証言履歴
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秦郁彦 1999から。 1924年生まれ。14歳のとき区長から針工場へと言われ、下関からインドネシアのスマランへ。同行23人、虐待され体は今も傷だらけ。アヘン中毒となる。終戦時に日本軍の慰安婦生き埋め計画を知り、連合軍に通報して阻止。1996年現在は72歳。 1995年9月、中国で開かれた北京女性大会で、韓国代表として出席「日本の軍医官から不妊手術を受けており、金の代わりに軍票を受けた。1日平均50人ずつ、週末には100人の軍人と性関係を持たなければならなかった」と証言した。 1924年 慶尚南道河東郡生まれ。 証言によると、13歳のとき(1937年前後と思われる)、当時オランダ領であるインドネシアに連れて行かされ、7年間にわたって日本軍の慰安婦として働かされたと証言していた。
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女性国際戦犯法廷にて慰安婦として李容洙らと共に証言。 2007年2月15日、マイク・ホンダ提案の慰安婦法案に関連してアメリカ下院公聴会にて慰安婦として李容洙、ジャン・ラフ・オハーンらと共に証言。
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慰安婦問題研究家の森川万智子との共著によると、1924年大邱生まれ。生活が苦しく12歳の頃、九州へ働きに行ったが翌年逃げ帰った。キーセンになろうと思ったが兄に反対された。1940年16歳で日本人と朝鮮人の憲兵に呼び止められ、朝鮮人の刑事と一緒に列車にのり、朝鮮人の運営する中国東北部(満州)の慰安所へ強制連行された。1941年17歳で朝鮮半島に逃げ帰り、スリッパ工場で働いた。18歳でキーセン学校へ行き1年で終了し座敷に出るようになった。「食堂で働けば金儲けが出来る」という誘いにのり、1942年7月10日釜山港から船に乗った。ラングーンで慰安婦にさせられる事を朝鮮人の日本軍兵士から聞いて、騙された事を知ったが、同時にやはりそうかと妙に納得した。仲間とビルマに渡り慰安婦にさせられた。ビルマでは、チップが貯まったとして、「千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった。貯金通帳はわたしの宝物となった」と語り、母親に小さな家が何軒も買える大金を送金したことや、許可を得て5千円を実家に送ったことを語っている。また「週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。」「ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな恰好でサイゴンの街を闊歩した。だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう。」「ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。(中略)わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。」と現地での楽しみを語っている。 伊藤孝司編集による証言集によれば、1924年4月、大邱に生まれ、父と母は働いていたが、決まった仕事はなかった。8歳のとき父が亡くなり、私立の夜間学校に通っていたが、貧しかったので3年で中退した。10歳のときから5年間家事手伝いの仕事をした後、15歳から靴下工場で働いた。靴下工場では2、3年働いたが、その後失業し、家で暮らした。顔見知りの朝鮮人に遠い食堂で働けばお金が儲かると言われ、1942年の7月9日家を出て船でビルマのラングーンに到着した。そこで慰安婦になると初めて聞かされ、マンダレーの慰安所へ送られたとなっている。 伊藤は後書きで「この本に収録している証言の内容は100パーセント事実であるとは言えない(略)証言者達は忌まわしい体験から半世紀近く過ぎて高齢化した今、記憶が次第に不確かになっています。(略)どの証言についても可能な限り再度本人に確認をとりましたし、削除した部分もあります。ですからここに収録した証言は証言者の記憶違いによる間違いはあるかもしれませんが、基本的には事実に近い内容であると言えるでしょう」とも書いている。 文玉珠の出版された3つ証言からは、1940年の「軍服を着た日本人」による暴力による連行の話は、1992年8月に出版された伊藤孝司の証言集では話されていなかったが、しかし1992年3月から開始された挺対協の調査(韓国語版は1993年1月出版)では話したとされ、また1996年出版の森川万智子の聞き取りでも話されている。
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証言履歴
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最初に報道された朝日新聞の1991年8月11日の植村隆記者による記事では「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」「慰安所は民家を使っていた。5人の朝鮮人女性がおり、1人に1室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられ、毎日3、4人の相手をさせられた」と経歴が説明された。金学順が軍令により強制連行されたと判断できるのはこの記事のみであるが、後に朝日新聞が「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません。」として訂正記事を出している。 同年8月15日のハンギョレ新聞で、この報道に関連して本人が行った記者会見の内容が報じられたが、金学順は「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」と証言している。 同年12月6日に提訴されたアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の訴状では、「一四歳からキーセン学校に三年間通った」「「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。」と述べている。 同年12月25日の朝日新聞に掲載された植村隆記者による金学順の取材記事では「貧しくて学校は、普通学校4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」「「そこへ行けば金もうけができる。」こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。」「平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。」となっており、直前に本人が証言していたキーセン学校や慰安所のある集落に連れて行った養父の存在に触れていないため、市中で普通に暮らしていた少女が役人・軍人の手によって連れて行かれたかのような印象を与える内容になっていた。これについて朝日新聞は慰安婦報道第三者委員会の報告書を元に「キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。」と検証している。 1993年11月刊行の「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」によると挺隊協の調査に対して金学順は「母は私をキーセンを養成する家の養女に出しました。母は養父から四〇円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いていったと記憶しています。」「券番から卒業証書を貰えれば正式に妓生になって営業することができるのでした。ところが十九歳にならないと役所から妓生許可が下りないのです。卒業した年、私は十七歳だったので卒業しても営業することができませんでした。」「国内では私たちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。それで養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中国へ行くことになりました。」「北京に到着して食堂で昼食をとり、食堂から出てきたときに、日本の軍人が養父を呼び止めました。」「姉さんと私は別の軍人に連行されました」と、挺身隊としての徴用ではないものの軍人に拉致・強制連行されたと、これまでとは異なる証言をしている。 秦郁彦は、金学順の3つの証言記録と訴状を比較し「重要なポイントでいくつかの差異があるのは問題」とし、戦前の日本でも身売りされた娘は業者の養女との体裁をとることが多かったことから「彼女の場合も典型的な身売りケース」としている。朝日新聞は彼女が韓国で娼婦予備軍と見られているキーセン出身であることは問題と考えたのか当初は伏せて報道していたと指摘している。 地裁への訴状では『翌日から毎日軍人、少ないときで10人、多いときは30人くらいの相手をさせられた。朝の8時から30分おきに兵隊がきた』となっている。これについて研究者の調査では多くの朝鮮人慰安婦が多いときは数十人の相手をしたと証言している。 尹明淑は自著「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」で金学順のケースを拉致として、これを強制連行の一種に分類している。秦郁彦は著書「慰安婦と戦場の性」で証言からは養父(実質的にはキーセンの元締め)が商売のために金学順を北京に連れて行ったのは明らかに見え、養父により慰安所に売られたとものであるとし、人身売買であろうと判断している。吉見義明は強制連行とはしていないながらも、著書『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』で彼女がキーセンに売られた可能性を認めつつもその意志によったものではない点から、これを「強制」のケースと定義している。ただし、秦がもっとも真相に近いとみるケースにおいても、養父が商売のために金学順を連れて行ったのは事実であっても、養父が駅で朝鮮語を話していたところスパイ容疑を口実に兵士らに事実上因縁をつけられ、養父は連行されそのまま不明となり、金学順自身は実際に実力で慰安所に拉致されていることから、初めから兵士らが駅で網をはって、事件が発覚しにくい外部からの来訪者を対象に慰安婦狩りをしていたとみるのが最も妥当と考えられる。古都平壌の妓生見習いであれば、まさに日本の京都の舞妓(京都の芸者である芸妓の見習い)に比すべき存在であって、売られたのであれば、ことさら慰安所送りになった理由が分からない。また、同様な被害者がいても、名乗り出るにあたっては、やはり妓生になる覚悟をしていた状況の影響(日本でも少なくとも過去は、舞妓になるのは母子家庭や母が舞妓・芸子の出身者というケースが多かった)が考えられ、彼女が名乗り出ることが出来たのはキーセン見習いであったからこそとも考えられる。 池田信夫は金学順が後年になって証言内容を変えた理由について、当初は「軍票が紙切れになったので賠償して欲しい」という話だったが、戦時賠償の話では裁判で却下されて終わる可能性が高かったので、彼女の弁護士が裁判を有利に進めるために、朝日新聞の誤報を利用し、国の責任を強調する目的で強制連行の話を付け加えさせたのではないかと述べている。
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