第二次・第三次マラーター戦争と領土の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:10 UTC 版)
「ニザーム・アリー・ハーン」の記事における「第二次・第三次マラーター戦争と領土の拡大」の解説
1780年2月7日、第一次マラーター戦争が長引きラグナート・ラーオとの戦いで不利になったナーナー・ファドナヴィースは、マイソール王国のハイダル・アリーと反英で同盟するところとなり、これにはニザームも参加した。これにより、5月にハイダル・アリーはタミル地方に出陣し、イギリスの拠点であるマドラスを脅かすところとなった(第二次マイソール戦争)。 だが、1782年5月にナーナー・ファドナヴィースはイギリスとの講和条約サールバイ条約の締結を承認し、第一次マラーター戦争を終わらせた。これはマイソール王国との盟約を破ることであったが、ハイダル・アリーは第二次マイソール戦争を続行し、12月に死亡した。 第二次マイソール戦争終了後、1785年以降マイソール王国とマラーター王国は戦争となり、1786年6月にマラーター王国軍がガジェーンドラガドの戦いでマイソール軍に大勝すると、1787年2月14日にナーナー・ファドナヴィースとティプー・スルターンとの間で講和が結ばれた。それでも、ナーナー・ファドナヴィースはマイソール王国の脅威を恐れ、ニザーム王国ともに警戒に当たり続けた。 そうしたなか、1789年12月にティプー・スルターンがトラヴァンコール王国に侵攻し、1790年5月に第三次マイソール戦争が勃発すると、同月6月にはマラーター王国、ニザーム王国、イギリスとの間に三者同盟が結成された。 そして、1792年に三者同盟軍はマイソール王国の首都シュリーランガパッタナを包囲し、3月に講和条約シュリーランガパトナ条約を結び、ニザーム王国はマイソール王国領北部を割譲された。
※この「第二次・第三次マラーター戦争と領土の拡大」の解説は、「ニザーム・アリー・ハーン」の解説の一部です。
「第二次・第三次マラーター戦争と領土の拡大」を含む「ニザーム・アリー・ハーン」の記事については、「ニザーム・アリー・ハーン」の概要を参照ください。
- 第二次・第三次マラーター戦争と領土の拡大のページへのリンク