第二次・第三次マラーター戦争と藩王国化
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「マラーター王国」の記事における「第二次・第三次マラーター戦争と藩王国化」の解説
しかし、バージー・ラーオ2世が締結したバセイン条約はマラーター王国の領土割譲も約しており、マラーター諸侯はこれに反感を持った。そのうえ、シンディア家はマラーター同盟内の問題にイギリスが介入してきたことに脅威を覚え、宰相府から離れた。 1803年8月、マラーター諸侯のシンディア家、ボーンスレー家、ホールカル家とイギリスとの間に戦端が開かれ、第二次マラーター戦争が勃発した。だが、同年12月にボーンスレー家とシンディア家が領土を割譲する形で講和し、ホールカル家も戦い続けたものの、1805年12月に講和した。イギリスはこの戦争で諸侯から広大な領土の割譲を受け、その領土は「征服領土」と呼ばれた。 1814年、マラーター王国はヴァドーダラーのガーイクワード家とアフマダーバード領有をめぐり紛争を起こし、その調停はイギリスによって行われたが、1815年に宰相バージー・ラーオ2世の家臣がガーイクワード家の使者を殺害してしまった。 しかし、1816年9月にこの家臣は脱獄し、バージー・ラーオ2世は彼に資金を援助し、シンディア家のダウラト・ラーオ・シンディアとホールカル家のマルハール・ラーオ・ホールカル2世に対して、挙兵してイギリスに共同で立ち向かうこと提案した。 この動きはまもなくイギリスに察知され、1817年6月13日にバージー・ラーオ2世に対して、新たな条約プネー条約を押し付けた。これはイギリスが当時押し進めていたインド諸侯の藩王国化そのものであり、形式上においても実質的においてもマラーター同盟の解体を認めさせるものだった。 こうして、バージー・ラーオ2世はイギリスとの戦争を決意し、同年11月5日にプネー近郊カドキーのイギリス駐在官邸を将軍バープー・ゴーカレーに襲わせた(カドキーの戦い)。ここに第三次マラーター戦争が始まった。 この戦争にはシンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家なども参加したが、イギリスによって短期間のうちに制圧され、それぞれ翌1818年初頭までに講和条約を結んで降伏した。 同年1月、バージー・ラーオ2世はコーレーガーオンでイギリスに敗北したのち(コーレーガーオンの戦い)、その勢力が減退し、2月にはバープー・ゴーカレーが戦死した。それでも、彼は不利ながらもイギリスと戦い続けた。 しかし、同年6月3日にバージー・ラーオ2世もイギリスに降伏し、第三次マラーター戦争は終結した。これにより、マラーター同盟は崩壊し、宰相の政権も同時に崩壊した。
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