江の島 歴史

江の島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 07:38 UTC 版)

歴史

江の島岩屋

沿革

  • 約20000年前 - 元々は陸続きであったが侵食海進により島となった。
  • 7000B.C.-1500B.C. - 東山頂上部に縄文時代の住居跡や石器(江の島植物園改修工事で発掘)。
  • 江嶋縁起」(皇慶が書いたと伝えられる)によれば、欽明天皇13年(552年?)4月に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられている[13]
  • 文武天皇4年(700年4月 - 役小角が江の島の岩屋に参籠したといわれる。以来、島全域が聖域として扱われた。
  • 天平勝宝元年(749年10月 - 正倉院に残る庸布墨書によれば、方瀬(片瀬)郷の郷戸主大伴首麻呂、調庸布一端を朝廷に貢進とあり、この地域の公的記録の初出とされる。
  • 弘仁5年(814年) - 伝承によれば空海(弘法大師)が金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建、神仏習合により金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったという。
  • 伝承によれば仁寿3年(853年) - 円仁(慈覚大師)が龍窟(現・岩屋)に籠もり、弁才天よりお告げを受け、上之宮(現・中津宮)の社殿を創建したという。
  • 寿永元年(1182年) - 源頼朝の祈願により文覚弁才天勧請[14]
  • 文治元年(1185年) - 頼朝が弁才天(現・奥津宮)に鳥居を奉納。
  • 建久元年(1190年) - 北条時政、江の島に参籠、一族の繁栄を祈願する。この時、龍神の残した3枚の鱗をもとに、北条氏・「三鱗」の家紋と定めた。
  • 正治元年(1199年) - 良真、江の島で千日余も修行。
    慈悲上人良真(じひしょうにんりょうしん)鶴岡八幡宮の供僧。聖天島脇の祠に座像がある。修行の邪魔をしたガマガエルを石に化したと伝えられる「蟇石」が辺津宮参道脇にある。
  • 建仁元年(1201年) - 将軍源頼家、江の島へ参詣。
  • 建仁2年(1202年7月15日 - 修行中の良真の眼前に聖天島に弁才天が現れ、山頂の社殿の荒廃を嘆く(岩本院・江ノ島縁起絵巻第五巻)。
  • 元久元年(1204年) - 良真、将軍源実朝の命によりに渡り(実際には渡宋は行われなかったという説が有力)、慶仁禅師より江の島に因んで授けられたと伝えられる「江島霊迹建寺の碑」を辺津宮境内に建てる。
  • 建永元年(1206年) - 良真の請願により、下之宮(現・辺津宮)将軍源実朝により創建。
  • 建保3年(1215年) - (9月)大地震(吾妻鏡)。
  • 建保4年(1216年1月15日 - 江の島へ、徒歩で渡れるようになる(吾妻鏡)[13]
  • 安貞2年(1228年) - 将軍藤原頼経、江の島へ参詣。
  • 弘安5年(1282年) - 一遍(いっぺん)鎌倉入りを拒まれ、江の島へ渡島したと伝える。
  • 南朝:延元3年、北朝:暦応元年(1338年) - この頃、江の島は、室町幕府鎌倉府の保護のもと、御料所となる。
  • 宝徳2年(1450年) - 関東管領上杉氏重臣長尾景仲による鎌倉公方足利成氏政権転覆の計画が明らかとなり、鎌倉を脱出して江の島に逃れた成氏[15]とこれを追跡してきた景仲の間で江の島を巡って攻防戦が行われた(江ノ島合戦)。
  • 康正元年(1455年) - 足利成氏、江の島・岩本坊の間宮氏に、鎌倉警護の勲功を感謝する書状を送る。岩本坊は、成氏の武運長久を祈願し、弁才天像、扇子などを贈る。
  • 永正元年(1504年) - 北条早雲が、江の島に軍勢の乱妨狼藉を禁止する制札を出した。
  • 永正10年(1513年) - 八臂弁才天坐像、仏所上総により彩色等を補修。
  • 享禄4年(1531年) - 江の島上之坊を岩本院が兼帯する。
  • 天文12年(1543年) - 蜷川康親、江の島岩本坊へ神馬を寄進する。
  • 天文13年(1544年) - 岩本院「江島遷宮寄進注文」が作成され、玉縄城北条綱成とその家族らが署名[16]
  • 天文18年(1549年) - 北条氏康が、上之宮および下之宮の修造に際し、白糸20を寄進した。
  • 天文20年(1551年) - 北条綱成が、江の島岩屋内におけるの殺生を禁止した。
  • 永禄6年(1563年) - 蜷川某、岩本院に制札を掲げ江の島参詣衆より関役を取らせる[15]
  • 1579年天正7年) - 北条氏照、岩本坊に不入・留浦など5か条の特権を認める[15]
  • 1600年慶長5年) - 徳川家康が参拝した[15]
  • 1640年寛永17年) - 岩本院と上之坊との間で、利権争いが起こる。その結果、相続権・財政権・後任選任権などを得た岩本院は、幕府から朱印状を手に入れることになり、上之坊を奴属化させることに成功する。
  • 1648年慶安元年) - 岩本院、京都仁和寺末寺となる。
  • 1649年(慶安2年) - 岩本院、徳川家光より「江島弁財天境内等諸役免除」の朱印状を受ける。
  • 1650年(慶安3年) - 岩本院、江の島利権支配確立。
  • 1674年延宝2年) - 徳川光圀が参拝した。
  • 江戸時代 - 江の島で弁天信仰が盛んになり、手軽な観光地として江戸から多くの町民が訪れ賑わった。特に弁才天は音曲をつかさどる神として知られたため、検校など盲人音楽家歌舞伎役者なども数多く参拝した。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の中でも岩本院(江嶋寺=こうとうじとも呼ばれた)は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。
    関東総検校(盲人の役職の最高位)となる杉山和一管鍼術(鍼治療の一種)に開眼した場所として知られ、盲人の信仰も厚かった。東海道藤沢宿から江の島に至る「江の島道」と呼ばれる道筋には、和一により寄進された道標が数基現存している。後に「日蓮宗の奇跡が起きた島」(奇跡の落雷により)としても有名になる。
  • 延宝3年(1675年) - 下之宮(現辺津宮)の本殿、再建される。
  • 元禄2年(1689年) - 中津宮が再建される。
    三神社(岩本院・上之坊・下之坊)弁財天総開帳。この年が開帳の始まりとされる。
  • 元禄3年(1690年) - 杉山和一、下之宮(現辺津宮)の社殿再興。
  • 元禄5年(1692年) - 杉山和一、江ノ島弁才天の神徳を受け護摩堂を建立。
  • 元禄6年(1693年) - 杉山和一、下之宮(現・辺津宮)の三重塔を建立。
  • 元禄7年(1694年) - 杉山和一、没。江の島に笠塔婆型墓、建立。
  • 元禄16年(1703年) - 元禄地震。東端の小島、聖天島が隆起により半島状になる。
  • 延享4年(1747年) - 江島神社の青銅の大鳥居創建。
  • 宝暦11年(1761年) - この年より7年に一度、相州江の島岩屋弁財天開帳が始まる。
  • 天明7年(1787年) - 江の島近在の風流人12人が一日江の島に遊び、「相州・江乃島八景」を選んで漢詩と和歌を添え上之宮へ奉じる。
    「岩屋之晴嵐」「江島寺晩鐘」「小児淵夜雨」「西浦之夕照」「東浦之帰帆」「金亀山秋月」「鵜島之落雁」「両山之暮雪」
  • 寛政2年(1790年) - 中津宮の鳥居再建。
  • 享和3年(1803年) - 酒井抱一、奥津宮拝殿天井の「八方睨みの亀」を描く。
  • 文化元年(1804年) - 姫路城主 酒井雅楽頭源忠道が中津宮境内に「江島弁財天女上宮之碑」を建立。
  • 文政2年(1819年) - 江戸・芝の講中、岩屋道道標を建立。
  • 文政4年(1821年) - 江島神社の青銅の大鳥居、再建。
  • 文政6年(1823年) - 江島神社奥津宮の鳥居、台風で破損。
  • 文政10年(1827年) - 江島神社奥津宮の鳥居、修復。
  • 天保12年(1841年) - 奥津宮社殿、火災で焼失。
    同年、中津宮参道の古帳庵夫妻の句碑、建立。
  • 天保13年(1842年) - 奥津宮社殿、再建。
  • 弘化元年(1844年) - 辺津宮の境内社、天王社(現・八坂神社)、再建。
  • 嘉永4年(1851年) - 江島神社奥の院の鳥居、稚児ヶ淵への下り口に建立。
  • 文久元年(1861年) - 中津宮の社前にあった竜宮城の門と同様な「不老門」が老朽化していたのを、相州津久井郡勝瀬村の富豪・岡部政右衛門が私費を投じて独力で再建。再建記念碑を建立。碑のみ現存。
  • 文久2年(1862年) - 河竹黙阿弥作の歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)(弁天娘女男白浪、通称「弁天小僧」)」江戸中村座で初演。
  • 慶応元年(1865年) - 長堀検校ら、辺津宮の朱塗りの大鳥居の脇に大型の狛犬を寄進。
  • 明治元年(1868年) - 明治維新により江の島村は一旦韮山県に所属し、9月21日11月5日)、神奈川県となる。
  • 1873年(明治6年) - 神仏分離令により、金亀山与願寺は廃され、神道部分が弁財天信仰を引き継ぎ、江島神社という神社となった。辺津宮の境内社、天王社、八坂神社と改称。江の島に江島学舎が開校する。旧岩本院、旅館「岩本楼」として開業。
  • 1875年(明治8年) - 東大教授・ヒルゲンドルフが江の島で貝を買い、その後、オキナエビスが新種であることが分かる。
高橋由一による江の島図。1876年から77年の間。
日下部金兵衛による写真。1890年代。
  • 1890年(明治23年) - 江の島北岸が埋め立てられ、須田町と名付けられる。
  • 1891年(明治24年) - 江の島に初めて桟橋が架けられる(砂州の途中から)。
  • 1897年(明治30年) - 江の島・片瀬間に村営棧橋完成。
  • 1902年(明治35年) - 江之島電氣鐵道、藤澤 - 片瀬(現・江ノ島駅)間開通。山二つに中村屋羊羹店開業。
  • 1905年(明治38年)6月18日 - 江の島防険柵落成式(岩屋弁天に通じる鉄鎖)。
  • 1909年(明治42年) - 江の島に初めて電灯開設。
  • 1911年(明治44年) - 片野廣吉が渡邊貝細工店より妻ラクを迎え、江の島2-4-8(鎌倉郡川口村200番地)に貝廣を創業。
  • 1915年(大正4年) - 江島神社奥の院の鳥居を修復。
  • 1917年(大正6年)4月10日 - 山田流琴曲の開祖・山田検校を顕彰し、山田検校顕彰碑と座像が検校100年忌に幸田露伴らによって建てられた。
  • 1918年(大正7年) - 日露戦争で活躍した明治時代軍人児玉源太郎を祀る児玉神社が創建された。
  • 1923年(大正12年)9月1日 - 大正関東地震により島全体が2メートル近く隆起し、海食台が海面上に現れる。江の島桟橋は津波で流失する。
    • 10月 - 再建された江の島桟橋が川口村営から神奈川県営になる。
  • 1926年(大正15年)4月 - 東大資料編纂室長の浦永峯光が、奥津宮拝殿の八方睨みの亀の絵を酒井抱一の末流野沢堤翠に摸写を依頼。
  • 1927年(昭和2年) - 江の島、日本百景に選定。
  • 1928年(昭和3年)2月 - 江之島水道株式会社が東京府の玉川水道株式会社と業務提携し、湘南水道株式会社と商号を変更。
  • 1929年(昭和4年)4月1日 - 小田原急行鉄道江ノ島線が開通する。
  • 1930年(昭和5年) - 台湾の有志、児玉神社に狛犬を奉納。
  • 1933年(昭和8年)4月1日 - 町制を施行・改称し、鎌倉郡片瀬町となる。湘南水道株式会社が神奈川県に買収され、神奈川県営水道となる。江之島水道、湘南水道当時の量水器蓋や止水栓蓋が2016年11月現在も僅かに現存している。
  • 1934年(昭和9年)4月、海底透視船が営業開始する。
    • 12月28日 - 「江ノ島」の名称で、国の名勝および史蹟に指定される[17]
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 鎌倉郡片瀬町が藤沢市に編入され、藤沢市片瀬の一部となる。
  • 1949年(昭和24年)4月25日 - 木造の江の島桟橋、コンクリート橋脚の「江の島弁天橋」(有料)となる。
    • 12月 - 藤沢市がコッキングの庭園跡地を整備し、「江の島熱帯植物園」として公開した。
  • 1950年(昭和25年) - 江の島熱帯植物園、江ノ島鎌倉観光(後の江ノ島電鉄)の委託経営となり、「江の島植物園」と改名。
  • 1951年(昭和26年) - 伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスを江の島植物園で飼育。後に台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、弁天橋を渡って鎌倉市内に入り込んで繁殖するようになったといわれる。
  • 1953年(昭和28年) - 江島神社の木造彩色弁才天坐像、県指定文化財(彫刻)に指定。
  • 1958年(昭和33年) - 江の島弁天橋、全面コンクリート製となる。江島神社の太刀 銘:肥前国佐賀住1口 県指定文化財(工芸品)に指定。
  • 1959年(昭和34年)3月5日 - 藤沢市は米国マイアミビーチ市と姉妹都市提携を結び、「東洋のマイアミビーチ」という触れ込みで江の島・片瀬・鵠沼地区の観光開発に力を入れる。江ノ島鎌倉観光は日本初の野外エスカレータ「エスカー」を建設し、江の島植物園内にインドネシアスラウェシ島トラジャ族の家屋を模した「南方民俗館」を開設した。
  • 1960年(昭和35年)6月10日 - 第十八回夏季オリンピック東京大会で、江の島にヨット競技の会場を建設に伴って景観が破壊されることとなったため、文化財保護委員会は「江ノ島」に係る国の名勝および史跡の指定解除を決め、同年6月29日に名勝および史跡の指定は解除された。
    • 10月14日 - 神奈川県が県指定史跡・名勝とした。
  • 1961年(昭和36年)3月31日 - 藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校廃止。
  • 1962年(昭和37年) - 埋め立て工事のために神奈川県道305号江の島線自動車専用橋「江の島大橋」が開通し、「江の島弁天橋」の通行料が無料となった。
    江の島東部が突貫工事により大幅に埋め立てられ、島の面積は一挙に約1.5倍になった。この埋め立てにより、東浦の離れ小島であった聖天島は公園内にその上部を晒す事となり、2016年11月現在も原位置に存在してバス停名称にもなっている。
  • 1963年(昭和38年) - 湘南港、江の島ヨットハーバー、江の島漁港が開設された。杉山和一の墓が市指定史跡に、群猿奉賽像の庚申供養塔が市指定有形民俗文化財に指定。
  • 1964年(昭和39年) - 東山頂上部にあった旅館「江の島館」、出火焼失し廃業。
  • 1965年(昭和40年) - 東海汽船、湘南港 - 大島航路就航。
  • 1966年(昭和41年) - 江の島モーターボートクラブ(E.M.C.) 創業。
    • 10月1日 - 藤沢市が実施した第4次住居表示により、大字江之島が江の島一丁目および江の島二丁目となる[18]。市はこの時に地名表記をひらがなに統一し、「江の島」が公称地名となる。
  • 1968年(昭和43年) - 日本高速船の湘南港 - 熱海 - 伊東を結ぶ水中翼船「わかしお」の定期運航廃止。
  • 1970年(昭和45年) - 辺津宮旧神楽殿跡に法隆寺夢殿を模した八角堂「奉安殿」が新築される。
  • 1971年(昭和46年) - 江島神社奥津宮拝殿の八方睨みの亀の絵 市指定文化財(絵画)に指定。熱帯植物園のクックアロウカリア、シマナンヨウスギ、タイミンチク群、ツカミヒイラギを市指定天然記念物に指定。
    • 3月7日 - 岩屋で落石事故。立ち入り禁止となる。
  • 1974年(昭和49年) - 東海汽船、湘南港 - 大島航路を廃止。現在、藤沢市は大島航路再開を目論んでいる。
  • 1976年(昭和51年) - 辺津宮、拝殿と幣殿を新築。
  • 1978年(昭和53年)6月 - 廃校になった藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校の施設を利用して、江の島市民の家開所。
  • 1979年(昭和54年) - 江の島稚児ヶ淵、かながわの景勝50選に選定。
  • 1980年(昭和55年) - 中津宮、屋根の葺き替え。
  • 1982年(昭和57年) - 江の島天王祭、かながわのまつり50選に選定。
  • 1984年(昭和59年) - 江島神社の真名本江嶋縁起、市指定文化財(書跡)に指定。
  • 1985年(昭和60年)4月14日 - 北緑地にエドワード・S・モースを記念する「日本近代動物学発祥の地記念碑」を設立。
  • 1986年(昭和61年) - 辺津宮参道に龍宮城を模した「瑞心門」造営。「江の島地区整備計画検討会議」が発足。
  • 1987年(昭和62年) - 江ノ島参道から片瀬州鼻通り、かながわのまちなみ100選に選定。
  • 1988年(昭和63年) - 江ノ島の森、かながわの美林50選に選定。
  • 1990年(平成2年) - 江の島大橋江の島弁天橋かながわの橋100選に選定。
  • 1991年(平成3年) - 江ノ島、かながわの探鳥地50選に選定。
  • 1993年(平成5年) - 22年にわたり閉鎖されていた岩屋が調査・整備の後、有料観光施設として再開された。旧江の島館跡地に江の島大師創建。
  • 1994年(平成6年) - 江の島植物園(ツバキ)、かながわ花の名所100選に選定。奥津宮近くに龍宮大神(わだつみのみや)が祀られる。
  • 1996年(平成8年) - 江島神社中津宮、大改修が行われる。恋人の丘の「龍恋の鐘」が設置される。
  • 1997年(平成9年) - 江島神社の青銅鳥居、市指定文化財(建造物)に指定。
  • 1998年(平成10年) - 第53回国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)のヨット競技会場となる。
  • 1999年(平成11年) - 湘南港にセンタープロムナードとサザエ島完成。「金亀楼」跡地の建造物が撤去され、「花の広場」となる。
    • 9月 - 第1回「江の島歌舞伎」公演(会場=かながわ女性センター)。以後隔年に開催。江島神社中津宮境内に記念碑建立。しだれ梅を記念植樹。
  • 2000年(平成12年)
    • 3月 - 江の島北緑地再整備事業が行われ、東京オリンピック記念「弁財天と世界女性群像」噴水池を現在地に整備。
    • 10月、参道に「片岡鶴太郎美術館」オープン。
  • 2001年(平成13年) - 岩本楼ローマ風呂、国の登録有形文化財(建造物)に登録。八坂神社改築。江の島囃子連合会、江の島囃子、県指定無形民俗文化財に指定。江の島かながわ未来遺産100に選定。
  • 2002年(平成14年) - 江の島植物園改修工事のため閉園。工事現場から縄文土器類1万点が出土。さらにサムエル・コッキングの建設した温室設備を発見。江島神社鎮座1450年を記念して瑞心門に弁財天像を設置。第一岩屋に与謝野晶子歌碑建立。
  • 2003年(平成15年)
    • 1月 - 1951年(昭和26年)に建てられた平和塔が建て替えられ、江の島展望灯台として新たにオープンした。この灯台の所有者は江ノ島電鉄である。
    • 4月29日、植物園が整備され、江の島サムエル・コッキング苑オープン。
    • 5月5日、「片岡鶴太郎美術館」閉館。
  • 2004年(平成16年)
    • 4月10日 - 戦時中供出により失われていた奥津宮境内の山田検校座像を再建、除幕式。
    • 12月15日 - 旧二見館跡に天然温泉&スパ「江の島アイランドスパ」、オープン。
  • 2010年(平成22年) - 江の島を起点に行われるマラソン大会・湘南藤沢市民マラソン(しょうなんふじさわしみんマラソン)の第1回目が行われる。
  • 2015年(平成27年) - かながわ女性センターが、島外の藤沢合同庁舎へ移転。施設はのちに解体された。
  • 2021年(令和3年) - 東京オリンピックセーリング競技が開催。

町名の変遷

実施後 実施年月日 実施前(特記なければ、各字名ともその一部)
江の島一丁目 1966年10月1日 大字江之島字西町、字須田町、字東町(全域)
江の島二丁目 大字江之島字西町、字須田町

「江の島」「江ノ島」の表記には揺れがあるが、1966年(昭和41年)10月1日藤沢市が行った住居表示の施行[18](この前後に行われた住居表示実施で、藤沢市内の地名表記における片仮名は全て平仮名に統一された)により、正式な地名としているのは「江の島」である。江ノ島電鉄小田急江ノ島線の駅名はそれぞれ「江ノ島駅」「片瀬江ノ島駅」であるが、湘南モノレールの駅名は「湘南江の島駅」である。一方、神社名は江島神社で「えのしまじんじゃ」と読ませる。

古い文献などでは、「江島」「江乃島」「江之島」「柄島」「絵島」「画島」「榎島」「荏島」など、さまざまな表記が見られる。

江の島または江ノ島の呼称は、単に陸繋島江の島(町名としての江の島一丁目および二丁目)だけでなく、対岸の片瀬海岸一丁目から三丁目および鵠沼海岸一丁目および二丁目を含む一帯の上記駅名をはじめ、組織名、企業名、行事名などに広く用いられ、観光地江の島はこの一帯を含んで認識されている。

  • 組織名の例
    • 江の島海水浴場営業組合(片瀬東浜)
    • 江の島海水浴場協同組合(片瀬西浜・鵠沼)
  • 企業名の例
  • 行事名の例
    • 江の島マイアミビーチショー
    • 江の島花火大会



注釈

  1. ^ a b 出土した温室遺構の基礎部分に使用された煉瓦に1888年(明治21年)創業[7][8][9][10] の横浜煉化製造会社の刻印が多数見られる。
  2. ^ 旧「ヨットハウス前」バス停。東海汽船の大島航路運航時迄は現在の「湘南港桟橋」は「ヨットハウス前」という途中のバス停で、更に左折して桟橋の袂が「湘南港桟橋」終点だった。
  3. ^ 「湘南港桟橋」の移転前は4箇所であった。
  4. ^ 平塚駅を経由し終点は大磯駅。
  5. ^ 1962年の江の島大橋開通までは対岸の片瀬にある「江ノ島海岸」停留所が終点であった。
  6. ^ 現在の湘南港桟橋終点とは位置が異なる。
  7. ^ 車道に設置されているゲートが閉められたことはなく、車の通行は黙認されている[29]
  8. ^ 江の島からは直線距離で2キロメートル強の地点に位置している。
  9. ^ 三浦半島以外では、東京湾鋸南町いわき市金華山などにて組織的な古式捕鯨が行われていた[35][36]。ただし、西日本と比較してクジラが多い地域が少なかったというわけではなく、捕鯨を嫌う民衆が多く、捕鯨をタブー視したり捕鯨そのものを禁止する地域も存在したなど、社会的な情勢が西日本と異なっていた[37]。しかし、三浦浄心が憂慮するほどに一帯での捕獲が多かったらしく、20年前後でクジラがあまり見れなくなったとされる[38]
  10. ^ セミクジラコククジラザトウクジラニタリクジラミンククジラなど[41][42][43]
  11. ^ 三浦半島自体は現在でも一部のクジラ回遊経路として機能しているが、基本的には半島の先端など外洋や水深がより深いエリアでの記録が目立ち、近年の観察がとくに多いのは深海性のマッコウクジラである[45]
  12. ^ またはミナミハンドウイルカ

出典

  1. ^ a b 町丁字別人口と世帯数(国勢調査を基準とした推計値)2023年9月” (PDF). 藤沢市 (2023年9月6日). 2023年9月21日閲覧。 “(ファイル元のページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月25日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b c 江の島の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月25日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  5. ^ 住居表示実施区域”. 藤沢市. 2018年2月26日閲覧。
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