第二次、第三次イングランド内戦とは? わかりやすく解説

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第二次、第三次イングランド内戦(1648年 - 1651年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 08:51 UTC 版)

ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の記事における「第二次、第三次イングランド内戦(1648年 - 1651年)」の解説

フランス政府庇護のもとでパリに居を定めたヘンリエッタ・マリアは、ケネルム・ディグビー卿(en:Kenelm Digby)を総責任者任命しサン=ジェルマン=アン=レー城国王派亡命宮廷組織し始めた1646年に、議会派の手逃れてイングランド島嶼部転々としていた王太子チャールズパリヘンリエッタ・マリアのもとに連れ戻すという計画持ち上がったヘンリエッタ・マリアもこの計画の実行強く望んだが、チャールズ自身フランス贔屓カトリック信者見なされるという理由で、当初この計画拒否している。最終的に粘り強くチャールズ説得続けたイングランド国王派努力実って1646年7月チャールズフランスヘンリエッタ・マリア合流したフランスでヘンリエッタ・マリア鬱々とした生活を送っていた。ヘンリエッタ・マリアは、イングランド議会派中でも穏健比較国王寄りだった長老派手を結ぶことによってスコットランド支持取り付け、その軍隊イングランド差し向けることによって議会派打倒するようチャールズ1世説得しようとした。チャールズ1世秘密裏王宮内以外では長老派支持し長老派による議会成立させるという約束スコットランド軍事同盟和解契約)を結んだ。この軍事同盟契機として第二次イングランド内戦始まったパリヘンリエッタ・マリアもできる限り軍事的支援行ったが、1648年スコットランド軍はプレストンの戦い議会派大敗し第二次内戦短期間終結チャールズ1世議会軍の捕虜となってしまった。 フランスサン=ジェルマン=アン=レー城亡命宮廷では、反議会派機運高まりつつあった。ヘンリエッタ・マリアは、ロチェスター伯ヘンリー・ウィルモット、ジョージ・ディグビー(英語版)(後の第2代ブリストル伯)、アニックパーシー男爵ヘンリー・パーシー英語版)、カルペパー男爵ジョン・カルペパー(英語版)、チャールズ・ゲラルドら、国王派亡命者たち組織したしかしながらヘンリエッタ・マリア王宮では派閥争い対立さらには果し合い絶えず、ルパートディグビーとの決闘阻止するために、ヘンリエッタ・マリア両者拘束したことすらあった。しかしながら、またもルパートディグビーとの間で、さらにルパートパーシーとの間で起こった決闘沙汰止めることはできなかった。 1649年チャールズ1世は、議会派の手によって処刑された。国王の死は残されヘンリエッタ・マリア悲嘆にくれさせ、さらにその暮らし困窮落としいれた。当時フランスではフロンドの乱勃発しており、ヘンリエッタ・マリア頼みとする甥のフランス王ルイ14世資金繰り苦心していたのであるスコットランド味方につけ、スコットランド王として即位したチャールズは、イングランド議会派打倒すべく第三次イングランド内戦起こした。このときサンジェルマン根拠としていたヘンリエッタ・マリア取り巻国王派と、1648年からヘンリエッタ・アンから離れてハーグ亡命していたチャールズに従う、オーモンド侯ジェームズ・バトラーインチクィン男爵(後の初代インチクィン伯爵)マロー・オブライエン(英語版)、そしてヘンリエッタ・マリア忌み嫌っていたエドワード・ハイド(後のクラレンドン伯爵)ら、古くからの国王派協力して内戦戦ったフランスオランダに分かれていた国王派一つ団結したが、国王派に対すヘンリエッタ・マリア影響力衰えていた。そして、1651年9月3日ウスターの戦い敗北したチャールズイングランド逃れて大陸亡命し第三次イングランド内戦議会派勝利終結した1654年チャールズ亡命宮廷ドイツケルン移しサンジェルマン残っていたヘンリエッタ・マリア影響力を完全に断ち切っている。 ヘンリエッタ・マリア信仰子供たち、とくにお気に入りで「ミネッテ(子猫)」という愛称呼んでいた末娘ヘンリエッタ・アン、後にジェームズ2世として王位につくジェームズ、そして1660年20歳夭折するヘンリー教育生涯捧げるようになっていった。ヘンリエッタ・マリアジェームズヘンリー2人王子カトリック改宗させようとした。ヘンリー対す改宗働きかけ亡命国王派チャールズからの怒り買って成功しなかったが、ヘンリエッタ・アンはカトリック信者として成長した1651年ヘンリエッタ・マリアはシャイヨーに女子修道院設立し1650年代のほとんどをこの修道院過ごしている。

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