藤田嗣治の画業と戦争画
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「アッツ島玉砕」の記事における「藤田嗣治の画業と戦争画」の解説
『アッツ島玉砕』の作者、藤田嗣治は1886年に東京市に生まれた。父、藤田嗣章は陸軍軍医であり、日清戦争、日露戦争に従軍し、1912年には軍医総監となる。藤田の父が軍医として最高位にまで登り詰めた経歴を持っていたことが、戦時中「報国」の理念を強調し、戦争画を描くようになった動機の一つであったと考えられる。 幼い頃から絵画に強い関心を持っていた藤田は、東京美術学校の西洋画科を経て1913年にフランスに留学する。フランス留学翌年の1914年、第一次世界大戦が勃発する。開戦後パリ在住の日本人の多くが帰国やイギリス等への避難、地方疎開をしてパリを離れたが、藤田は戦時下のパリに留まる。後に藤田は「私ほど戦に縁のある男はない」と語っているが、藤田の人生に戦争は大きな影響を与えることになる。 1920年代、藤田は磁器を思わせる白地で女性を描くスタイルでパリで画家として成功する。1920年代後半、パリを囲むティエールの城壁が撤去された跡地に国際大学都市の建設が始められた。薩摩治郎八は新設される国際大学都市に日本人留学生のための学生寮を寄贈する。1927年以降、藤田はその国際大学都市の日本人学生寮である日本館の壁画作成に携わるようになる。1929年に日本館は落成し、藤田が手掛けた壁画が展示された。また1929年には藤田は連合国退役軍人クラブの壁画作成も行っている。 藤田は国際大学都市日本館の壁画作成に当たり、様々な人体デッサンを繰り返していた。その人体デッサンは後の作品制作に生かされることになった。やがて人体デッサンを型として把握すると、モデルを使わず自ら会得した型を当て嵌めていくように作品制作を行っていくようになる。また壁画作成の中で大画面に群像を描く作品制作に関心を強めていく。 1929年の世界恐慌後は、経済情勢の悪化の影響もあって、パリを拠点とした生活を離れてまずアメリカ合衆国、中南米を周遊し、1933年11月に日本に帰国。その後は東京を拠点として日本やアジア各地を巡るようになった。この時期の藤田の作品では多くの人種を描かれており、パリ時代に西洋人の人物画に習熟した藤田は、アメリカ、中南米、更に日本やアジア各地を巡る中で、各人種の特徴を描く技術を手に入れることになる。 東京に拠点を置くようになった藤田は、注文を受けて壁画を描くようになる。壁画の受注をこなすようになった藤田は、これまでは時間をかけて丁寧に絵を描いてきたものが、限られた時間の中で作品を速成するようになった。藤田は壁画に富裕層のコレクションとして蒐集されるような絵画ではなく、多くの人々に美術に触れる機会をもたらし、大衆に奉仕する芸術作品としての役割を期待していた。また施主の注文を受けて制作する壁画は、どうしても施主の意向を反映した作品にせざるを得ない。また壁画制作を続けるうちに、藤田は大画面に多くの人々を描く表現力、構成力に磨きをかけることになる。 パリでは主に白人女性をモチーフとしていた藤田であったが、1936年にはフランス人の妻マドレーヌが亡くなり、絵画の主題はアジア系の男性が主体となっていく。そして壁画制作で培われた大画面に多くの人々を描く表現力、構成力と、芸術の公共性に対する藤田の関心は、戦時体制が強化されていく中で戦争画の制作に繋がっていくことになる。 1937年7月、日中戦争が始まると、画家たちの中から自発的に絵画制作のための従軍を申し出る動きが出る。画家たちの従軍志願の希望は強く、1939年春までには延べ300名の画家が従軍した。一方で日中戦争開戦後、壁画の注文は激減し、藤田は絵画活動の転換を余儀なくされる。そのような情勢下、藤田は自発的な従軍ではなく、戦時下の風俗である千人針を描いた絵画を1937年9月に発表する。 藤田は1938年9月に海軍、翌10月には陸軍から戦地取材を命じられ、中国の日中戦争の戦場に向かった。中国との戦いが当初の短期戦との見込みが外れ、長期戦の様相を示しだす中、陸海軍は画家や作家、作曲家らを戦場へと送り込み、国民の戦意高揚のための作品制作を推進するようになっていた。一か月余りの中国の戦地取材から帰国後、藤田は取材をもとに戦争画を制作する。この時に制作した戦争画は、戦地を取材したにも関わらずその評価は高くない。 中国から帰国し、初の戦争画を仕上げた後の1939年4月、藤田はパリへ向かう。パリ到着後まもなく第二次世界大戦が始まり、翌1940年春にはドイツ軍がフランスに侵攻し、藤田はパリ陥落直前に日本への帰国の途に就く。日本に帰国した藤田は、荻洲立兵予備役陸軍中将の依頼を受け、ノモンハン事件の戦争画制作に取り組むことになる。荻洲はノモンハン事件の現地指揮官であったが、事件の責任を取る形で予備役に編入されていた。この依頼は荻洲の個人的な依頼であり、画料も予備役編入時の下賜金から捻出したと伝えられている。そのためノモンハン事件の絵画制作に賭ける荻洲の期待は大きく、藤田は荻洲の口利きで現地取材を行った。また戦闘に関する情報を提供し、武器や兵装などの絵画描写にも正確さを要求し、若い兵士にモデルをさせたりもした。 藤田は荻洲の依頼により『哈爾哈河畔戦闘図』を描いたが、もう一枚ノモンハン事件を題材とした絵画を制作していたと伝えられている。このもう一枚の絵画は広大な草原を舞台に、ソ連軍が戦車から日本軍に容赦なく銃弾を浴びせかけ、更にはソ連戦車に日本兵の遺体が踏み潰されていくという、ソ連軍に蹂躙される凄惨な場面を描いたものとされている。藤田はごく親しい人にのみその絵画を見せ、作品の出来に自信を持っていたという。当時からノモンハン事件を描いた作品が藤田の戦争画家としての地歩を固めたと評価され、近藤史人も二枚のノモンハン事件を描いた絵画が、藤田の本格的な戦争画家としてのデビューであると評価している。また田中日佐夫はソ連軍に蹂躙されるもう一枚のノモンハン事件を描いた絵画について、藤田の「少々異常なばかりの残酷図好み」があったと指摘している。 戦争画は実際の戦闘の記憶が冷めやらない時期に、観衆に臨場感を伝えることが重要であったため、極めて短期間のうちに絵を描き上げることを要求された。また軍の要請に従って描かれる戦争画は、展示保存を考慮して日本の油彩画としては大型のサイズであった。前述のように壁画を描くようになった後の藤田は絵を早描きするようになっており、1942年に制作した『シンガポール最後の日』は26日、『十二月八日の真珠湾』は2週間で完成させた。また藤田は長年絵画の様々な技法を磨いており、依頼主の様々なオーダーに対応できるようになっていた。
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