中央区佃とは? わかりやすく解説

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佃 (東京都中央区)

(中央区佃 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/06 01:58 UTC 版)

日本 > 東京都 > 中央区 >
町丁
佃の一戸建て民家(右)と高層マンション(左)
北緯35度40分04秒 東経139度47分06秒 / 北緯35.667875度 東経139.785028度 / 35.667875; 139.785028
日本
都道府県  東京
特別区 中央区
地域 月島地域
人口情報2023年(令和5年)1月1日現在[1]
 人口 14,985 人
 世帯数 7,712 世帯
面積[2]
  0.321056224 km²
人口密度 46674.07 人/km²
郵便番号 104-0051[3]
市外局番 03(東京MA[4]
ナンバープレート 品川
ウィキポータル 日本の町・字
ウィキポータル 東京都
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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(つくだ)は、東京都中央区町名である。

石川島と佃島 葛飾北斎
永代橋 佃 歌川広重

概要

江戸時代初期、摂津国佃村の漁師が拝領して造成した島が佃島と呼ばれるようになり、明治になってその北側の石川島合併して現在の町名「佃」となった[5]

寛永年間(1624年-1644年)に摂津国西成郡佃村(現大阪市西淀川区)の漁師数十名が江戸幕府より鉄砲洲沖、大川(隅田川)河口部の干潟を拝領し、周囲を石垣で固めて100間(180m)四方の島を築造し1644年正保元年)に完成し佃島と命名したと伝わっている。[6][7]

現在は埋立地の拡大により川の河口は3kmほど南西に移動している[8]

1990年代には超高層住宅街の先駆けともなった。

だが、佃には今も風情溢れる狭い路地が残っており、これは人の温かさを感じられるコミュニティ空間として機能している[9]

歴史

東京の佃は、大阪の佃と深い縁がある。

大阪の佃と東京の佃の縁に関する説明は、1766年に江戸で書かれた佃島由緒書に書かれるなどして東京で伝わっている話と、大阪の神社などで伝えられている話で食い違いがある。どれが真実か分からないので、全て併記する。

大阪の佃の地名については、貞観年間(859年-877年)にすでに佃と呼ばれていたとする伝承と、慶長年間(1596年-1614年)に徳川家康が命名したとする伝承があり[10]、大阪の佃の命名の時期ははっきりしない。

一説によると、そもそも天正10年(1582年)の本能寺の変で家康が急遽帰国する際に、家康を助けるために大阪の佃の漁民が舟を出したことが、そもそもの家康と大阪の佃の漁民の縁だと言われている[11]。家康が摂津国の神崎川を渡ろうとした際、佃の漁師(庄屋)だった森孫右衛門が舟を貸してくれたおかげで三河国岡崎城に帰還でき、徳川家とこの漁民の間に強い絆が出来たという[12][13][14]

一方、大阪で伝えられた話では、経緯は天正14年(1586年)に徳川家康が摂津国の多田の廟(現在の兵庫県川西市多田神社[15])に参詣する際、大阪の田簑嶋(たみののしま)と呼ばれていた地の漁民神崎川渡船を務めたことに始まる、という[16]。一説には、家康はほうびとして全国での漁業権と税の免除を認める一方、田も作るよう命じたことから、地名を田簑嶋から佃に改めた、という[16]。(だが、前述のように、大阪の佃は貞観年間(859年-877年)にすでに佃と呼ばれていたとする伝承もある。)

明和3年(1766年)に書き上げられた「佃島由緒書」(つくだじまゆいしょがき)の写しには、上述の縁で天正18年(1590年)の家康関東入国の際に、佃村の名主の森孫右衛門(もり まごえもん)が家康の供を命じられ、二代将軍徳川秀忠の時代に、森孫右衛門と隣村の大和田村(現在の大阪西淀川区)の漁民33人が江戸にやってきた、と書かれている[11]。(「佃島由緒書」の文面は『都市紀要』26に収められている。[11]

一方、大阪の神社に伝わる話では、天正18年(1590年)8月の家康の関東下向の際、大阪の佃の漁夫33人に加え、田蓑嶋神社宮司の平岡正太夫の弟の権太夫好次は田蓑嶋神社から分霊して江戸へ向かい、安藤対馬守重信、石川大隅守の邸内に一時奉祭した、と伝わっているという[16]

その後、彼らは鉄砲洲(の沖の干潟、あるいは小島)を拝領し(造成が完了した時に)、大阪と同じ佃と名付けたという[16]

なお、その干潟あるいは小島がもともと何と呼ばれていたかに関して、江戸後期の「江戸名所図会」には「文亀年間(1501年-1504年)の江戸の旧図には向島とある」と書かれている[17]

正保3年(1646年)6月29日には住吉四柱大神と徳川家康を祀り住吉神社となった[16]

江戸の佃島は慶長7年(1602年)、摂津国佃村と大和田村からの34人の入植を契機とし[18]、正保元年(1644年)に隅田川河口・鉄砲洲の干潟100間四方の埋め立てによって出来た漁村である[19]。佃村漁民の関東での漁労活動は、当時多く見られた近世の畿内漁民の関東進出の一角ともされる[20]

佃村の漁民たちは自由に漁業を営む権利や[21]年貢免除の特権を獲得し、江戸中期においても隔年で本国と江戸を行き来し御用を務めていたとされる[22]。漁民が移り住んだ地で、古くから佃煮でも有名である[23](佃煮の由来については諸説あり佃煮#歴史を参照)。

石川島の歴史

一方、中世期には隅田中川の河口部に位置していた島(16世紀初頭の文亀古図にも見られ、森島、鎧島などと呼称されていた)を、寛永3年(1626年)、旗本石川八左衛門重次徳川家光から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称されるようになった[24][25]

現在の佃1丁目・佃2丁目北部は、上記の佃島と石川島の場所に該当する。

明治期

幕末水戸藩により創設された石川島造船所が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、後のIHIの造船所になった。1979年(昭和54年)に操業停止し建物は解体された。旧来の石川島の部分に該当する。

昭和期

1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で、8棟の超高層住宅を中心とする大規模再開発「大川端リバーシティ21」の整備が行われた。


その結果現在の佃は、風情溢れる古い街並みや路地が残る旧佃島のエリアと現代風の高層マンションがそびえ立つ旧石川島エリアが対照的な景観を作り出している。

町名の変遷

明治時代に南に拡張され、1896年(明治29年)までに、旧来の島部(佃島(現在の佃一丁目および佃二丁目北部))と、明治期における埋立部(新佃島西町(現在の佃二丁目南部)および新佃島東町(現在の佃三丁目))を併せた、現在に至る町域が確立した[26]

旧町名の「佃島」・「新佃島西町」・「新佃島東町」のうち、佃島には丁目がなく、新佃島西町には一丁目から三丁目が、新佃島東町には一丁目・二丁目があった。新佃島西町と新佃島東町は、佃川(現在の新月陸橋の位置)から佃大通りまでの区域が一丁目、佃大通りから現在の八重洲通りまでの区域が二丁目、そして新佃島西町のみ現在の八重洲通りから隅田川派川までの区域が三丁目だった。新佃島西町と新佃島東町の境は、清澄通りだった。

その後、1967年(昭和42年)3月1日の住居表示の実施により、佃一丁目から三丁目が新設された。新町設置に際して、中央区は「佃」の漢字当用漢字に入っていないことを理由に、町名を「津久田」(「つくだ」の読みより)・「津久多」(「つくだ」の読みより)・「住江」(住吉神社より)・「相生」(相生橋より)・「三角」(佃島の形状より)などに変更しようとしたが、地元の町内会を中心として作家や評論家などが反対運動を起こしたことにより、「佃」の漢字の使用を継続することとなった。旧佃島は、現在の八重洲通りから新月陸橋までの区域から現在の中央区立佃島小学校・中央区立佃中学校の敷地の区域およびその他一部区域を除いた部分が佃一丁目とされた。旧佃島のうち佃一丁目とならなかった区域(現在の八重洲通りから隅田川派川までの区域・現在の中央区立佃島小学校と中央区立佃中学校の敷地の区域・その他一部区域)と旧新佃島西町の全域は、佃二丁目とされた。旧新佃島東町は、そのまま全域が佃三丁目となった。

地理

河川・橋・堀

地価

住宅地の地価は、2025年令和7年)1月1日公示地価によれば、佃3-3-9の地点で254万円/m2、佃3-11-13の地点で113万円/m2となっている[27]

世帯数と人口

佃二丁目の大川端リバーシティ21

2023年(令和5年)1月1日現在(中央区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
佃一丁目 1,345世帯 2,726人
佃二丁目 5,205世帯 10,428人
佃三丁目 1,162世帯 1,831人
7,712世帯 14,985人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[28]
8,449
2000年(平成12年)[29]
10,540
2005年(平成17年)[30]
12,171
2010年(平成22年)[31]
12,975
2015年(平成27年)[32]
13,650
2020年(令和2年)[33]
14,912

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[28]
3,468
2000年(平成12年)[29]
4,875
2005年(平成17年)[30]
6,044
2010年(平成22年)[31]
6,193
2015年(平成27年)[32]
6,621
2020年(令和2年)[33]
7,226

学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2025年4月現在)[34][35]

なお、2025年(令和7年)4月1日に通学区域が変更され、[35][36][37]、この通学区域変更により佃3丁目の全域が月島第一小学校の通学区域から佃島小学校の通学区域に変更された。そのため、以前より佃島小学校の通学区域であった佃1丁目・佃2丁目も含めて、佃全域が佃島小学校の通学区域となった。なお、中学校については従前通り佃全域が佃中学校の通学区域である。

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[38]

丁目 事業所数 従業員数
佃一丁目 94事業所 641人
佃二丁目 148事業所 3,232人
佃三丁目 44事業所 270人
286事業所 4,143人

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[39]
274
2021年(令和3年)[38]
286

従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[39]
3,379
2021年(令和3年)[38]
4,143

主な企業

施設

教育

公園

施設

観光

文化財

国登録有形文化財

旧飯田家住宅店舗兼主屋

文化財保護法による登録有形文化財(建造物)2024年(令和6年)11月22日答申[40]。保存に当たっては、建物の所有者・地元有志・学識経験者らによる「佃島旧飯田家住宅活用委員会」が発足した。この委員会により学術調査が実施され、さらにREADYFORにおけるクラウドファンディングを経て、登録に至る[41]

東京都指定文化財

佃島盆踊り(念仏踊り)

東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能)。1976年(昭和51年)1月16日指定[42]。指定名は「佃島の盆踊」。

毎年7月13日7月14日7月15日に、佃小橋付近で実施される。無縁仏水難による仏の供養が目的であるため、踊る人はまず会場に設けられた仏壇で手を合わせる。音頭を取る人が太鼓に合わせての上で歌い、踊る人はその櫓を輪になって囲んで踊る。

江戸幕府は治安維持政策のために、江戸の中心部ではこの佃島盆踊り(念仏踊り)を唯一の例外として、他で行われていた踊りを禁じた。そのため、東京中心部において江戸時代から現在まで続く唯一の盆踊りである。

文化財の所有者は「佃島盆踊保存会」(保存会)とされ、この会が踊りの継承・伝承の役割を担うとされている。しかし2017年平成29年)11月に、別団体「歴史と伝統を守る佃島盆踊りの会」(盆踊りの会)が地元住民有志によって設立された。保存会と盆踊りの会は対立関係にあり、中央区が仲裁を試みている。2018年(平成30年)のには、両団体が別々に盆踊りを主催したため、同じ場所で2度の盆踊りが開催された。

中央区指定文化財

以下には、佃には関係しているが、所在地が佃ではない文化財が含まれる[43]

  • 5.佃島沽券絵図 控
  • 7.住吉講の獅子頭(龍虎・黒駒)

中央区民文化財

以下には、佃には関係しているが、所在地が佃ではない文化財が含まれる[43]

  • 1.住吉神社水盤舎
  • 4.陶製 住吉神社扁額
  • 8.佃島渡船場跡
  • 12.白魚献上箱
  • 13.住吉神社大祭の獅子頭宮出し
  • 25.板絵着色蘭陵王図額
  • 26.佃浪除稲荷神社の力石
  • 33.木板金地着色蘆鷺図額
  • 52.佃島渡船関係文書
  • 54.住吉神社文書
  • 66.紺糸威丸胴具足 附 具足櫃
  • 69.住吉神社神輿
  • 75.海水館跡
  • 79.佃島沽券絵図 控

交通

バス

道路

関連する人物

佃を題材・舞台・背景とした作品

江戸時代の浮世絵落語から、昭和・平成・令和の芝居やドキュメンタリー番組、テレビドラマロケ地等として登場する作品、テレビCMなどまで佃が登場するものは数多い。古いほうから掲載。

浮世絵

落語

小説・随筆

小説
随筆
  • 『佃島月島游記 都会の島の物語』 - 岸川真作、2008年初版。

芝居

  • 『佃の渡し』 - 1957年(昭和32年)初演。作者と演出北條秀司、演者は花柳章太郎佃の渡しが舞台の芝居の演目であり、「花柳十種」の一つ。後述の楽曲『佃の渡し』とは舞台が同じだけであり、無関係。

ドキュメンタリー

テレビドラマ

映画

漫画

アニメ

楽曲

  • 『佃の渡し』(2014年、平成26年) - 歌手千葉一夫佃の渡しが舞台の演歌。前述の芝居『佃の渡し』とは舞台が同じだけであり、無関係。

季語

その他

日本郵便

管轄等

画像一覧

関連項目

参考文献

脚注

出典

  1. ^ a b 中央区の人口データ(町丁目別世帯数男女別人口)” (XLSX). 中央区 (2023年1月1日). 2025年3月31日閲覧。 “(ファイル元のページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2025年3月30日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b 佃の郵便番号”. 日本郵便. 2025年3月9日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  5. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佃島」
  6. ^ 日本歴史地名大系 「佃島」
  7. ^ 改訂新版 世界大百科事典 「佃島」
  8. ^ 隅田川はどんな川? Archived 2012年6月12日, at the Wayback Machine.,2015-05-10閲覧
  9. ^ 小菅智也「佃・月島の路地空間に関する研究」
  10. ^ 大阪市西淀川区「西淀川区の町名と由来」
  11. ^ a b c 大石学『地名で読む江戸の町』PHP出版、2013年、pp.166-167「佃島」の章。
  12. ^ [1]
  13. ^ [2]
  14. ^ [3]
  15. ^ 地域の思いと歴史を伝えて半世紀~佃小学校 東京の佃島小学校との交歓会~”. 大阪市. 2023年10月7日閲覧。
  16. ^ a b c d e 沢 勲、西山 正明、石田 信也、宮本 正明「[4]」『大阪市西淀川区、田蓑神社(869年)の由来と社殿測量』、洞窟環境NET学会。 
  17. ^ 日本歴史地名大系 「佃島」
  18. ^ 伊藤寿和ほか「新出の「佃島」関連の近世の絵図群に関する基礎的研究」 『日本女子大学紀要. 文学部』70 日本女子大学、2021年3月、82頁。
  19. ^ 伊藤、2021年、81頁。
  20. ^ 古田悦造 「近代佃島における集落形態の一考察」 『東京学芸大学紀要 第3部門 社会科学』33 東京学芸大学紀要出版委員会、1981年12月、39頁。
  21. ^ 有末賢 「都市祭礼の重層的構造:佃・月島の祭祀組織の事例研究」 『社会学評論』33(4) 日本社会学会、1983年、40頁。
  22. ^ 伊藤、2021年、84頁。
  23. ^ 中央区観光振興ビジョン2012”. 東京都中央区. 2023年10月7日閲覧。
  24. ^ 『新訂 江戸名所図会〈1〉』ちくま学芸文庫 p.204
  25. ^ 江戸名所図会 鎧島.
  26. ^ 佃地区 町名の由来 - 中央区ホームページ,2015-05-10閲覧
  27. ^ 国土交通省 不動産情報ライブラリ”. 国土交通省. 2025年3月19日閲覧。
  28. ^ a b 平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
  29. ^ a b 平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
  30. ^ a b 平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
  31. ^ a b 平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
  32. ^ a b 平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
  33. ^ a b 令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
  34. ^ 区立小学校通学区域”. 中央区. 2025年4月6日閲覧。
  35. ^ a b 【令和7年度】月島地域における通学区域の変更”. 中央区. 2025年4月6日閲覧。
  36. ^ 新しい通学・通園区域 - 中央区
  37. ^ 月島地域における児童数増加に伴う対応について 及び 月島第三小学校への特別支援学級設置について - 中央区
  38. ^ a b c 経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
  39. ^ a b 経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
  40. ^ 文化審議会の答申(登録有形文化財(建造物)の登録) - 文化庁
  41. ^ 佃島に建つ築100年の魚問屋 旧飯田家住宅保存活用プロジェクト (佃島旧飯田家住宅活用委員会) - READYFOR
  42. ^ 佃島の盆踊 - 東京都文化財情報データベース
  43. ^ a b 中央区文化財 - 中央区
  44. ^ さようなら、大賀さん [プライベート] パルナソス・アソシエーション。 2015-05-10閲覧
  45. ^ 財団法人小野田自然塾理事長 小野田寛郎 2017-10-25閲覧
  46. ^ "川辺の日だまり〜東京・佃〜". NHK. 2023年1月7日. 2023年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月7日閲覧
  47. ^ 「シン・ゴジラ」でゴジラが迂回した理由…樋口監督も登壇「大都市に迫る 空想脅威展」展示&トークショーレポ - 月刊ニュータイプ(2016年10月31日付)
  48. ^ 郵便番号簿 2024年度版” (PDF). 日本郵便. 2025年3月9日閲覧。

外部リンク




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