錫の世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 15:31 UTC 版)
1891年までに輸出額ベースで全体の60%を占めていた銀はアメリカやドイツの金本位体制の影響によって急激に需要が冷え込んでいった。変わって急激に成長をきたしたのがスズ産業で、1902年、ボリビアのスズは輸出額で銀を抜き、1913年には輸出全体の70%を占めるに至った。 こうしたスズ産業を背景とする財閥を味方につけた自由党の政権は1920年ごろまで続いた。自由党はインフラの整備や都市の近代化を図りつつも保守党によって固められた寡頭的伝統的体制を引き継ぎ、ロスカと呼ばれる一握りの権力者が大多数の先住民を支配する身分制度的な社会構造を維持し続けた。しかし、1929年に起きた世界恐慌によりスズの輸出は低迷し、ボリビアは失業率の増加、経済的苦境などといった不安定な状況に陥った。1932年、国民の関心をそらすため、ダニエル・サラマンカ大統領は未確定国境地帯であったグランチャコの石油開発独占を目論み、パラグアイへ戦争をしかけた(チャコ戦争)。この戦争は1935年まで続いたが、アメリカの仲介によるブエノスアイレス講和条約をもって終結したが、ボリビアは24万平方キロという広大な大地と、6万5000人に及ぶ犠牲者を出す凄惨な結果となった。チャコ戦争により軍部の権威は地に堕ち、白人支配層への嫌悪感が住民の間に広がっていった。これに対応するため、1937年、ダビッド・トロ・ルイロバ政権はアメリカ系企業であったスタンダード・オイルを接収、石油公社を設立した。同時に鉱山銀行を設立してスズ輸出に伴う外貨管理を政府の管理下に置き、国家主導で経済の建て直しを実施する方針を打ち立てた。 1941年、ビクトル・パス・エステンソロ、ゲバラ・アルセらが主導し結成された民族革命運動党(国民革命運動党、MNR)は鉱山労働者との関係を築き、錫財閥との対立関係を明確に打ち出し、1943年にクーデターにより誕生したビリャロエル政権への入閣を果たした。パスは経済相に就任、労働者や農民との間に関係を広げ、寡頭支配に対抗するポピュリスト運動の基盤を作り上げた。
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