ガンディーの登場とジンナー
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「ムハンマド・アリー・ジンナー」の記事における「ガンディーの登場とジンナー」の解説
1915年、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーが南アフリカより帰国し、ビハール州のインディゴ栽培業者との闘争、アフマダーバードの工場経営者との闘争、グジャラートの納税拒否闘争を指導した。ガンディーが20年間、南アフリカで展開してきた非暴力不服従の方式を踏襲していた。ガンディーは他の国民会議派の指導者とは異なり、洋服を着ることはなかったし、英語に代わり、インドの言語を使用した。また、ヒンドゥーの教義に忠実であった。そのため、ガンディーが指揮する独立運動はインドのヒンドゥーの間で多くの支持を集めた。 もっとも、ガンディーの運動は、カルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)、マドラス(現チェンナイ)といった大都市出身の、1920年以前の国民会議派の社会的エリート層からは支持されなかった。彼らは、合法的な抵抗運動を支持しながらも、社会的な恩恵にあずかれる司法機関・立法機関の役職を勤めていたからである。また、各地の藩王国や人口密度の少ない中央インドの山間部に住む人々や、職人カーストや土地を持たない最下級カーストに所属する人々はガンディーの運動と無縁であった。ガンディーの行動に対しては、マハーラーシュトラ州のティラク支持者も1920年にティラクが死亡するまで賛同しなかった上、詩人ラビンドラナート・タゴールもガンディーの行動を1つの狭い分野に固執しているとして嫌悪していた。 このような中で、ジンナーもまたガンディーの運動を批判した。1920年に国民会議派を脱会した。ジンナーの政治運動の根底には穏健派ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレー(Gopal Krishna Gokhale)と行動をともにするうち身に着けた政治理念があり、よって抵抗活動は合法的に展開するものであり不穏当な大衆運動は支持しない方針であったのが理由である。また、ガンディーの運動は、イスラームとヒンドゥーという2つの共同体によって構成されているインドが完全に2つに割れてしまう可能性を孕んでいると考えてもいた。ジンナーは、ムスリム連盟の代表になったが、そのために連盟内の派閥争い(親英派VS新国民会議派)に巻き込まれざるをえなくなった。1927年にはイギリス人のみで構成されたサイモン委員会に対抗する一方で、将来の憲法起草のためムスリムとヒンドゥーの指導者間の交渉に入った。 1928年、国民会議派を指導していたネルーの手によって「ネルー報告」がまとめられた。この報告において、インドの即時独立を主張する一方で、ムスリムに関しては分離選挙を実施するという1916年の国民会議派の約束を反故にし、また、議会でムスリムのための議席数を確保することも否定されていたため、ムスリム側は到底この報告書の提案を認めることはできなかった。当時、ジンナーは、議会で3分の1の議席数がムスリム側に留保されること、移譲してしかるべき権限が中央政府から地方政府へ移譲されるのであれば分離選挙は断念してもよいと考えていた。そのため、1929年3月28日、ジンナーの14条(en)を発表することで両陣営の妥協を図ろうとした。しかし、ジンナーの提案は、国民会議派や他の政党から反対を受けた。 ヒンドゥー側との対立を深めていた時期、ジンナーの私生活は様々な困難に直面していた。その背景にはジンナーの政治的活動が活発であったことがあり、ジンナーはヨーロッパ旅行などをすることで夫婦間の関係を保とうとした。しかし、結婚生活は1927年に破局。さらに1929年、離婚した妻が重病を患い亡くなるとジンナーは悲しみにくれた。 1931年、ロンドンで円卓会議が開催された。しかし、ジンナーは、ガンディーを批判すると同時に、会議の始まりの段階で既に幻滅していたとされる 。ムスリム連盟内部は一枚岩ではなく、ジンナーは政治の表舞台から退場し、イギリスで再び法律の世界で働くことを決めた。また、以降ジンナーの生涯において妹ファーティマ・ジンナーがもっとも親密な助言者となる。ファーティマは、ジンナーの娘ディーナーの出産を助けていた。しかし、後にディーナーがゾロアスター教徒の家系出身でクリスチャンのビジネスマンと結婚すると、ジンナーと娘の関係は疎遠なものとなっていた。
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