ミュージシャン間の交流とは? わかりやすく解説

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ミュージシャン間の交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:14 UTC 版)

忌野清志郎」の記事における「ミュージシャン間の交流」の解説

桑田佳祐・原由子 - 桑田佳祐サザンオールスターズとして1983年のライブイベント「北海道スーパージャム'83」でRC共演しサザン演奏した後がRC出番であり、桑田客席でそれを見た際に涙を流し、その理由を「(RCは)全然変な力が入ってなくて、まったくオーソドックスなことをやってるのね。こっち(サザン)は意識してキメ作ってビッカンビッカンやってるのに」「要するに昔と変わらないRCというか不滅なもの、伝統的なものに完全に負けちゃったなと思ってね」と著書語ったまた、清志郎の話によると、ライブ打ち上げ桑田清志郎対し俺の昔のオンナ似ているんですよね」「顔、姿、それにしぐさまで。もー、何から何までそっくりなんです」と話したといい、清志郎は「いったい、どんなオンナなんだ」と感じたという。また、桑田企画したメリー・クリスマス・ショー』にも出演している。清志郎が『さんまのまんま』に出演した際に、番組のテーマソング桑田制作した話題触れ桑田音楽性歌唱法揶揄する発言をし、その回をテレビで見た桑田から電話かかってきたという。これについて清志郎は「テレビ見て、すぐに電話してくるあたりが、なかなか憎めないヤツだ」と発言した清志郎葬儀には原と共に参列し同日自身ラジオ桑田佳祐のやさしい夜遊び」で「数えるほどしか会ったとがないけれど、ワクワクする人でした」と思い出語り番組最後には「ぼくの好きな先生」を生歌歌唱し、清志郎を偲び、同年発表された「声に出して歌いたい日本文学 」の「たけくらべ」の箇所清志郎物真似挿入された。原由子横浜ラジオ公開収録で、フォーク時代RC初め見たのがRCを知るきっかけであった語っており、「初期のRCサクセション」を大好きなアルバムであると述べている。 THE ALFEE - 3人がブレイクする前からの知人である。特に坂崎幸之助清志郎物真似を得意としており、トリビュートコンサートに出演した際、清志郎物真似披露している。ただし、桑田佳祐からテレビでアルフィーとのセッション依頼された際、清志郎は「ヤダよ! 俺はアルフィーなんぞとやるのは。俺にも友達がいる。あんな奴らテレビで仲良くしているところを見られたら、なんて言い訳すりゃいいんだ? アルフィーとっちゃ、俺と共演することにはメリットあんだろうけど、俺にはなんの得にならないよ」とセッション断った経緯があり、清志郎自身アルフィー認めていなかった節があるが、その後坂崎とはラジオ・テレビなどで何度も共演していることから、考え改めた可能性もある。奇しくも清志郎死去した2009年5月2日には、坂崎実父亡くなっている。 泉谷しげる - RC古井戸泉谷3組は、デビュー前から同じライブハウス常連であったRCの曲「あきれて物もいえない」の「どっかのヤマ師」は、泉谷のことを歌っている(泉谷当時、全く売れなかった清志郎を励ますため、わざと軽蔑してたらしい)。清志郎死に真っ先コメント寄せたのも泉谷であり、「あいつの死を受け入れことはない」と沈痛な思いのぞかせた清志郎への尊敬の念から時折清志郎を「忌野さん」と呼びながら語ることがある春日"ハチ"博文 - カルメン・マキ&OZメンバーとして知られている。かねてより清志郎音楽性高く評価しており、不遇時代RCを自ら主催したライブ前座などに出演させていた。1977年過ぎた頃から78年にかけて、RCギターとして度々参加エレキ化していくRC発展一役買ったRC離れた後も、80年代中盤清志郎と「ガラム」というユニット何度ライブ活動行いRC末期には再びドラムとして参加している。口癖は「思うにィ〜」と「ちゅーかさ」。ニックネーム春日八郎から来ている。また春日より譲り受けたフェンダーエスクワイヤー清志郎長年愛用した。 GO-BANG'S - 1983年結成され地元である札幌市拠点として活動していたが、メンバー森若香織が親の転勤のため、東京移住したことにより、バンドは自然消滅状態になっていた。それに先がけて、バンド自分達の音楽活動記念として曲をテープに録り、札幌市内にある喫茶店レコーディングスタジオの「コーヒーハウスミルク(スタジオミルク)」に残していた。このテープをたまたまプライベート札幌居合わせ、同店を訪れた清志郎聴いたその時清志郎放った一言いいじゃん!!」をきっかけに、メンバー上京決心先に東京住んでいた以外のメンバーを、清志郎呼び寄せる形で、東京での活動始まった。まだアマチュアバンドだったGO-BANG'Sデモテープ制作演奏方法に、清志郎始めRCサクセションメンバーも色々親身になってアドバイスしたり、スタジオ使わせたりした。そこでレコーディングされたデモテープについて清志郎は「このテープだったら、どこのレコード会社もきっとOKだぜ!」と言い若らを励ました若は後に「(これらの経緯が)プロデビュー大きなきっかけになった」と語っている。 桜井和寿 - 『SPACE LOVE SHOWER 2005』のトリ清志郎桜井呼び込み、『ぼくの好きな先生』をセッション。これは、イベント開催前に清志郎贔屓にしている鹿児島温泉宿二人偶然に同宿することとなり、桜井清志郎ファンであることを知っている女将引き合わせ出会い意気投合その場セッションする所まで盛り上がりお互いSWEET LOVE SHOWERへの出演決定していたため当日セッションすることが決まった、という経緯よる。その後清志郎桜井小林武史らが中心となって主催するap bank fes 20062008それぞれ出演することを予定していたが、いずれも体調不良により出演キャンセルとなっている。なお、予定していた楽曲桜井ボーカル務めbank bandにより当日演奏された。 ザ・クロマニヨンズ - 甲本ヒロト真島昌利THE BLUE HEARTSTHE HIGH-LOWSザ・クロマニヨンズ通して清志郎ステージゲスト参加するなど、交流持っているハイロウズ時代には忌野清志郎30周年記念RESPECT!ステージで「テクノクイーン」を演奏したまた、甲本清志郎の「REMEMBER YOU」でダブルボーカルを取っている。 渋さ知らズ - 清志郎親交のあるミュージシャン多く関わっており、2004年1月10日ライブDVD『ALLD OF SHIBUSA』に収録)では、清志郎も、ほら貝ボーカル参加ジョニー・サンダース - 伝説的なパンクバンドニューヨーク・ドールズの元ギタリストRCアルバムCOVERS』にゲスト参加している。サンダース最後となったライブをたまたま見に行っていた清志郎は、ステージ上げられアンコールを1曲共演したサンダースは、その数週間後に死去したソウル・フラワー・ユニオン - メンバー中川敬伊丹英子奥野真哉高木克RCサクセションザ・タイマーズファンであったことを公言しており、現在は追悼の意味込めぼくの好きな先生」をライブレパートリーにしている。一時ライブで「国王ワノン一世の唄」「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」等をカバーしたこともある。ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザンリクオ2・3'Sのライブメンバーでもあった。 竹中直人 - 俳優清志郎仲井戸大ファン映画のみならずステージでも度々共演果たしている。ブレーク前からの友人でもあり、付き合い長く深く竹中ホスト役務めラジオ番組にも、清志郎仲井戸は度々ゲスト出演し清志郎病気療養中にも出演していた。古井戸ファン竹中藤原ヒロシ結成した古井戸コピーバンド高井戸」でも活動行なっていた。清志郎本葬では、自ら弔辞読み上げた。 De-ga-show - 片山広明林栄一中心としたフリー・ジャズ・バンド。清志郎は、同バンド2作目『続デ・ガ・ショー』のライナーノーツ執筆し、「俺も参加させろ」「片山、なんで俺をさそわないんだよ」と書いた所、本当に共演アルバムHospital』を発表する運びとなったトータス松本 - ウルフルズボーカリスト14歳の頃、友人より勧められRCサクセションLPRHAPSODY」から音楽興味持ちデビュー直後から清志郎影響公言している。楽曲を度々カバーライブでも清志郎共演するなど、親交は深い。 間寛平 - プライベートでも清志郎交友があり、2001年ミニアルバムジャングル野郎」では清志郎から曲を提供された。レギュラー出演している「探偵!ナイトスクープ」では、清志郎連れて探偵レポートをしたこともある。2006年2月25日大阪城ホール行われた清志郎主催のロックンロール・イベント「新 ナニワ・サリバン・ショー」では、シークレットゲストとして登場した。しかしアースマラソン挑戦中の2009年寛平アメリカカンザス州において、電話清志郎訃報知り、声を上げ号泣した。そのシーン当時日本テレビでの特番放送された。 氷室京介 - BOØWY結成前に参加していたバンド嫌気差し辞めて帰郷することを決意したが、帰る前に日比谷野外音楽堂行われたRCライヴを観て、「もう一度バンドをやろう」と思い直した。そして布袋寅泰誘い結成したのがBOØWYである。 ヒルビリー・バップス - 楽曲バカンス」を清志郎から提供された。なお、同バンドのVo.宮城宗典自殺後行われた追悼コンサートでは、「いなくなったヤツよりも残された人のために」という名言吐いて清志郎自身が、この曲を歌い上げたブッカー・T&ザ・MG's - 清志郎尊敬するオーティス・レディングバックバンドとして活躍したまた、単独でもインストゥルメンタル作品発表している、世界的に評価されているバンド清志郎ソロアルバムMEMPHIS』のバック担当しツアー行なったその後清志郎ギタリストスティーヴ・クロッパー親交深めて行きクロッパープロデューサーとして迎えた夢助』などを発表している。 ブルーデイ・ホーンズ - 梅津和時片山広明によるホーンセクション両人は、多彩なソロ活動行いながらもRC及びソロ転向後清志郎活動を共にした。 三浦友和 - 俳優清志郎中学時代からの友人で、東京都立日野高等学校でも同窓生だった。デビュー前RC参加しパーカッション担当その後三浦RCサクセションライブ飛び入り出演したり、発売禁止となったアルバムCOVERS』にも参加していた。毎年1〜2回は清志郎が酒を持って三浦自宅訪ね夜通し酒を酌み交わし旧交を温めていた。 森川欣信 - オフィスオーガスタ社長キティレコードディレクターだった頃にRCの『RHAPSODY』を手がけた。アコースティックトリオだった頃からのRC大ファンであり、清志郎とは公私亘って親しい。連野城太郎ペンネームで『GOTTA! 忌野清志郎』を執筆した矢野顕子 - 度々共演している清志郎友人以前ニューヨーク日本ファクスでのやり取りをしていた。近年矢野の「ひとつだけ」をよくデュエットしている(スタジオ・アルバムでは、矢野の『はじめてのやのあきこ』(2006年)に収録)。矢野楽曲「湖のふもとでねこと暮らしている(DOWN BY THE LAKE, LIVING WITH MY CAT)」(『LOVE LIFE収録)はRCナンバー「山のふもとで暮らしている」のアンサーソングと言われている。また、矢野清志郎のことを歌った「きよしちゃん」という楽曲ステージで披露している(清志郎死後、『音楽堂』(2010年)に収録)。月刊カドカワ連載されていた「月刊アッコちゃん」では、早朝に「起きろ!!」と大書きされたファックス送りつけられていたエピソード紹介している(角川文庫刊・「月刊アッコちゃん峠のわが家編」に掲載されている)。また、最近連続紙使用相手方記録紙がなくなるまで)を編み出したとか」というエピソード紹介している。 山口冨士夫 - 日本伝説的なロックバンド村八分ギタリスト。度々ステージで共演したり、RCアルバムCOVERS』にもゲスト参加している。 吉田拓郎 - 1971年拓郎定期コンサート開催していた時に、よく前座務めていたのがRCサクセションだった。清志郎当時拓郎が嫌いで、出番が終わると顔も見ない帰っていたという。しかし、拓郎清志郎を「音楽の世界ではスペシャルな男、リハーサルとかに彼が入ってくるだけで雰囲気が変わる」と高く評価していた。吉見佑子アルバムシングル・マン』の再発業界奔走した時も、拓郎は「オレRC好きだ」と自身ラジオ番組RCの曲をプッシュしていた。後に清志郎拓郎に「こころのボーナス」(アルバムハワイアン ラプソディ収録)を提供した

※この「ミュージシャン間の交流」の解説は、「忌野清志郎」の解説の一部です。
「ミュージシャン間の交流」を含む「忌野清志郎」の記事については、「忌野清志郎」の概要を参照ください。

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