カドキーの戦いとは? わかりやすく解説

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カドキーの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 05:42 UTC 版)

カドキーの戦い
Battle of Khadki
第三次マラーター戦争

カドキーの戦い
1817年11月5日
場所 インド、カドキー
結果 イギリスの勝利[1]
衝突した勢力
マラーター王国 イギリス東インド会社
指揮官
バープー・ゴーカレー Lt. Col. ブル
キャプテン・フォード
戦力
騎兵20,000人
歩兵8,000人
大砲20問
騎兵2,000人
歩兵1,000人
被害者数
死傷者500人 死傷者86人

カドキーの戦い(カドキーのたたかい、英語:Battle of Khadki, マラーティー語:खडकीची लढाई)は、にインドのカドキー(現アウランガーバード)において、イギリス東インド会社マラーター王国との間に行われた第三次マラーター戦争の戦闘。

戦闘に至る経緯

第二次マラーター戦争終結後、1817年6月にイギリスはマラーター王国宰相バージー・ラーオ2世に対し、マラーター同盟を実上解体させるに等しいプネー条約を締結させた。

バージー・ラーオ2世はこの条約に渋々調印したが、イギリスと再び戦端を開くことを考えるようになり、密かに兵員を招集するようになった。

戦闘とその後の経過

11月5日、ついにマラーター王国軍はイギリス駐在官邸(マウントステュアート・エルフィンストーンの邸宅)のあるプネー近郊のカドキーを攻撃した。

マラーター王国軍はバープー・ゴーカレーを主将に、モーロー・パント・ディークシト、アーナンド・ラーオ・バーバル、ヴィッタル・ラーオ・ヴィンチューカル、ゴーヴィンド・ラーオ・ゴールパデー、ヤシュワント・ラーオ・ゴールパデー、トリンバク・ラーオ・レートレーカル、シャイフ・ミーラージュ、バヒルジー・シータレー、アッパー・デーサーイー・ニパーンカル、ナロー・パント・アープテー、ヴァマン・ラーオ・ラーステー、チンターマン・ラーオ・パトワルダンなどの将軍が率いていた。これらの将軍はそれぞれ騎兵・歩兵を保持していたが、砲兵隊はラクシュマン・ラーオ・パーンシェーが率いていた。この軍勢は騎兵20,000人、歩兵8,000人、大砲28門で構成されていた[2]

一方、マラーターの大軍に対してイギリス軍は3,000人だった。この軍勢は騎兵2,000人、歩兵1,000人、大砲8門で構成され、そのうちヨーロッパ兵は現地兵(シパーヒー)の10分の1であった[2]

まず、ヴィッタル・ラーオ・ヴィンチューカル率いる別働隊がエルフィンストーンの邸宅を襲撃した。だが、エルフィンストーンはすでに逃げ、カドキーの軍勢と合流しており、無駄であった。その後、彼らはイギリスのすべての兵舎を燃やした。これに対し、キャプテン・フォードが攻撃をかけ、マラーターの軍勢は押され気味となった。このとき、イギリスの一隊が攻撃に夢中となり本体と離れ、バープー・ゴーカレーは騎兵6,000人を以て攻撃をかけた。だが、ブル大佐がこれに対して攻撃するように命じ、マラーター軍の騎兵は混乱し、突撃はされた。その後、マラーター軍は500人の死傷者を出して壊走し、イギリス軍の勝利が決まった[3][4]。そして、イギリス軍はその勢いのまま、11月17日にプネーにある宰相の宮殿シャニワール・ワーダーを占拠した。

脚注

参考文献

関連項目




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