ガンディー主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 14:40 UTC 版)
1951年にボランティアで国勢調査に参加したことが、貧困の現状を直接知るきっかけとなった。また、レフ・トルストイ、マハトマ・ガンディー、ビノーバ・バーベ(英語版)、ガンディー主義の経済学者J・C・クマラッパ(英語版)の著書に大きな影響を受けて、貧困撲滅のために生涯を捧げる決意をした。 学位取得後、しばらくSNDT女子大学(英語版)(ムンバイ)で英語を教えた後、1955年からガンディー主義の労働組合「繊維労働者組合 (TLA)」で法務を担当した。繊維労働者組合は、インドにおける女性労働運動の先駆者アナスヤ・サラバイ(英語版)がガンディーの支援を受けて1920年に結成したグジャラート州最古の繊維労働者の労働組合であり、ガンディーが1917年に繊維労働者のストライキを主導したことに端を発する。バットが繊維労働者組合に参加した当時は、60の繊維工場の労働者12万人が加入していたが、その多くがハリジャン(不可触民)であった。 1956年、ガンディー主義の学生リーダーであったラメシュ・バットと結婚した。ラメシュは後にガンディーの教育思想に沿って設立されたグジャラート・ヴィドヤーピート(英語版)国立大学(アフマダーバード)の経済学部で教鞭を執ることになる。また、グジャラート大学地域教員協会の会長に就任し、グジャラート経済協会を設立した。 1961年、グジャラート州労働省の雇用担当職員として採用され、グジャラート大学雇用情報課で職業指導・訓練、就職斡旋を担当した。次にニューデリーのプサ就労・職業訓練所に派遣され、1966年にグジャラート州労働省に戻ると、職業情報局の代表として新たな就労機会の創出、国家職業法における職業の定義の見直し、新しい職業の定義・分類などに取り組んだ。1968年、繊維労働者組合の女性部(1954年結成)の代表に選出された。当時はまだ女性組合員の数が少なかったため、男性組合員の妻や娘に職業訓練を提供することで女性の就労を促進することが主な活動であった。バットは女性部内に職業訓練部門、製造部門、労働組合組織化部門、研究部門の4つの部門を設置した。職業訓練部門では、女性に裁縫、刺繍、編物、人形作り、印刷、家政などの訓練を提供した。参加者はすべて正規教育を修了していない25歳未満の女性であった。製造部門は女性の教育・医療・福祉プログラムを提供し、女性たちが作った手織物は組合内店舗で販売された。 1970年、イスラエル労働総同盟(英語版)が1960年に創設したアフリカ・アジア労働・協同組合研究所の研究奨励金を受けて、テルアビブで3か月間、主に深夜労働拡大の可能性について研究し、「国際労働・協同組合」の学位を取得した。バットは、イスラエルではすべての労働が組織化されていること、労働者の妻もまた労働組合に加入していることを知り、労働組合や協同組合を組織・運営することの重要性を痛感した。
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