藤田嗣治の画業と戦争画とは? わかりやすく解説

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藤田嗣治の画業と戦争画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 12:00 UTC 版)

アッツ島玉砕」の記事における「藤田嗣治の画業と戦争画」の解説

アッツ島玉砕』の作者藤田嗣治1886年東京市生まれた。父、藤田嗣章は陸軍軍医であり、日清戦争日露戦争従軍し1912年には軍医総監となる。藤田の父軍医として最高位にまで登り詰めた経歴持っていたことが、戦時中報国」の理念強調し戦争画を描くようになった動機一つであった考えられる幼い頃から絵画強い関心持っていた藤田は、東京美術学校西洋画科を経て1913年フランス留学するフランス留学翌年1914年第一次世界大戦勃発する開戦後パリ在住日本人多く帰国イギリス等への避難地方疎開をしてパリ離れたが、藤田戦時下パリ留まる。後に藤田は「私ほど戦に縁のある男はない」と語っているが、藤田人生戦争大きな影響与えることになる。 1920年代藤田磁器思わせる白地女性を描くスタイルパリ画家として成功する1920年代後半パリを囲むティエールの城壁撤去され跡地国際大学都市建設始められた。薩摩治郎八新設され国際大学都市日本人留学生のための学生寮寄贈する1927年以降藤田はその国際大学都市日本人学生寮である日本館壁画作成携わるうになる1929年日本館落成し藤田手掛けた壁画展示された。また1929年には藤田連合国退役軍人クラブ壁画作成行っている。 藤田国際大学都市日本館壁画作成に当たり、様々な人体デッサン繰り返していた。その人デッサン後の作品制作生かされることになった。やがて人体デッサンを型として把握すると、モデル使わず自ら会得した型を当て嵌めていくように作品制作行っていくようになる。また壁画作成の中で大画面群像を描く作品制作関心強めていく。 1929年世界恐慌後は、経済情勢悪化影響もあって、パリ拠点とした生活を離れてまずアメリカ合衆国中南米周遊し、1933年11月日本に帰国その後東京拠点として日本アジア各地を巡るようになった。この時期藤田作品では多く人種描かれており、パリ時代西洋人人物画習熟した藤田は、アメリカ中南米、更に日本アジア各地を巡る中で、各人種の特徴を描く技術手に入れることになる。 東京拠点を置くようになった藤田は、注文受けて壁画を描くようになる壁画受注をこなすようになった藤田は、これまで時間をかけて丁寧に絵を描いてきたものが、限られた時間の中で作品速成するようになった藤田壁画富裕層コレクションとして蒐集されるような絵画ではなく多く人々美術触れ機会もたらし大衆奉仕する芸術作品としての役割期待していた。また施主注文受けて制作する壁画は、どうしても施主意向反映した作品せざるを得ない。また壁画制作続けるうちに、藤田は大画面多く人々を描く表現力構成力に磨きをかけることになる。 パリでは主に白人女性モチーフとしていた藤田であったが、1936年にはフランス人の妻マドレーヌ亡くなり絵画主題アジア系男性主体となっていく。そして壁画制作で培われた大画面多く人々を描く表現力構成力と、芸術公共性対す藤田関心は、戦時体制強化されていく中で戦争画制作繋がっていくことになる。 1937年7月日中戦争が始まると、画家たちの中から自発的に絵画制作のための従軍申し出る動きが出る。画家たち従軍志願希望強く1939年春までには延べ300名の画家従軍した一方で日中戦争開戦後壁画注文激減し藤田絵画活動転換余儀なくされるそのような情勢下、藤田自発的な従軍ではなく戦時下風俗である千人針描いた絵画1937年9月発表する藤田1938年9月海軍、翌10月には陸軍から戦地取材命じられ中国日中戦争戦場向かった中国との戦い当初短期戦との見込み外れ長期戦様相示しだす中、陸海軍画家作家作曲家らを戦場へ送り込み国民戦意高揚のための作品制作推進するようになっていた。一か月余り中国戦地取材から帰国後、藤田取材をもとに戦争画制作する。この時に制作した戦争画は、戦地取材したにも関わらずその評価高くない中国から帰国し、初の戦争画仕上げた後の1939年4月藤田パリへ向かう。パリ到着後まもなく第二次世界大戦始まり、翌1940年春にドイツ軍フランス侵攻し藤田パリ陥落直前日本への帰国途に就く日本に帰国した藤田は、荻洲立兵予備役陸軍中将依頼を受け、ノモンハン事件戦争画制作取り組むことになる。洲はノモンハン事件現地指揮官であったが、事件の責任を取る形で予備役編入されていた。この依頼洲の個人的な依頼であり、画料予備役編入時の下賜金から捻出したと伝えられている。そのためノモンハン事件絵画制作賭け洲の期待大きく藤田洲の口利き現地取材行った。また戦闘に関する情報提供し武器兵装などの絵画描写にも正確さ要求し、若い兵士モデルをさせたりもした。 藤田洲の依頼により『哈爾哈河畔戦闘図』を描いたが、もう一枚ノモンハン事件題材とした絵画制作していたと伝えられている。このもう一枚の絵画は広大な草原舞台に、ソ連軍戦車から日本軍容赦なく銃弾浴びせかけ、更にはソ連戦車日本兵遺体踏み潰されていくという、ソ連軍蹂躙され凄惨な場面描いたものとされている。藤田はごく親しい人にのみその絵画見せ作品出来自信持っていたという。当時からノモンハン事件を描いた作品藤田戦争画家としての地歩を固めた評価され近藤史人二枚ノモンハン事件描いた絵画が、藤田本格的な戦争画家としてのデビューであると評価している。また田中日佐夫ソ連軍蹂躙されるもう一枚ノモンハン事件描いた絵画について、藤田の「少々異常なばかりの残酷図好み」があったと指摘している。 戦争画実際戦闘記憶冷めやらない時期に、観衆臨場感伝えることが重要であったため、極めて短期間のうちに絵を描き上げることを要求された。また軍の要請に従って描かれる戦争画は、展示保存考慮して日本油彩画としては大型サイズであった前述のように壁画を描くようになった後の藤田は絵を早描きするようになっており、1942年制作したシンガポール最後の日』は26日、『十二月八日真珠湾』は2週間完成させた。また藤田長年絵画様々な技法磨いており、依頼主様々なオーダー対応できるようになっていた。

※この「藤田嗣治の画業と戦争画」の解説は、「アッツ島玉砕」の解説の一部です。
「藤田嗣治の画業と戦争画」を含む「アッツ島玉砕」の記事については、「アッツ島玉砕」の概要を参照ください。

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