暗黒の木曜日から世界恐慌へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「暗黒の木曜日から世界恐慌へ」の解説
詳細は「世界恐慌」、「ハーバート・フーヴァー」、および「アメリカ合衆国の経済史#世界恐慌: 1929年-1941年」を参照 アメリカ資本の導入によりドイツ経済は復興し、イギリス・フランスへの賠償支払いが可能となり、イギリス・フランスはこれを対米債務にあてる、という循環が成立したことで、ヨーロッパ経済はひとまずの安定をむかえ、それが各国の国際協調外交の前提ともなっていた。 ところがアメリカでは1928年から工業生産が下降に転じ、1929年10月24日、ウォール街のニューヨーク証券取引所で株価が突如大暴落した。「暗黒の木曜日」である。 恐慌の背景には、投機熱(合衆国に集中した資金が土地や株式の投機に使われたこと)ばかりではなく、過剰な工業生産に大衆の購買力が追いつかなかったこと、保護貿易政策による国際貿易の低迷、農業が危機的状態にあったことなど、「永遠の繁栄」をほこりながらも抱えていたアメリカ経済の構造的な弱さもあった。そのため、恐慌は一時的な現象にとどまらず、長期にわたるものとなった。アメリカでは、多くの銀行や会社がつぎつぎにつぶれ、4人に1人は失業し、多くの農民も土地を失った。 第一次世界大戦後の各国の経済はアメリカと深く結びついていたため、その影響は全世界に及び、とくにアメリカ資本がヨーロッパから引きあげたことからヨーロッパ諸国も金融不安に陥って、かつてない大規模で深刻な恐慌となった。恐慌はその破壊的規模の大きさと期間の長さから、世界恐慌とよばれる。各国の工業生産は激減し、多数の失業者が現れた。 世界恐慌がはじまると、ドイツに投下されていたアメリカ資本がひきあげられ、1931年にはオーストリア最大の銀行クレディート・アンシュタルトが倒産し、ドイツ経済は破綻した。アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは、31年、賠償・戦債支払いを1年間停止するフーヴァーモラトリアムを宣言したが、効果は少なかった。フーヴァーは、「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という古典派経済学の姿勢を貫き、国内においては、政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続し、その一方で、対外的にはスムート・ホーリー法のもとでの保護貿易政策を展開し、平均関税率はアメリカ史上最高の水準となった。これにたいしてカナダはただちに報復関税を導入し、それがのちの帝国特恵関税の伏線となった。このように、スムート・ホーリー法は世界恐慌をいっそう深刻にさせた一因であると考えられている。 恐慌は資本主義諸国の経済をゆるがして、政治・社会全体の危機をまねき、各国は国内問題の対応に追われて国際問題への取り組みには消極的になった。1932年から開催されたジュネーヴ軍縮会議は見るべき成果もなく閉会し、国際連盟の活動も低迷した。こうした状況下で、それまでイタリアに限られていたファシズムの思想や運動が改めて着目されるようになった。
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