ガンディーとアーンベードカルの対立について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 22:57 UTC 版)
「不可触民」の記事における「ガンディーとアーンベードカルの対立について」の解説
「インド独立の父」と讃えられるマハトマ・ガンディーは、「私の愛国心は人類の幸福を含んでいる。したがって、私のインドへの奉仕には人類への奉仕が含まれている」「インドが没落するようなことがあれば、アジアは滅びる」の言葉に表されるように、ガンディー自身、愛国者でヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)と密接に結びついた原理を否定をすることはなかったが、不可触賎民をハリジャン(神の子)と呼んで不可触民の差別撤廃にも尽力した。ヒンズー教とイスラム教の和解と統一を求めて戦った。 それに対し、不可触民出身のアーンベードカルは1923年7月、上級法廷弁護士として開業し、大学で講義し、様々な公的機関で不可触民差別の実態について証言し、新聞も発行した。さらにボンベイ州立法参事会のメンバーとしてアウト・カースト解放運動において指導的な役割を担った。1927年から1932年にかけては、支持者とともにヒンドゥー寺院への立ち入り、および、公共の貯水池や井戸の利用についての不可触民の権利の確認を求めた非暴力運動を推進した。具体的には、ナーシクのカーラーラーム寺院からの不可触民排除、また、マハード市のチャウダール貯水池からの不可触民の排除に抗議するものであった。この2つの運動には、どちらも数万人の不可触民のサッティヤーグラヒー(非暴力抵抗者)たちが参加したが、それに対し、カースト・ヒンドゥーに属する人々は暴力的な反応を示した。チャウダール貯水池の運動は、数年にわたる訴訟を経て、下層カーストの活動家たちの法的な勝利のうちに終了した。なお、ヒンドゥー教の古来の聖典『マヌ法典』が不可触民への過酷な扱いへの大きな根拠になっていると考えていたアーンベードカルは、チャウダール貯水池の運動の際に、その場で『マヌ法典』を焼いている。 アーンベードカルが、不可触民の地位向上のため、植民地政府に対して分離選挙権(コミュニティの代表議員を、そのコミュニティのメンバーからなる選挙区で選出する権利)を求めたのに対し、ヒンドゥー社会の分断を恐れたガンディーは「欲望」を抑え「自己犠牲」の精神によって要求を取り下げるよう強制したため、2人の対立は深まった。ガンディーが、カースト制度を理想的な分業体制であるとして擁護し、「物欲を煽る西洋文明」に対して「インド文明の精神性」を現すものだとして賞賛するのに対し、アーンベードカルにとって、カースト制度は差別的な身分制度以外の何物でもなかったのである。
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