不可触賎民とは?

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不可触賎民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/07/19 04:54 UTC 版)

不可触民(ふかしょくみん)または不可触賤民(ふかしょくせんみん)とは、カースト制度(ヴァルナ・ジャーティ制)の外側にあって、インドヒンドゥー教社会において最も差別される人々である。アチュートアンタッチャブルアウトカーストもしくはアヴァルナと呼ばれ、不可触民は自分たちをダリットDalit)と呼ぶ。マハトマ・ガンディーの提唱によって、ハリジャン(神の子)という言い方がなされることもあるが、不可触民はむしろこの呼称を忌避することが多い[1][2]。独立インド初期の政治家アンベードカルはこの階層の出身で、不可触民を中心にカースト制度にしばられない仏教を広めた。

目次

概要

呼称について

不可触民の少女(アーンドラ・プラデーシュ州

ダリットは、インドの身分制度において「不可触民」の意味でアンタッチャブル、もしくはアチュートと呼ばれる。サンスクリット語ではアスブリシュヤといい、これは可触民を意味するスブリシュヤの反意語である[3]。伝統的なインド社会においては最底辺のカースト、というより、正確にはヴァルナの枠組み(ヴァルナ・ヴィャワスター[4])の外にあるため、アウト・カーストもしくはアヴァルナの呼称がある。また、「第5のヴァルナに属する者」の意でパンチャマの呼称がある。『ヴェーダ』には、「パンジャマー」や「サンダラン」、「アヴァルナ」の名で現れている。

ダリットとは、サンスクリット語で「困窮した人々」「押しつぶされた人々」「抑圧されている人々」の意であり、468のグループが存在する。俗称として、彼らの代表的なジャーティであるマハール(屠畜業者)やパーリヤ(太鼓たたき)、ときにバンギー(人糞処理の清掃人)などと呼ばれることもある[1]

不可触民のなかには、ハリジャン(神の子)の呼称は、ガンディーがヒンドゥー教の輪廻転生の教義にしたがい、現世で苦しんでいる彼らは来世で必ず良い生まれ変わりを迎えるだろうとして恩恵的、偽善的に呼んだにすぎず[1]、この呼称によってむしろ、カースト・ヒンドゥー(不可触民以外の一般のヒンドゥー教徒)社会全体が良心に目覚めたかのような印象を外界にあたえることは耐えられないと感じている者も少なくない[2]

不可触民の職業

ダリットには、皮革労働者(チャマール)、屠畜業者(マハール)、貧農、土地を持たない労働者、街路清掃人(バンギー、またはチュラ)、街の手工業者、バーリヤなどの民俗芸能者、洗濯人(ドービー)などのジャーティが含まれる。ジャーティがインドの社会秩序においてどのような地位を占めるかの基準は、人格や専門性などではなく、その職業をおこなうにあたっての接触する物体の浄・不浄の度合いによって決められているとされている。穢れは、「」「産」「」「体からの分泌物」より生じると考えられ、つぎつぎに伝染するとされてきた[1]。上記の職業は、不浄なものに触れやすいとして、伝統的に、特に低い地位におかれてきたのである[5]

不可触民のなかにも序列がある。占い師医師を兼ねるバッルバンというジャーティは、不可触民のなかで最高位を占め、「賤民中のバラモン」と自称することさえある[5]。反対に、清掃、糞尿、汚物処理専門の人びとは不可触民のなかでも最も地位が低く、卑しめられており、これらの職業は基本的に世襲であることから、不可触民のなかには、人間以下の境遇から抜け出るため、これらの仕事を放棄することが増えてきている[6]

不可触民の歴史

社会階層概念としての不可触民は、紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられる『マヌ法典』にはまだみられず[3]、歴史的には、西暦100年頃から300年頃にかけて成立したとされる『ヴィシュヌ法典』に初めて現れる。5世紀から6世紀にかけて成立したといわれる『カーティヤーヤナ法典』では、不可触民の規定がさらに明瞭なものになったところから、このころ、差別される諸集団を一括して不可触民とする考え方が定着していったものと考えられる[1][3]

『マヌ法典』には「聖典ヴェーダを読む声にシュードラが不届きにも耳を傾けたなら、熱く解けたを耳に流し込んで罰すべし」と記されている。その後、一生族(エーカジャ)に属するシュードラに対する差別は穏やかなものになっていくが、不可触民への差別はむしろ強化されていったものと考えられる[1]

不可触民を含めた身分秩序が、1,500年以上にわたって歴史的につくりだされてきたのである[7]歴史学的には、今日みられる社会階層としての不可触民の本格的な形成はインド中世社会の形成期以降であると考えられている。すなわち7世紀以降、インドでは、定着農耕社会のいっそう顕著な拡大がみられ、各地に自立的な村落共同体が形成されていったが、それにともなって山間地に居住していた諸部族が農村集落に吸収され、皮革細工や集落の清掃などに従事するようになった。そして、これと並行して形成されていくヴァルナ・ジャーティ制(カースト制)において、彼らの多くが不可触民として社会的に位置づけられるようになったと考えられるのである[3]

不可触民は、ヒンドゥー社会の中でも最下層階級であり、「触れると穢れる人間」として扱われてきた。不可触民は、触れてはいけないだけでなく、見ることも、近づくことも、その声を聞くことさえいけないとされた。また、他のヒンドゥー教徒と同じ信仰しているにもかかわらず、ヒンドゥー寺院への立ち入りが禁止され、ヴァルナに属する上位4身分のヒンドゥー教徒(カースト・ヒンドゥー)たちが使用する井戸貯水池の使用さえも禁止されていた[8]。このように、不可触民(ダリット)は、社会的に分離され、きびしい差別の被害をこうむってきたのである。

不可触制廃止と留保制度

イギリス植民地支配によって、一面では以前よりインド社会のカースト化が進行した。イギリス領インド帝国の権力はヴァルナの序列化の調停役を果たしたのであり、国勢調査報告者や地誌はジャーティの序列にしばしば言及し、また、司法は序列の証明となる慣行を登録して、随時、裁可を与えていた。このように、序列化を広く社会的に押しひろげていく要因のひとつには植民地支配があった[9]。しかし、他方では、近代化とともにカースト制批判も強まって、1919年のインド統治法では不可触民にも議席が与えられた[10]

ガンディーとアンベードカルの対立

「インド独立の父」と讃えられるマハトマ・ガンディーは、かれ自身ヴァイシャ出身であり、カースト・ヒンドゥー社会を守るために、不可触制の廃止には同意したものの、カースト制度の廃止そのものには反対した。つまり、ガンディーは、アウト・カーストを5番目のカーストに引き上げようとはしたものの、決して、アウト・カーストに属する人びとを解放しようとしたのではなかった[1]

演説するアンベードカル(1935年

それに対し、不可触民出身のビームラーオ・アンベードカル1923年7月、上級法廷弁護士として開業し、大学で講義し、さまざまな公的機関で不可触民差別の実態について証言し、新聞も発行した。さらにボンベイ州立法参事会のメンバーとしてアウト・カースト解放運動において指導的な役割を担った。1927年から1932年にかけては、支持者とともにヒンドゥー寺院への立ち入り、および、公共の貯水池や井戸の利用についての不可触民の権利の確認を求めた非暴力運動を推進した。具体的には、ナーシクのカーラーラーム寺院からの不可触民排除、また、マハード市のチャウダール貯水池からの不可触民の排除に抗議するものであった。この2つの運動には、どちらも数万人の不可触民のサッティヤーグラヒー(非暴力抵抗者)たちが参加したが、それに対し、カースト・ヒンドゥーに属する人びとは暴力的な反応を示した。チャウダール貯水池の運動は、数年にわたる訴訟を経て、下層カーストの活動家たちの法的な勝利のうちに終了した。なお、ヒンドゥー教の古来の聖典『マヌ法典』が不可触民への過酷な扱いへの大きな根拠になっていると考えていたアンベードカルは、チャウダール貯水池の運動の際に、その場で『マヌ法典』を焼いている。

アンベードカルが、不可触民の地位向上のため、植民地政府に対して分離選挙権(コミュニティの代表議員を、そのコミュニティのメンバーからなる選挙区で選出する権利)を求めたのに対し、カースト・ヒンドゥー社会の分断を恐れたガンディーは「欲望」を抑え「自己犠牲」の精神によって要求を取り下げるよう強制したため、2人の対立は深まった[11]。ガンディーが、カースト制度を理想的な分業体制であるとして擁護し、「物欲を煽る西洋文明」に対して「インド文明の精神性」を現すものだとして賞賛するのに対し、アンベードカルにとって、カースト制度は差別的な身分制度以外の何物でもなかったのである[12]

インド憲法の制定とアンベードカル

共和制に移行した1950年制定のインド憲法ではカースト差別は禁止された

1947年、アンベードカルは初代インド首相ジャワハルラール・ネルーに請われて初代法務大臣に就任し、憲法制定会議委員長を兼任した。憲法案起草の中心人物となったアンベードカルは、憲法案に不可触民制廃止を盛り込むことに成功した。同年4月29日、インド制憲議会は、「いかなる形における不可触民制も廃止し、不可触民への差別は罪とみなす」と宣言した。また、従来の不可触民を「指定カースト民」(Scheduled Castes)と呼称し、指定部族(先住民族)、下級カーストとともに、教育、公的雇用、議会議席数の三分野において一定の優先枠をあたえることとした。これを、留保制度(Reservation system)という[1]

こうして1950年に制定されたインド憲法では、法的にカースト制(ヴァルナ・ジャーティ制)を消滅させることに成功し、カースト差別は憲法上禁止された。インド憲法17条では、以下のように「不可触民制の廃止」を規定している。

  • 17条「不可触民制の廃止」
不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。不可触民制より生ずる無資格を強制する事は、法律により処罰される犯罪である。

なお、アンベードカルは、身分差別の因習を打破するため、死の2か月前の1956年10月、かれの属したマハールの人びと約50万人とともに仏教に改宗した。

不可触民差別とインド社会

不可触民差別の実態

憲法でカースト差別を禁じたにもかかわらず、そののちも不可触民差別はつづいた。

山際素男によるルポルタージュ『不可触民 - もうひとつのインド』(1981年発行)によれば、不可触民が轢逃事故にあったり、殺害されても新聞は取り合わない、不可触民が建物ごと放火されたり、虐殺されても主犯は無罪放免もしくは軽微な罰金で釈放される、カースト・ヒンドゥーたちによってイヌネコをふくむの屍肉や腐肉を無理やり食べさせられる、生まれてすぐ刺青を入れさせられる、不可触民が一日一食以上食べないように村じゅうで監視する、草履を履くことを許さない、常に裸足であることを強制する、井戸を使わせない、土地を強奪する、公然と「家畜」と呼ぶ、また、実際に家畜のように扱う、集団リンチをおこなう、優秀な不可触民青年に対していじめや嫌がらせ・辱めをおこなう、日常的あるいは公然と不可触民女性へのレイプ拷問をおこなう……など、数々の非人間的な差別や虐待の実態が記されている[13]

警察マスメディア、政府関係者も多くの場合、カースト・ヒンドゥーの側に立っており、権限を利用して証拠隠滅の先頭に立つことが多く、差別は長い間ずっと解消されてこなかったのである[13]

遺伝学的な見地からみたダリット

ダリット(ジャイプールにて)

ダリットの人口には、インド全国の膨大なカーストグループが混合している。インドは、遺伝的には世界で最も多様な国家であるにもかかわらず、不可触民については遺伝的な根拠がまったくないのであり[14][15]、この差別が社会的につくられてきたことは明らかである。遺伝的調査はさらに、全体として、インドの遺伝的グループはいかなる非・南アジアのグループとも大きな類似性を示していないことを示しており[16]、不可触民をふくむ全インド人は、まぎれもなく、また、等しく南アジアの人びとである。

「ダリット」を称する人びと

「ダリット」の言葉は近年、非常に誤った使用法がなされている。留保制度により、不可触民の一員であれば、学校に優先的に入学できるし、政府関連の仕事の一部を割り当ててもらえるなどの特典を受けることができるため、多くの貧しいインド人はこのことをインド政府からより多くの利益を得るために用いている。ダリットに関する統計は、現在でも非常に不確かな情報に基づくもので、どれだけの回答者が実際に不可触民として差別されているかは分からない。自分がダリットであると申告することは、単にインド政府から利益を受ける手段に過ぎない。これは、本当に助けを必要としている人々をむしろ見捨てる結果となっている。結果として、実際のダリットの数は不正にダリットを名乗る多数の人々に押しやられて把握できないのである。

2001年国勢調査ではインドにはおよそ1億6,600万人以上のダリットがいると報告されている[17]。現在もインド人の3分の2が住む農村地帯においては、民間の領域で食事を取る場所について、あるいは水源をめぐっての差別など、ダリット差別は日常生活のなかで公然とおこなわれている。ただ、都市や公的な場ないし公的部門においては、かなり解消しているといわれている。

ナラヤナンの登場

ナラヤナン夫妻とロシアプーチン夫妻(2000年10月3日)

1997年、不可触民出身の大統領が誕生した。コチェリル・ラーマン・ナラヤナン第10代インド共和国大統領である。

ナラヤナンは、1921年にインド南部のケーララ州で不可触民の家に生まれたが、苦学の末に大学をトップで卒業し、イギリスロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学した人物である。こののち、教師ジャーナリストを経てインド外務省に入省、中国大使米国大使などを歴任した。日本の勤務経験もある親日家である。1984年、下院議員選挙にインド国民会議派から立候補し、当選を果たした。ナラヤナンは、1997年から2002年まで大統領職にあったが、上述したダリットの不正申告にまず気づいたのが、ナラヤナン大統領であったといわれる。

インドの大統領は、象徴的・形式的要素が強く、それゆえ、首相が北インドの有力なヒンドゥー教徒、しかも上位ヴァルナに属する人びとにほぼ独占されてきたのに対し、民族的マイノリティであるドラヴィダ系の人びとや宗教的少数派に割り当てられることが多かった。なお、ナラヤナンが大統領を2期を務めることは、当時議会で多数派であったヒンドゥー至上主義の政党インド人民党によって阻まれている。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 「インドのプロフィール 第4回:カースト制と不可触民」松本勝久
  2. ^ a b 山際(1981)p.60
  3. ^ a b c d 小谷(1994)
  4. ^ 「ヴィャワスター」とは「ゆるがせにできないもの、定められたもの」という意味である。藤井(2007)
  5. ^ a b 『ミリオーネ全世界事典』(1980)
  6. ^ 山際(1981)p.75
  7. ^ "Untouchable"(ナショナル・ジオグラフィック)- English
  8. ^ 「アンベードカルの不可触民解放運動について」広瀬直孝
  9. ^ 藤井(2007)
  10. ^ 「カースト制」谷川昌幸
  11. ^ 山崎(1979)
  12. ^ アンベードカル(1994)
  13. ^ a b 山際(1981)
  14. ^ "Country profiles-India"PDF-English
  15. ^ "Genetic landscape of the people of India:a canvas for disease gean exploration"PDF-Englsh
  16. ^ "A prehistry of Indian Y chromosomes:Evaluating demic diffusion scenarios"PDF-English
  17. ^ "Scheduled Castes & Scheduled Tribes Population"(インド政府による人口統計)-English

関連項目

参考文献

外部リンク

India 78.40398E 20.74980N.jpg この「不可触賎民」は、南アジアに関連した書きかけ項目です。
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不可触民

(不可触賎民 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/20 21:29 UTC 版)

不可触民(ふかしょくみん)とは、カースト制度(ヴァルナ・ジャーティ制)の外側にあって、インドヒンドゥー教社会において差別されてきた人々である。インド憲法では、スケジュールド・カースト(Scheduled Castes)と呼称する。 現在では、1950年に制定されたインド憲法17条により、不可触民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。 アチュート、アンタッチャブル、アウトカーストもしくはアヴァルナと呼ばれ、不可触民は自分たちをダリットと呼ぶのを好んだ[1][2]

またインド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、スケジュールド・カースト(指定カースト)と呼称し、留保制度により、公共機関や施設が一定割合(約25%)で優先的雇用機会を与えられ、学校入学や奨学金制度にも適用される。

概要

呼称について

不可触民の少女(アーンドラ・プラデーシュ州

ダリット(दलित)は、「困窮した者」「押しつぶされた者」「抑圧されている者」の意であり、アウト・カースト、もしくはアチュートと呼ばれ、サンスクリット語ではアスプリシュヤ(aspṛśya)という。これは可触民を意味するスプリシュヤ(spṛśya)の対義語である[3]。伝統的なインド社会においては最底辺のカーストというより、正確にはヴァルナの枠組み(ヴァルナ・ヴィャワスター[4])の外にあるため、アウト・カーストもしくはアヴァルナavarṇa)の呼称がある。また、「第5のヴァルナに属する者」の意でパンチャマPañcama)の呼称がある。『ヴェーダ』には、「パンジャマー」や「サンダラン」、「アヴァルナ」の名で現れている。 俗称として、彼らの代表的なジャーティであるマハール(屠畜業者)やパーリヤ(太鼓たたき)、バンギー(人糞処理の清掃人)などと呼ばれることもある[1]

不可触民のなかには、ハリジャン(神の子、हरिजन)という呼称は、ガンディーがヒンドゥー教の輪廻転生の教義にしたがい、現世で苦しんでいる彼らは来世で必ず良い生まれ変わりを迎えるだろうとして恩恵的、偽善的に呼んだにすぎず[1]、この呼称によってむしろ、カースト・ヒンドゥー(不可触民以外の一般のヒンドゥー教徒)社会全体が良心に目覚めたかのような印象を外界にあたえることは耐えられないと感じている者も少なくない[2]

遺伝学的な見地からみたダリット

ダリット(ジャイプールにて)

ダリットの人口には、インド全国の膨大なカーストグループが混合している。インドは、遺伝的には世界で最も多様な国家であるにもかかわらず、不可触民については遺伝的な根拠がまったくないのであり[5][6]、この差別が社会的につくられてきたことは明らかである。遺伝的調査はさらに、全体として、インドの遺伝的グループはいかなる非・南アジアのグループとも大きな類似性を示していないことを示しており[7]、不可触民をふくむ全インド人は、まぎれもなく、また、等しく南アジアの人びとである。

不可触民の職業

不可触民の母娘(ケーララ州

ダリットには、皮革労働者(チャマール)、屠畜業者(マハール)、貧農、土地を持たない労働者、街路清掃人(バンギー、またはチュラ)、街の手工業者、バーリヤなどの民俗芸能者、洗濯人(ドービー)などのジャーティが含まれる。ジャーティがインドの社会秩序においてどのような地位を占めるかの基準は、人格や専門性などではなく、その職業をおこなうにあたっての接触する物体の浄・不浄の度合いによって決められているとされている。穢れは、「」「産」「」「体からの分泌物」より生じると考えられ、つぎつぎに伝染するとされてきた[1]。上記の職業は、不浄なものに触れやすいとして、伝統的に、特に低い地位におかれてきたのである[8]

不可触民のなかにも序列がある。占い師医師を兼ねるバッルバンというジャーティは、不可触民のなかで最高位を占め、「賤民中のバラモン」と自称することさえある[8]。反対に、清掃、糞尿汚物処理専門の人びとは不可触民のなかでも最も地位が低く、卑しめられており、これらの職業は基本的に世襲であることから、不可触民のなかには、人間以下の境遇から抜け出るため、これらの仕事を放棄することが増えてきている[9]

不可触民の歴史

社会階層概念としての不可触民は、紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられる『マヌ法典』にはまだみられず[3]、歴史的には、西暦100年頃から300年頃にかけて成立したとされる『ヴィシュヌ法典』に初めて現れる。5世紀から6世紀にかけて成立したといわれる『カーティヤーヤナ法典』では、不可触民の規定がさらに明瞭なものになったところから、このころ、差別される諸集団を一括して不可触民とする考え方が定着していったものと考えられる[1][3]

『マヌ法典』には「聖典ヴェーダを読む声にシュードラが不届きにも耳を傾けたなら、熱く解けたを耳に流し込んで罰すべし」と記されている。その後、一生族(エーカジャ)に属するシュードラに対する差別は穏やかなものになっていくが、不可触民への差別はむしろ強化されていったものと考えられる[1]

不可触民を含めた身分秩序が、このように、1,500年以上にわたって歴史的につくりだされてきたのである[10]歴史学的には、今日みられる社会階層としての不可触民の本格的な形成はインド中世社会の形成期以降であると考えられている。すなわち7世紀以降、インドでは、定着農耕社会のいっそう顕著な拡大がみられ、各地に自立的な村落共同体が形成されていったが、それにともなって山間地に居住していた諸部族が農村集落に吸収され、皮革細工や集落の清掃などに従事するようになった。そして、これと並行して形成されていくヴァルナ・ジャーティ制(カースト制)において、彼らの多くが不可触民として社会的に位置づけられるようになったと考えられる[3]

不可触民は、ヒンドゥー社会の中でも最下層階級であり、「触れると穢れる人間」として扱われてきた。不可触民は、触れてはいけないだけでなく、見ることも、近づくことも、その声を聞くことさえいけないとされた。また、他のヒンドゥー教徒と同じ信仰しているにもかかわらず、ヒンドゥー寺院への立ち入りが禁止され、ヴァルナに属する上位4身分のヒンドゥー教徒(カースト・ヒンドゥー)たちが使用する井戸貯水池の使用さえも禁止されていた[11]。このように、不可触民(ダリット)は、社会的に分離され、きびしい差別の被害をこうむってきた。

イギリス植民地支配とカースト制度

カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) であり、ラテン語の「カストゥス」(castus、「純粋なもの」、「混ざってはならないもの」の意。転じて「純血」の意)に起源をもつ[12]。 15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる[13]

植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした[13]。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している[13]。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた[13]。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している[13]。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる[13]

ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆるたぐいの共通の出自を指し示しうるものと指摘している[13]

カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。

なお、イギリスが植民地経営を進める中では、1818年コーレーガーオンの戦いに見られるように、ダリットを主力としたイギリス軍がカースト上位の戦士を主体とする軍を打ち破り、制度そのものを破綻させかねない極端な出来事もあった[14]が、多くの局面ではカーストの温存が植民地経営を容易にすることもありカースト化が進行した。

ヴァルナ・ジャーティ制

カースト制を、在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制がすでにそれ自体としての意味をもってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている[12]

イギリス植民地支配によって、一面では以前よりインド社会のカースト化が進行した。イギリス領インド帝国の権力はヴァルナの序列化の調停役を果たしたのであり、国勢調査報告者や地誌はジャーティの序列にしばしば言及し、また、司法は序列の証明となる慣行を登録して、随時、裁可を与えていた。このように、序列化を広く社会的に押しひろげていく要因のひとつには植民地支配があった[12]。しかし、他方では、近代化とともにカースト制批判も強まって、1919年のインド統治法では不可触民にも議席が与えられた[15]

ガンディーとアーンベードカルの対立

「インド独立の父」と讃えられるマハトマ・ガンディーは、「私の愛国心は人類の幸福を含んでいる。したがって、私のインドへの奉仕には人類への奉仕が含まれている」「インドが没落するようなことがあれば、アジアは滅びる」の言葉に表されるように、ガンディー自身、愛国者でヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)と密接に結びついた原理を否定をすることはなかったが、不可触賎民をハリジャン(神の子)と呼んで不可触民の差別撤廃にも尽力した。ヒンズー教とイスラム教の和解と統一を求めて戦った[1]

演説するアーンベードカル(1935年

それに対し、不可触民出身のアーンベードカル1923年7月、上級法廷弁護士として開業し、大学で講義し、さまざまな公的機関で不可触民差別の実態について証言し、新聞も発行した。さらにボンベイ州立法参事会のメンバーとしてアウト・カースト解放運動において指導的な役割を担った。1927年から1932年にかけては、支持者とともにヒンドゥー寺院への立ち入り、および、公共の貯水池や井戸の利用についての不可触民の権利の確認を求めた非暴力運動を推進した。具体的には、ナーシクのカーラーラーム寺院からの不可触民排除、また、マハード市のチャウダール貯水池からの不可触民の排除に抗議するものであった。この2つの運動には、どちらも数万人の不可触民のサッティヤーグラヒー(非暴力抵抗者)たちが参加したが、それに対し、カースト・ヒンドゥーに属する人びとは暴力的な反応を示した。チャウダール貯水池の運動は、数年にわたる訴訟を経て、下層カーストの活動家たちの法的な勝利のうちに終了した。なお、ヒンドゥー教の古来の聖典『マヌ法典』が不可触民への過酷な扱いへの大きな根拠になっていると考えていたアーンベードカルは、チャウダール貯水池の運動の際に、その場で『マヌ法典』を焼いている。

アーンベードカルが、不可触民の地位向上のため、植民地政府に対して分離選挙権(コミュニティの代表議員を、そのコミュニティのメンバーからなる選挙区で選出する権利)を求めたのに対し、ヒンドゥー社会の分断を恐れたガンディーは「欲望」を抑え「自己犠牲」の精神によって要求を取り下げるよう強制したため、2人の対立は深まった[16]。ガンディーが、カースト制度を理想的な分業体制であるとして擁護し、「物欲を煽る西洋文明」に対して「インド文明の精神性」を現すものだとして賞賛するのに対し、アーンベードカルにとって、カースト制度は差別的な身分制度以外の何物でもなかったのである[17]

インド憲法の制定とアーンベードカル

共和制に移行した1950年制定のインド憲法ではカースト差別は禁止された

1947年、アーンベードカルは初代インド首相ネルーに請われて初代法務大臣に就任し、憲法制定会議委員長を兼任した。憲法案起草の中心人物となったアーンベードカルは、憲法案に不可触民制廃止を盛り込むことに成功した。同年4月29日、インド制憲議会は、「いかなる形における不可触民制も廃止し、不可触民への差別は罪とみなす」と宣言した。また、従来の不可触民を「指定カースト民」(Scheduled Castes)と呼称し、指定部族(Scheduled Tribes)に指定された先住民族ともに、教育、公的雇用、議会議席数の三分野において一定の優先枠をあたえることとした。これを、留保制度(Reservation system)という[1]

こうして1950年に制定されたインド憲法では、法的に、カースト差別は憲法上禁止された。インド憲法17条では、以下のように「不可触民制の廃止」を規定している。

  • 17条「不可触民制の廃止」
不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。不可触民制より生ずる無資格を強制する事は、法律により処罰される犯罪である。

なお、アーンベードカルは、身分差別の因習を打破するため、死の2か月前の1956年10月、かれの属したマハールの人びと約50万人とともに仏教に改宗した(仏教復興運動)。

カースト制の変容と公民権の保護法

インドの取り組み

カースト制の変容そして、インド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、スケジュールド・カースト(指定カースト)と呼称し、留保制度により、公共機関や施設が一定割合で、優先的雇用機会を与えられ、高等教育への入学枠や公務員の採用枠などを留保しておくというものである。公務員職の採用枠のうち教育機関への入学の優先枠が設けられたり、国営企業職員の優先就職枠、議会の議席、公務員と、1950年では約20%だったものが、93年には約49.5%にまで引き上げられた。優遇の対象外の人は、これは逆差別だと反対してる。 この留保制度の下で被差別民層から大学への進学者が徐々に増え、1990年代になると、自由経済体制への転換や文化面の開放政策も相まって留保制度の効果が顕在化し、指定カースト出身者の上級公務員弁護士医師教師が増えていった。公務員2,000万人のうち300万人超を、指定カースト出身者が占めるようにもなった。 アウト・カースト=最下層階層という構図は当てはまらない。

一方、不可触民のなかでも農村に定住しない遊牧民や、1952年以前に「犯罪部族法」に指定されていた「告知を解かれた部族(De-Notified Tribes; DNT)」と呼ばれるカーストなど、指定カーストの指定を受けられなかった最下層のカーストが2008年時点で1億1千万人存在する[18]。これらの人々はいまだに貧困と潜在的犯罪者という偏見のなかで生活している。2004年にマンモハン・シン政権は社会正義・エンパワーメント省に「DNT・遊牧民・準遊牧民部族のための全国委員会」を設け、これらの人々の人権問題の改善を進めている。

公民権の保護法と指定カーストの虐待防止法

1955年に制定された公民権の保護法により、不可触民を理由に宗教施設やホテル、商店や食堂や、川や湖、井戸などの水場や葬儀場、公共の道路、病院や学校などを利用することなどを妨げてはいけない。また動物の死骸の片付けなどを強いてはいけない等々、といった細かな差別的待遇に対する懲役や罰金などの刑罰が規定された。さらに1989年に指定カースト・指定部族への虐待防止法が制定され強化された。

ダリット・インド商工会議所(DICCI)

ダリット・インド商工会議所は、ダリット出身の経営者の集まり、ダリット出身の起業を支援している。またタタ財閥やCIIのメンバーなどが、ダリット・インド商工会議所を支援している。[19][20]

ナラヤナンの登場

ナラヤナン夫妻とロシアプーチン夫妻(2000年10月3日)

1997年には、大統領が誕生した。コチェリル・ラーマン・ナラヤナン第10代インド共和国大統領である。

ナラヤナンは、1921年にインド南部のケーララ州で不可触民の家に生まれたが、苦学の末に大学をトップで卒業し、イギリスロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学した人物である。こののち、教師ジャーナリストを経てインド外務省に入省、中国大使米国大使などを歴任した。日本の勤務経験もある親日家である。1984年、下院議員選挙にインド国民会議派から立候補し、当選を果たした。ナラヤナンは、1997年から2002年まで大統領職にあった。また大衆社会党のマヤワティ党首はダリット出身女性でありながら、デリー大学卒業後、政界に入り、インドでも最大の人口を抱えるウッタルプラデッシュ州で選挙に勝ち4度州首相となっている。その他にもダリット出身の著名人では、バラクリシュナン最高裁判所長官やインド人民党のラックスマン総裁などがいる。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 「インドのプロフィール 第4回:カースト制と不可触民」松本勝久
  2. ^ a b 山際 (1981) p.60
  3. ^ a b c d 小谷(1994)
  4. ^ 「ヴィャワスター」とは「ゆるがせにできないもの、定められたもの」という意味である。藤井(2007)
  5. ^ "Country profiles-India" (PDF) -English
  6. ^ "Genetic landscape of the people of India:a canvas for disease gean exploration" (PDF) -Englsh
  7. ^ "A prehistry of Indian Y chromosomes:Evaluating demic diffusion scenarios" (PDF) -English
  8. ^ a b 『ミリオーネ全世界事典』(1980)
  9. ^ 山際(1981)p.75
  10. ^ "Untouchable"(ナショナル・ジオグラフィック)- English
  11. ^ 「アンベードカルの不可触民解放運動について」広瀬直孝
  12. ^ a b c 藤井(2007)
  13. ^ a b c d e f g サブハードラ・チャンナ「インドにおけるカースト・人種・植民地主義」『人種概念の普遍性を問う』人文書院,2005所収)
  14. ^ 印カースト最下層出身者ら、ヒンズー至上主義に抗議デモ”. AFP (2018年1月4日). 2018年4月20日閲覧。
  15. ^ 「カースト制」谷川昌幸
  16. ^ 山崎(1979)
  17. ^ アーンベードカル(1994)
  18. ^ 竹中 2010, pp. 245-259.
  19. ^ https://response.jp/article/2013/06/15/200139.html
  20. ^ http://www.business-standard.com/article/sme/cii-members-to-step-up-sourcing-from-dalit-owned-smes-111071200101_1.html

関連項目

参考文献

外部リンク





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