第二次、第三次イングランド内戦(1648年 - 1651年)
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「ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の記事における「第二次、第三次イングランド内戦(1648年 - 1651年)」の解説
フランス政府の庇護のもとでパリに居を定めたヘンリエッタ・マリアは、ケネルム・ディグビー卿(en:Kenelm Digby)を総責任者に任命し、サン=ジェルマン=アン=レー城で国王派の亡命宮廷を組織し始めた。1646年に、議会派の手を逃れてイングランドの島嶼部を転々としていた王太子チャールズをパリのヘンリエッタ・マリアのもとに連れ戻すという計画が持ち上がった。ヘンリエッタ・マリアもこの計画の実行を強く望んだが、チャールズは自身がフランス贔屓のカトリック信者と見なされるという理由で、当初この計画を拒否している。最終的には粘り強くチャールズの説得を続けたイングランドの国王派の努力が実って、1646年7月にチャールズはフランスのヘンリエッタ・マリアと合流した。 フランスでのヘンリエッタ・マリアは鬱々とした生活を送っていた。ヘンリエッタ・マリアは、イングランドの議会派の中でも穏健で比較的国王寄りだった長老派と手を結ぶことによってスコットランドの支持を取り付け、その軍隊をイングランドに差し向けることによって議会派を打倒するようチャールズ1世を説得しようとした。チャールズ1世は秘密裏に王宮内以外では長老派を支持し、長老派による議会を成立させるという約束でスコットランドと軍事同盟(和解契約)を結んだ。この軍事同盟を契機として第二次イングランド内戦が始まった。パリのヘンリエッタ・マリアもできる限りの軍事的支援を行ったが、1648年にスコットランド軍はプレストンの戦いで議会派に大敗し第二次内戦は短期間で終結、チャールズ1世は議会軍の捕虜となってしまった。 フランスのサン=ジェルマン=アン=レー城の亡命宮廷では、反議会派の機運が高まりつつあった。ヘンリエッタ・マリアは、ロチェスター伯ヘンリー・ウィルモット、ジョージ・ディグビー(英語版)(後の第2代ブリストル伯)、アニックのパーシー男爵ヘンリー・パーシー(英語版)、カルペパー男爵ジョン・カルペパー(英語版)、チャールズ・ゲラルドら、国王派の亡命者たちを組織した。しかしながらヘンリエッタ・マリアの王宮では派閥争い、対立、さらには果し合いが絶えず、ルパートとディグビーとの決闘を阻止するために、ヘンリエッタ・マリアが両者を拘束したことすらあった。しかしながら、またもルパートとディグビーとの間で、さらにルパートとパーシーとの間で起こった決闘沙汰を止めることはできなかった。 1649年にチャールズ1世は、議会派の手によって処刑された。国王の死は残されたヘンリエッタ・マリアを悲嘆にくれさせ、さらにその暮らしを困窮に落としいれた。当時のフランスではフロンドの乱が勃発しており、ヘンリエッタ・マリアが頼みとする甥のフランス王ルイ14世も資金繰りに苦心していたのである。 スコットランドを味方につけ、スコットランド王として即位したチャールズは、イングランドの議会派を打倒すべく第三次イングランド内戦を起こした。このときサンジェルマンを根拠としていたヘンリエッタ・マリアを取り巻く国王派と、1648年からヘンリエッタ・アンから離れてハーグに亡命していたチャールズに従う、オーモンド侯ジェームズ・バトラー、インチクィン男爵(後の初代インチクィン伯爵)マロー・オブライエン(英語版)、そしてヘンリエッタ・マリアが忌み嫌っていたエドワード・ハイド(後のクラレンドン伯爵)ら、古くからの国王派が協力して内戦を戦った。フランスとオランダに分かれていた国王派は一つに団結したが、国王派に対するヘンリエッタ・マリアの影響力は衰えていた。そして、1651年9月3日のウスターの戦いに敗北したチャールズはイングランドを逃れて大陸に亡命し、第三次イングランド内戦も議会派の勝利で終結した。1654年にチャールズは亡命宮廷をドイツのケルンに移し、サンジェルマンに残っていたヘンリエッタ・マリアの影響力を完全に断ち切っている。 ヘンリエッタ・マリアは信仰と子供たち、とくにお気に入りで「ミネッテ(子猫)」という愛称で呼んでいた末娘ヘンリエッタ・アン、後にジェームズ2世として王位につくジェームズ、そして1660年に20歳で夭折するヘンリーの教育に生涯を捧げるようになっていった。ヘンリエッタ・マリアはジェームズとヘンリーの2人の王子をカトリックに改宗させようとした。ヘンリーに対する改宗の働きかけは亡命国王派とチャールズからの怒りを買って成功しなかったが、ヘンリエッタ・アンはカトリック信者として成長した。1651年にヘンリエッタ・マリアはシャイヨーに女子修道院を設立し、1650年代のほとんどをこの修道院で過ごしている。
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