競技経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 14:57 UTC 版)
沼津市立第五中学校から日本大学三島高等学校を経て日本大学文理学部心理学科卒業。3姉妹の次女。3歳上の長姉が水泳をしていた影響で、岩崎も5歳から地元のスイミングスクールで水泳を習い始める。 姉も高校1年次(1991年)にインターハイ女子100m・200m平泳ぎで2冠を達成した五輪候補選手だったが、岩崎も1990年(小学6年次)に100m平泳ぎで1分12秒79の短水路学童日本記録を樹立、1991年(中学1年次)に全国中学校水泳競技大会女子100m・200m平泳ぎで2冠を達成し(200mは2分31秒08で当時の大会新記録)、同年の日本選手権200m平泳ぎでも4位に食い込むなど、一気に頭角を現す。 1992年バルセロナオリンピックの出場選手選考会を兼ねた同年4月の日本選手権女子100m・200m平泳ぎの両種目では、姉を破ってともに2位に入り、五輪出場権を獲得する。
※この「競技経歴」の解説は、「岩崎恭子」の解説の一部です。
「競技経歴」を含む「岩崎恭子」の記事については、「岩崎恭子」の概要を参照ください。
競技経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 05:39 UTC 版)
中学時代は軟式野球部に所属。ノーヒットノーランを3回達成したことがあり、強豪校から勧誘が殺到するほどの好投手だった が、中学校の体育の授業でハンドボールをやっていた時に陸上部の顧問の目にとまり、「日本一になりたくないか?」と言われ、やり投への転向を決意したという。「勝つのも負けるのも自分次第、というところにも魅力を感じました」と語っている。全国的な投てき競技の強豪校として知られる今治明徳高等学校に進学し、陸上競技部に入部した。 1年時の県大会には110mハードルに出場。2年時の1996年には、インターハイやり投で優勝(記録65m80)。3年時の1997年インターハイでは、やり投(記録68m06)と円盤投(記録53m28)の2冠を達成した。同年秋には愛媛県東予地区選手権やり投において76m54のジュニア日本記録(当時)を樹立。 1998年に日本大学に進学。同年、フランスのアヌシーで開催された第7回世界ジュニア選手権男子やり投で銅メダルを獲得した。これは日本投てき史上、世界大会初のメダルであった。3年時の2000年に第84回日本陸上競技選手権大会やり投で初優勝(以降2011年まで大会12連覇)。4年時の2001年には第21回ユニバーシアードで7位入賞。日本インカレでは80m59の日本学生新記録を樹立。日本人3人目の80mスローワーとなった。 2002年、スズキに入社。同年の釜山で開催された第14回アジア大会に左頸骨の疲労骨折の重症をおして出場し銀メダルを獲得した。アジア大会後に左頸骨の手術に踏み切った。短助走での投てき技術の向上と、足の回復もあって、2004年シーズンには自己記録を81m71にまで伸ばし、アテネオリンピックに初出場するも78m59で予選敗退。2006年には自身2度目となる第15回アジア大会の銀メダルを獲得するも、2005年ヘルシンキ世界選手権では68m31、2007年大阪世界選手権では77m63、2008年北京オリンピックでは78m21と世界大会では4大会連続で予選落ちとなり、世界大会決勝進出の目標は果たせないでいた。 2009年8月21日、ドイツ・ベルリンで開催された第12回世界選手権の男子やり投予選で83m10(当時日本歴代2位)を投げて決勝進出を果たし、8月23日の決勝では2投目で82m97を投げて3位になり、銅メダルを獲得した。オリンピックと世界選手権を通じて、男子やり投種目の日本人選手初のメダリストとなった。また世界陸上大会のフィールド競技における日本人のメダル獲得者は、2001年大会で銀・2003年大会で銅の男子ハンマー投・室伏広治以来二人目である。 その後、2009年内に開催されたスーパー陸上2009では2位、第18回アジア選手権では優勝。12月には日本陸上競技連盟の年間MVP(アスリート・オブ・ザ・イヤー)に選出された。 2010年第16回アジア大会では決勝の2投目で自己ベストの83m15(当時日本歴代2位)を出して、アジア大会3度目の出場で初めて金メダルを獲得した。 2011年5月、セイコーゴールデングランプリ川崎で国内開催大会での自己ベスト記録(当時)となる82m90で優勝。同年7月10日、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で開催された第19回アジア選手権で自己ベスト記録(当時)となる83m27の投擲で2連覇を達成。8月14日にも愛媛県総合運動公園陸上競技場で開催された国体予選で自己ベスト記録(当時)を83メートル53 に伸ばし、9月1日、韓国・大邱での第13回世界選手権に挑んだが、1投目の80m19を出した後、2投目以降に記録を伸ばせずに予選落ちした。 2012年6月9日、第96回日本選手権で2投目に自らの大会記録を更新する82m93、3投目に大会記録と自己ベストを更新する83m95をマークした。ディーン元気が4投目に84m03を記録したため、逆転されて2位となった。日本選手権の連覇は12で途切れたが、3大会連続となるロンドンオリンピック日本代表、及び日本選手団主将に選出された。迎えたロンドンオリンピックでは予選で77m80に終わり、予選敗退となった。 2013年4月、日本大学文理学部体育学科助教に就任した。同月29日の織田記念国際において自己記録を2m以上更新する85m96を投げて2大会ぶり13回目の優勝、日本陸連の設定した第14回世界選手権派遣設定記録 (84m27) を突破した。6月8日に行われた第97回日本選手権において81m04を投げ、2年ぶり13度目の優勝を果たすと同時に、8月にモスクワで行われる第14回世界選手権の代表に内定した。 2014年6月8日の第98回日本選手権は73m91を投げて6位。10月2日の仁川アジア大会では一投目にシーズンベストとなる81m66をマークして4位となった。 2015年6月28日の第99回日本選手権は77m84を投げて新井涼平に次ぐ2位となった。7月、2大会ぶりに出場したアジア選手権では3位となった。世界選手権出場は逃した。 2016年6月25日、第100回日本選手権は最終6投目に78m10を投げて2位に入った。 2021年9月26日、第105回日本選手権にて引退
※この「競技経歴」の解説は、「村上幸史」の解説の一部です。
「競技経歴」を含む「村上幸史」の記事については、「村上幸史」の概要を参照ください。
競技経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 17:41 UTC 版)
小学校時代はドッジボール少年団に所属していた。 大麻東中学校で陸上部に属し、1年生でハードル走、2年生で100m、砲丸投、走高跳の三種競技Aに取り組んだ。1年で168cmだった身長が2年で183cm、3年で188cmと急激に伸び、膝の痛みを誘発するオスグッド病によって思い切り練習ができなかったという。中学では通信陸上北海道大会での走高跳3位が最高位。 札幌第一高等学校の大町和敏監督に推薦入学の打診を受け同校へ入学。成績は1年生でインターハイ北海道地区大会・走高跳9位。秋の新人戦ではやり投に出場。走高跳の練習中に骨盤を剥離骨折し、1年生の冬季はウエイトトレーニングしか練習できなかったという。2年生の春にはオスグッド病も完治し、走高跳とやり投でインターハイへ出場した。 高校2年の冬、大町監督から八種競技への転向の打診を受け、初戦の札幌支部大会で5606点の北海道新記録をマーク、3試合目のインターハイでは2位となった。 大学は監督の母校国士舘大学へ進学した。1年で日本ジュニア選手権優勝、2年次に7055点、3年次に7166点を記録。4年生次に全日本インカレと日本選抜和歌山で優勝している。大学での自己ベストは7512点であった。 2009年に卒業し大学院へ進学。この年の日本選抜和歌山大会で日本歴代2位の7930点をマーク。 2011年、スズキに入社する。同年6月の第95回日本陸上競技選手権大会混成競技で日本人初となる8000点超えの8073点をマーク、日本記録を塗り替えた。同時に世界選手権参加B標準(8000点)を突破した。同年8月27日、28日の世界陸上大邱大会では7639点の20位であった。 2012年6月、日本選手権で自身2度目の8000点オーバーとなる8037点を記録して3連覇を達成し、この種目で1964年東京オリンピックに出場した鈴木章介以来、日本選手48年ぶりとなるオリンピック出場が決まった。同年8月8日、9日のロンドンオリンピックは7842点で20位。 2013年6月の日本選手権は7808点で優勝、4連覇を達成。同年8月10日、11日の世界陸上モスクワ大会は7751点で22位。同年11月、大阪高槻市にあるスポーツクラブトライにて中川隆が提唱するトライ体幹理論を3日間18時間に及ぶパーソナル合宿で直接学んだ。右代は2014年の日本記録更新時の取材にて、この時に体の正しい使い方を学べた事で自分の意思で記録を更新出来たと語っている。 2014年4月27日、日本選抜陸上和歌山大会で8143点を記録し日本記録を更新。6月1日の日本選手権混成競技では自身の掲げる目標(8300点)を越える8308点を記録し、日本新で5連覇を達成した。同年9月30日から10月1日にかけて行われた2014年アジア競技大会(韓国・仁川)では8088点を記録し金メダルを獲得した。同年12月22日に東京で開かれた日本陸上競技連盟の年間表彰式「アスレティック・アワード」では年間最優秀選手に選ばれた。 2015年7月5日の第99回日本選手権では8058点で同大会6連覇を達成。同年8月28日、29日の世界陸上北京大会は7532点で20位。 2016年4月、日本選抜陸上和歌山大会でセカンドベストとなる8160点を記録して優勝、リオデジャネイロオリンピックの参加標準記録となる8100点を突破した。6月4日、棒高跳びの練習でポールが折れて左手親指の付け根を骨折し、左膝にも6針縫うけがを負った。7日には左手にボルトを3本埋めて固定して同月11日の日本選手権に臨んだが、1種目終了時点で医師の助言に従い、大事を取って棄権した。27日には中村明彦とともにリオデジャネイロオリンピック十種競技日本代表に内定、7月1日には同オリンピック日本選手団の旗手に選出された。 2019年9月、十種競技において2019年世界陸上競技選手権大会日本代表が内定していたが、日本陸連の不備により、内定取り消しとなった。だが9月20日、出場可能となったことを、自身のTwitterにて報告。インビテーション(招待枠)で右代選手含む5名の選手が世界陸上への出場が決定した。 2020年5月、スポーツマネジメント「スポーツビズ」と業務提携契約を締結。
※この「競技経歴」の解説は、「右代啓祐」の解説の一部です。
「競技経歴」を含む「右代啓祐」の記事については、「右代啓祐」の概要を参照ください。
- 競技経歴のページへのリンク