどに国道1号の悲惨な事故は日常的で、警視庁の1964年度の主要国道の事故件数(重傷、死亡)において、国道1号はそのトップとなった。建設省が中央道案よりも東海道案を優先的に考えていたのは、こうした国道1号の逼迫によった。 ワトキンス調査団は名神の調査のために来日したが、それは最終的に東京 - 名古屋 - 神戸間の高速道路の実現を見据えて調査したことで、ゆえに東京 - 名古屋間の国道1号の調査も行っている。その調査を元に調査団が下した結論とは次の通りである。国道1号が線形改良、路線の拡幅、完全舗装に動き出していることは評価するが、国道1号がいかに改良されようとも、今後増加する自動車交通を吸収することは不可能である。古い道路の最悪の点を変えるだけで近代的道路を造ることは出来ない。新しい位置の新しい道路だけが自動車時代の求める便宜を供与することができる。つまり、国道1号とは全くの別路線による、完全出入制限を行って緩速交通(人間、自転車、手押し車、荷牛馬車)を排した自動車専用道路を造ることが経済の発展に有効であることを、アメリカのターンパイクを引き合いにして報告した。調査団の脳裏には、かつてU.S1号線が20 - 30年間にわたる渋滞解消の応急対策と数百万ドルの経費投入を結局水泡に帰せしめた失敗がよぎり、このままでは国道1号もその轍を踏むことに警鐘をならした。つまり、国道1号にいかに金をかけて改良を行っても効果は上がらず、増える需要によって早期に陳腐化して投資ロスとなる恐れがあるため、それを回避するには近代的規格の道路が必要であると勧告した。また、この時点で東海道案が中央道案に押され気味であったことに触れて、海岸に沿う高度の人口密集地帯における交通混雑を解消するには、中央道にその役割は期待できず、ほぼ東海道に並行する高速道路が依然として必要であると報告した。
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