コーレーガーオンの戦いとは? わかりやすく解説

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コーレーガーオンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 05:45 UTC 版)

コーレーガーオンの戦い
Battle of Koregaon
第三次マラーター戦争

コーレーガーオンにある戦勝の塔
1818年1月1日
場所コーレーガーオン
結果 イギリスの勝利
衝突した勢力
イギリス東インド会社 マラーター王国
指揮官
F. F.スタウントン バージー・ラーオ2世
バープー・ゴーカレー
戦力
歩兵500人
騎兵250
大砲24門
(ほとんどがマハール兵)
歩兵8,000 人
騎兵20,000人
被害者数
死傷者175人 死傷者500 - 600人

コーレーガーオンの戦い(コーレーガーオンのたたかい、英語:Battle of Koregaon)は、1818年1月1日インドコーレーガーオンにおいて、イギリス東インド会社マラーター王国との間に行われた第三次マラーター戦争の戦闘。

戦闘に至る経緯

1817年11月5日マラーター軍はイギリス軍にカドキーの戦いで敗れ、そののちプネーをイギリス軍に占領された。

だが、マラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世は軍を立て直し、再び同じ規模の戦力でイギリスとの対決に臨んだ。

戦闘とその後

1818年1月1日朝、マラーター王国軍はイギリス軍とコーレーガーオンで激突した。マラーター軍は前回と同じ騎兵2万・歩兵8,000であったのに対し、イギリス軍はほとんどがダリットから構成された歩兵500・騎兵250と劣勢であった.[1]

熾烈な戦いは丸一日続いたが、マラーター軍はバープー・ゴーカレーの息子ゴーヴィンド・ラーオ・ゴーカレーが戦死するなどの損害をこうむり、敗北を喫した。バージー・ラーオ2世はコーレーガーオンの戦場から2マイル離れていた丘から観望していたが、敗北を悟ってその夜のうちに撤退した。

その後、この戦いの戦勝を記念するダリットの紋章が刻まれた塔「コーレーガーオン塔」が建てられ、現在まで残っている。

200年後

2018年1月1日プネにてコーレーガーオンの戦いの200周年記念式典が開催されたが、ダリットとヒンズー至上主義者が対立し暴動となった[2]

脚注

  1. ^ Naravane 2006, p. 81.
  2. ^ 印カースト最下層出身者ら、ヒンズー至上主義に抗議デモ”. AFP (2018年1月4日). 2018年4月20日閲覧。

参考文献

関連項目




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