世界恐慌: 1929年-1941年
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「アメリカ合衆国の経済史」の記事における「世界恐慌: 1929年-1941年」の解説
詳細は「世界恐慌」、「ニューディール政策」、「国際決済銀行」、および「金解禁」を参照 連邦準備制度理事会は銀行が淘汰されるのをただ見ていた。脆弱な銀行システムの存在により、預金者は自分の預金を守ろうと不安に駆られ、取り付け騒ぎを起こした。一旦、取り付け騒ぎが起こると銀行の連鎖破綻の可能性もあり、銀行は預金に対する準備率を引き上げた。1930年から1933年3月までの間に4回の銀行恐慌が発生し、その間に現金・預金比率と準備・預金比率が上昇したため、貨幣乗数は低下、ハイパワードマネーの上昇にもかかわらず、貨幣乗数とハイパワードマネーの積である通貨供給量は1933年には1929年の3分の2の水準にまで落ち込み、物価を急激に下落させた。 ハーバート・フーヴァー大統領は、貿易不振を世界恐慌の原因とみなし、貿易振興の観点からフーヴァーモラトリアムを提唱し、第一次世界大戦の賠償金の支払い猶予を提唱したが一方で、大増税法案を通して落ち込む歳入を増やそうとし、保護主義のスムート・ホーリー関税法に署名したが、これはカナダ、イギリス、ドイツなど貿易相手国の報復を呼んだ。アメリカ経済は不況に陥った。1932年までに失業率は23.6%にもなった。状況は重工業、製材業、輸出用農産物(綿花、小麦、タバコ)および工業で悪かった。ホワイトカラーや軽工業ではそれほど悪くなかった。 フランクリン・ルーズベルトは1932年の大統領選のキャンペーンに「3つのR - 救済、回復および改革」(Three R's - relief, recovery and reform.)を主唱し、彼はそのスピーチの中で“ニュー・ディール”の用語を造った。この大統領選は政策論争に終わらなかった。1932年3月4日からペコラ委員会が発足して暗黒の木曜日を引き起こした原因を調べ始めた。主催はニューヨークの検事補フェルディナンド・ペコラが務め、委員会の報告は連日新聞の一面を飾った。スキャンダルの嵐が吹き荒れ、一筋のかまいたちが全米の堪忍袋を引き裂いた。一つの銀行シンジケートにおいて、ジョン・モルガンの息子ジャックが1930年から3年間、また19人の仲間が1931年と翌年、連邦所得税を支払っていなかった。ジャックはイギリスで所得税を支払っており、先の19人は保有株の損失で税金の控除を受けていた。これら自体は何も違法性がなかったが、ジャック・モルガンがインサイダー取引に手を染めて、公開・上場前に株をまとめて引受け仲間へ安く売却していたことが分かった。所得税に関する情報は、インサイダー情報を共有するシンジケートの範囲や基盤に関係した。インサイダーの具体的内容はこうである。JPモルガンは主幹事として1929年にアレゲーニー・テクノロジー(リンク先は醜聞倒産してから再生をとげた後継企業)など3社の持株会社が発行した新株を引受けてコネクターに払い下げていた。アレゲーニーの場合、払い下げ価格が1株20ドルだった。コネクターはそれらを市場価格35ドルで売却した。コネクターには、カルビン・クーリッジ、ウィリアム・ウッディン、チャールズ・リンドバーグなどがいた。 ルーズベルトは多様な助言者集団(ブレーントラスト)に大きく依存しており、彼等がニューディール政策と呼ばれる多くの計画で問題を解決していくことになった。1933年3月4日ルーズベルトが大統領に就任したその日、金融恐慌は全米に広がり、3月6日から9日までの4日間全米の銀行に休業命令が出された(バンクホリデー、モラトリアム)。ルーズベルトは就任から最初の100日間で重要法案を議会に承認させ、恐慌克服に動き出した(いわゆる「百日議会」)。農家経営の安定のために農業調整法(AAA)、失業対策のためのテネシー川流域開発公社(TVA)に代表される公共事業や連邦緊急救済法(FERA)、政府が企業経営に関与し、生産調整と価格の安定化により企業経営の改善を図る一方、労働者の団結権や団体交渉権を保証した全国産業復興法(NIRA)、また、金融制度安定のために、証券業務の規制を強化した1933年証券法、商業銀行と証券業務の分離や預金救済のために連邦預金保険公社(FDIC)の創設などを規定したグラス・スティーガル法(1933年連邦銀行法)等である。同法と証券取引委員会根拠法の立法事実として、ペコラ委員会の調査報告は国民の記憶に深く刻まれている。経済学上ニューディール政策は社会政策としての側面がしばしば強調される。しかし正しく評価するならば、前掲のウィリアム・ウッディンを例とするしがらみがありながら、証券界の腐敗という問題の核心には一応の措置を講じたものということになる。 ニューディール政策は1933年の諸立法で完結しない。1934年全国住宅法(National Housing Act of 1934)に定めた条件で、連邦住宅局(Federal Housing Administration)が住宅モーゲージ貸付の債務不履行による債権者の損失を債務者の保険料で保険するようになった。この制度こそ恐慌の起因に作用した。保険対象は、全国住宅法第一章のリフォーム貸付と、第二章においては原則として203条 (b) 項の1-4家族用新築貸付であった。前者が保険する程度は融資額の20%(後に10%)であったが、当分保険料の徴収はなかった。後者は最初から保険料が徴収された。後者ではデータ蓄積に伴いモーゲージのリスク格付けが進んだ。これがモーゲージ証券化の端緒であった。そして連邦政府自らがモーゲージを流動化し第二次市場を形成しようとした。1935年に設立されたRFCモーゲージ・カンパニー(RFC Mortgage Company)と、1938年に設立されたワシントン国法抵当金庫(National Mortgage Association of Washington, 連邦住宅抵当公庫の起こり)が連邦住宅局保険モーゲージを購入した。商業銀行・相互貯蓄銀行(Mutual savings bank)・生命保険会社が保険制度の恩恵を受けた。貯蓄貸付組合は恩恵が少なかった。 国際経済面では1933年4月19日の金本位停止と平価の切り下げにより通貨価値の高騰はようやく安定を見せた。1934年1月には金平価を1オンス35ドルとする金準備法を制定した。南北戦争中から維持されていた旧平価1オンス20.67ドルは59%にまで切り下げられたのである。こうして金本位制から離脱しドル安方向に為替を誘導した。一方ではデフォルト続きのラテンアメリカ諸国と善隣外交を進めドルブロックを形成し、イギリスのスターリングブロック、フランスのフランブロック、日本の円ブロックに対抗した。 政府の支出はフーヴァー政権の1932年でGNP比8.0%から1936年にはGNP比10.2%に増えた。ルーズベルトが「通常」予算を均衡させる一方、緊急予算は国債で賄われ、国債は1932年GNP比33.6%からGNP比40.9%まで増えた。赤字予算が何人かの経済学者、中でも著名な者はイギリスのジョン・メイナード・ケインズによって推奨された。ルーズベルトはケインズに会ったが、その推奨には注意を払わなかった。統計図表を書き続けていたケインズと会った後で、ルーズベルトは「彼は政治経済学者というよりも数学者に違いない」と注釈した。ケインズもルーズベルトの爪の形が気になるあまり自分が何を説明したかよく覚えていなかったという。 失業対策事業や公共事業への支出がアメリカ経済を回復させるだけの刺激を与えたその程度、あるいはそれが経済に悪影響をもたらしたのかが今でも議論されている。経済の健全さ全体を国内総生産で定義するならば、アメリカは1934年までに回復軌道に乗り、1936年までに完全に回復したが、1937年不況で失業率は1934年の水準まで戻った。不況のさなかに『アメリカの60家族』という本が出版され、合衆国の独占的な経済構造を暴露した。 ブローダス・ミッチェルは「大半の指標が1932年夏まで悪化し、経済的にも心理的にも不況の底と呼んでいいかもしれない」と要約した。経済指標ではアメリカ経済が1932年夏から1933年2月まで底を突き、その後着実に急速な回復を遂げ、それが1937年まで続いたことを示している。工業生産に関する連邦準備制度指標は1932年7月1日に最低点52.8となり、実質的に1933年3月1日の54.3まで変化は無かった。しかし、1933年7月1日までに85.5まで達した(1935年から1939年の指標を100とする。これを2005年でみれば1,342となる)。ただし、こうした指標の値は必ずしも庶民の実感を伴ったわけではなかった。 表2: 世界恐慌の間のデータ1929年1931年1933年1937年1938年1940年実質国内総生産 (GDP) 1 101.4 84.3 68.3 103.9 103.7 113.0 消費者物価指数 2 100.00 88.88 76.02 84.21 82.46 81.87 鉱工業生産指数 3 109 75 69 112 89 126 通貨供給量 M2(10億ドル) 46.6 42.7 32.2 45.7 49.3 55.2 輸出 (10億ドル) 5.24 2.42 1.67 3.35 3.18 4.02 失業率 (民間労働人口に対する%) 3.1 16.1 25.2 13.8 16.5 13.9 1 単位:10億ドル。物価水準は1929年におけるドル価値基準2 1982年-84年を基準とした都市部消費者物価指数を1929年=100.00に換算。3 鉱工業生産に関する連邦準備制度指標。1935年から1939年の指標を100とする。
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