いなぎ‐し【稲城市】
読み方:いなぎし
⇒稲城
稲城市
稲城市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 16:10 UTC 版)
神奈川県横浜市〜川崎市・東京都稲城市などに分布する五十猛神を主神とする神社に関しては杉山神社を参照されたい。 神社名 所在地 主な祭神 神社系列 神社庁 公式サイト 備考 穴澤天神社 矢野口 少彦名命 北野神社 25191 式内小社郷社 大麻止乃豆乃天神社 大丸 櫛真智命 25191 郷社 青渭神社 東長沼 青渭神 青渭神社 式内社郷社 竪神社 百村 大雷神 多摩ニュータウン内にある神社。 表・話・編・歴
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稲城市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 00:49 UTC 版)
2015年現在、東京南農業協同組合稲城支店内にある稲城の梨生産組合が作られている。2006年(平成18年)稲城の梨が商標登録化されブランド化されている。 2008年度(平成20年)時点で作付面積は31.8ヘクタール、収穫量は1,057トンとなっている。 稲城市の梨栽培の歴史は、元禄年間(1688年〜1704年)に代官の増岡平右衛門、川島佐治右衛門が山城国から淡雪(あわゆき)の苗を持ち帰り、植えたことが始まりとされる。明治中期ごろから梨栽培が活発化する。水田から梨栽培に転換する農家が多かったおいう。1884年(明治17年)に梨の組合が作られ、生産名を稲城梨とする。1900年(明治33年)に長十郎が導入、1905年(明治38年)に二十世紀が導入される。1932年(昭和7年)生産名が稲城梨から多摩川梨に統一される。日中戦争・太平洋戦争がはじまると人手・物資不足、梨栽培から麦への転換が相次ぎ、1944年(昭和19年)には作付面積は最盛期の5分の1まで減った。1949年(昭和24年)には梨の価格が暴騰し、それによって再び生産は増加する。 観光化 1950年代(昭和20年代)に入ると稲城でも梨狩りが盛んとなり、1957年(昭和32年)には小規模農家はグループで観光果樹園組合が結成、大規模農家は独自にバス会社と契約し、梨狩りの団体客を迎えたものの他県が生産する梨に押されるようになり、1960年代(昭和30年代)には市場への出荷はほぼ消滅、観光特化・直売化した。しかし1970年代以降(昭和40年代)になると住宅地化が進み、梨畑が減少することとなる。2007年(平成19年)稲城を使用した稲城の梨ワインが、他には稲城市内において梨けーき、稲城の梨シャーベットなどが発売されている。2012年(平成23年)大河原邦男と井上ジェットによって梨をモチーフとした稲城市のイメージキャラクター「稲城なしのすけ」が誕生している。
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「稲城市」の例文・使い方・用例・文例
- 稲城市という市
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