世界恐慌とナチスの台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「世界恐慌とナチスの台頭」の解説
1929年10月、米国市場が暴落し世界恐慌が起こった。ドイツ国家人民党は1929年、ユダヤ人の入党を取りやめる。なお、党の院内総務R.G.クヴァーツは半ユダヤ人だった。1929年12月のテューリンゲン州選挙でナチ党は11.3%を獲得し6議席を得て連立政権に加入、内相と文相に就任した 1929年、エルンスト・ユンガーはドイツ民族に内在する形態と美という理想は、ユダヤ的形姿を排除するとした。哲学者ルートヴィヒ・クラーゲスは『魂の対抗者としての精神』(1929)で保守革命の立場から科学的合理性に対して精巧な攻撃をし。機械は生を破壊するが、生を創造することはできないと機械文明やテクノロジーを批判した。ドイツ社会民主党にいたエルンスト・ニーキッシュ (Ernst Niekisch)はナショナルボルシェヴィズムを主張し、生に敵対的なテクノロジーを批判した 1930年3月、ヒンデンブルク大統領は賠償を緩和するヤング案に署名したが、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「ドイツ国民の奴隷化」だとして反発し、ナチ党は過激な行動で一挙に名をあげた。1930年5月、フランスのブリアン首相がヨーロッパを統一する計画を発表すると、ドイツは現状固定化になると反発した。9月の国会選挙でナチ党は650万票を獲得して、107議席の第二党となった。第一党の社会民主党は後退し、ドイツ国家人民党、ドイツ人民党は票を減らし、共産党は支持を伸ばした。選挙期間中にナチ党支持の国軍ウルム駐屯地の士官3人が軍事クーデターを計画していたという嫌疑で国家反逆罪に問われた裁判でヒトラーはナチズムは合法的に権力を奪取し、ナチ政権下の憲法裁判では「1918年11月の罪」(ドイツ革命のこと)が問われるだろうと法廷で述べ、傍聴人から歓声があがった。1930年10月5日のブリューニング首相との会談でヒトラーは「共産党、社民党、フランス、ロシアを絶滅させる」と語った。 1931年3月、ドイツはヴェルサイユ条約で禁止されたオーストリアとの関税同盟を発表した。しかし、1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディートアンシュタルト(ロスチャイルド家創立)が破綻すると、金融危機がはじまった。ドイツ=オーストリア関税同盟を非難していたフランスはクレディートアンシュタルトへの借款を拒否し、同盟の成立を阻止した。アメリカなど諸外国の資本はドイツから撤退し、続けて大手紡績会社が倒産すると主力銀行の一つダナート銀行が破産したため、ドイツ政府は7月に金融機関に休業を命じた。しかし、恐慌は加速し、1931年末には失業者は600万人近くにのぼり、1932年にはホームレスが40万人、失業率は約30%となった。労働組合の行動力は低下し、就業者と失業者の溝が深まり、鉄兜団は国粋政府樹立をとなえた。 ラインハルト・ヴレ『北方人の使命』(1931)で「罪の汚れのないドイツ人は貴族であり、その祖先は農民である」とした。 1932年4月の大統領選挙に際して、ブリューニングとヒトラーはヒンデンブルク大統領の続投を目指して交渉し、ブリューニングはナチ党を弱めようとし、ヒトラーはブリューニングの罷免を条件に支持すると交渉したが、ヒンデンブルクは拒否した。ヒトラーは出馬しなければ支持者を失うとおそれ立候補した。ヒンデンブルクは社民党や中央党の支持を得て53%の票を獲得し、ヒトラーも37%の1300万以上の票を獲得した。同時期の1932年4月州議会選挙ではブリューニング首相と国防相グレーナーによってナチ突撃隊と親衛隊の活動が禁じられたが、左翼の準軍事組織が適用外であったのでナチスは当局は偏っていると批判した。州議会選挙では、プロイセンとアンハルト州においてナチ党は第一党となった。 ヒンデンブルク大統領側近のクルト・フォン・シュライヒャー将軍は軍とナチ党による政権を計画しており、ブリューニング倒閣運動を展開した。1932年5月、国防相グレーナーの国会演説中で騒ぎがおき、シュライヒャー将軍が軍の支持は失ったと告げるとグレーナーは辞任した。5月29日、ヒンデンブルクが辞任を求めると即座にブリューニングは辞任した。同日午後、ヒンデンブルクはヒトラーと会談し、突撃隊禁令の撤回などが約束された。続けてシュライヒャー将軍は旧友フランツ・フォン・パーペンに打診し、パーペンを首相とした「男爵内閣」が6月1日に成立した。ヒンデンブルク大統領は国会を解散し、総選挙が7月31日に行われることになった。 5月から6月にかけてナチ党はオルデンブルク州、メクレンブルク=シュヴェリーン州、ヘッセン州で44〜49%の得票率を記録し、突撃隊と親衛隊の禁令も解除された。6月から7月にかけてドイツ各地でナチ党員と共産党員による衝突と殺人事件が多発し、相互に犠牲者を出していった。7月17日、プロイセン州アルトナでの血の日曜日事件では突撃隊のパレードに対して共産党員が発砲し、17人が死亡、64人が負傷した。社会民主党の牙城であるプロイセン州では、社民党のオットー・ブラウンが州首相を務めていたが、パーペン内閣は血の日曜日事件の責任などを理由に、ブラウン州首相を解任し、パーペンがプロイセン総督となった。社民党は抵抗できなかった。 1932年7月ドイツ国会選挙では国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となり、議席数230となった。ヒトラーは自分を首相とする内閣改造案をシュライヒャー将軍に打診したが、ヒンデンブルク大統領は拒絶した。またヒトラーも副首相としての入閣提案を拒絶した。会談で、ヒンデンブルクは「異なる考え方をもつ者に対してこれほど寛容ではない党」に政権を渡すことはできないし、テロ行為には厳しく対応すると回答し、ヒトラーは怒りで爆発寸前だった。折しもパーペン内閣が8月9日に発効させた対テロ闘争緊急令によって、シュレージエンのポテンパ村での突撃隊による共産党員の殺害事件に対して死刑判決が出された。ナチ党は「血の判決」だと非難したため、パーペンは政治的判断で減刑に応じた。ナチ党は対テロ闘争緊急令をマルクス主義に対するものと考えて歓迎しており、フェルキッシャー・ベオバハター紙はナチ政権での緊急令では共産党と社民党幹部は逮捕され、強制収容所に収容されると論じていた。 9月12日の本会議で共産党議員トルグラーがパーペン内閣不信任案を提出した。賛成512、反対42の圧倒的多数で不信任案が可決され、パーペン内閣を信任したのはドイツ国家人民党とドイツ人民党だけだった。次回選挙は11月6日に定められた。前回の選挙で資金を使い果たしたナチ党にとっては厳しい選挙戦となり、大多数のメディアはナチ党に敵対的で、ナチ党はラジオの利用も許されなかった。選挙期間中、ナチ党は保守主義者パーペンを攻撃し、またベルリン交通労働省のストライキを共産党と一緒に支持したことなどから、ナチ党を共産主義・社会主義とみなすイメージが中産階級の間で広まった。 1932年、プロイセン保健局は経済悪化による福祉削減のため断種法案を提出した。法案に先立って刑法学者ビンディングと精神科医ボーへは『生きるに値しない生命の根絶の許容』(1920)で不治の者や不治の痴呆者の安楽死の合法化を主張し、また遺伝学者バウアー、フィッシャー、レンツは1923年に民族衛生のために安楽死や断種によって劣等遺伝子を排除することを主張していた。レンツは障害児を養育することは、古代スパルタでの障害児遺棄よりも非人道的とした。プロイセン断種法案はヒトラー内閣成立によって廃案となったが、ナチ政権下の1933年7月14日に遺伝病子孫予防法が成立し、精神遅滞などの「遺伝病」者と重度のアルコール中毒者の断種が合法化された。また、プロイセン司法大臣ハンス・ケルルは、ナチズム刑法草案(1933)で安楽死の合法化を主張したが、1935年帝国司法大臣フランツ・ギュルトナーは、教会からの反発、民意の未熟、また「民族共同体」への攻撃と見なされること、すでに成立している遺伝病子孫予防法による断種政策などを理由に反対した。
※この「世界恐慌とナチスの台頭」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「世界恐慌とナチスの台頭」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- 世界恐慌とナチスの台頭のページへのリンク