オリンピックと世界選手権
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「ネリー・キム」の記事における「オリンピックと世界選手権」の解説
1976年7月、カナダのモントリオールで五輪大会が開催された。五輪の開幕前、この大会の女子体操競技に関しては各国際大会でその強さを示す14歳の王者コマネチと前回1972年ミュンヘン五輪で個人総合を制したツリシチェワ、前回五輪で種目別の平均台とゆかを制したコルブト、そして5月のソビエト連邦カップでツリシチェワとコルブトに勝利したキムの4人を中心とした戦いになるものとメディアは予想していたが、実際に大会で女子体操競技が始まると次第にキムとコマネチの対決との様相を呈し、2人の対決は女子体操競技の焦点として大いに注目を集めた。 キムはこの大会の跳馬で抱え込みツカハラ跳び1回ひねり、ゆかで後方抱え込み2回宙返りを見せ、いずれも世界で初めて成功させた。団体総合で金メダルを獲得した後、個人総合決勝では五輪大会の跳馬で史上初の10点満点を出して銀メダルを獲得した。五輪大会の体操競技で10点満点を記録するのは、この大会の団体総合予選・段違い平行棒の規定演技で史上初めて記録したコマネチに次いで史上2人目となった。種目別でも跳馬の予選で9.850点、決勝で9.950点をマークし、合計19.800点で大会2つ目の金メダルを獲得。ゆかでは予選で9.850点を出し、9.925点をマークした1位ツリシチェワと0.075点差の2位で決勝に臨んだ。決勝では先に演技したツリシチェワが9.900点をマークして予選との合計で19.825点とし、金メダル獲得のためには9.975点以上を出すことが必要な状況となったが、演技の冒頭で高い跳躍から後方抱え込み2回宙返りを決めてそのままミスなく演じ切り、10点満点の採点を受けて予選との合計で19.850点とし、0.025点差でツリシチェワを逆転して金メダルを獲得した。五輪大会のゆかで10点満点を記録するのは史上初めてだった。ヴァレンティーナ・コソラポワが振付を担当したゆかの演技の音楽は、前年の欧州選手権とソビエト連邦選手権に引き続いて『サンバ』が使用された。キムはこの大会で3つの金メダルを獲得して実施された女子体操競技6種目のうち半数を制し、同じく3つの金メダル(個人総合、段違い平行棒、平均台)を獲得したコマネチとともに女子体操競技の金メダルを分け合った。また、キムは1つの銀メダルと合わせて合計4つのメダルを獲得し、彼女はその女性美と、華麗さと優美さと激しさとを合わせ持つ演技スタイルをファンから称讃された。 当時、キムに関心を抱いたカナダ国立映画制作庁(英: National Film Board of Canada、略称:NFB)はジャック・ボベをプロデューサー、ジョルジュ・デュフォーとピエール・ベルニエを共同監督に起用してモントリオール五輪での彼女の姿を丹念に描写し、アスリートとその背後にある人間としての姿をテーマにした28分間のドキュメンタリー映画『Nelli Kim』を制作した。この作品は1978年に一般公開され、21世紀に入ってからはNFBの公式ウェブサイトやYouTubeのNFB公式チャンネルでも公開されている。この映画についてキムは、カナダの国立映画会社が伝統的なオリンピック記録映画ではなく、モントリオール五輪に参加している6人の選手たちに焦点を当てた斬新な映画の制作を決定し、その6人のうちの1人として彼女も選ばれたと語っている。 モントリオール五輪の結果、キムは数多くの称賛を受け、国からも表彰を受けたが、やがて困難な時期を過ごすことになった。この時期に彼女は体操競技選手としてできることは全てやり尽くしたため、今後は別の人生を歩もうと考えてコーチに現役引退を申し出ている。それまで目指してきた五輪が終わって目標を失い、どのように生きるべきかがわからなくなっていたのである。コーチは驚いて引き留めたが、彼女はシムケントを離れタタール自治ソビエト社会主義共和国(現ロシア連邦タタールスタン共和国)カザン近郊の小さなタタールの村マジリヘ行った。そこは母の故郷で、キムが幼少の頃によく行っていた思い出の場所である。マジリの親戚の家で、しばらく自然と触れ合う生活を送った。そうする中で現役続行の意欲を取り戻した彼女はトレーニングを再開させて1977年5月の欧州選手権プラハ大会に出場したが、その直後に身体に異変を感じ病に倒れた。病気は深刻なものだった。医師は、当分の間は激しい運動をしてはいけないと彼女に告げた。病気で休養している間にキムは結婚し(詳細は『結婚生活と家族』のセクションを参照)、夫が住む白ロシア・ソビエト社会主義共和国(現ベラルーシ共和国)のミンスクに移って、現地の陸軍スポーツクラブに加入した。 ミンスクでは夫のコーチであるニコライ・パヴロヴィッチ・ミリグロの指導の下で競技生活を続けることとしていたが、依然としてトレーニングができない状態は続いた。1960年ローマ五輪の銀メダリストであるミリグロはキムに助言を送るとともに、彼女はまだ衰えとはほど遠く競技生活を続ける能力を十分に持っていると確信していた。約半年間のブランクを経て病気から回復したキムはミリグロの下でトレーニングを再開し競技生活に復帰したが、その直後に虫垂炎で入院するなどの不運が重なって本調子に戻るのは遅れ、復帰初戦となった1978年8月のソビエト連邦カップでは個人総合16位に終わった。しかし、当時のソビエトチームは長年チームを支えてきたツリシチェワとコルブトが引退して去り、エレナ・ムヒナ、ナタリア・シャポシュニコワ、マリア・フィラトワら若い選手が主体の困難な時期にあったため、経験を買われて10月に開催される世界選手権ストラスブール大会のソビエト代表に選ばれた。 こうして迎えたストラスブール大会はキムにとって約1年半ぶりの国際大会ではあったが、ブランクによる遅れを取り戻すかのような好演技を示した。跳馬では伸身ツカハラ跳び1回ひねり、ゆかでは後方屈身2回宙返りをそれぞれ世界で初めて成功させて合計3つの金メダル(団体総合、跳馬、ゆか)を獲得。個人総合でも銀メダルを獲得し、金メダルのムヒナ、銅メダルのシャポシュニコワとともにソビエトチームで個人総合の表彰台を独占した。翌1979年は医師から足首の故障がひどくなっているとの診断を受けたため、当初は大会に出ることを控えていたが、不安に陥ったキムは医師の診断にかかわらず出場することを決めた。そして、11月に彼女にとって最高の大会となる世界選手権フォートワース大会を迎える。 フォートワース大会の個人総合は予選で39.250点のキムと39.175点のマキシ・グナウク(東ドイツ)、39.150点のフィラトワ、39.125点のメリタ・リューン(ルーマニア)と4人が0.125点差以内に並ぶ僅差の接戦となったが、決勝ではキムが4種目全てで9.850点をマークする安定感を見せて39.400点を記録し、予選との合計で78.650点として78.375点のグナウクを0.275点差で上回り、初の金メダルを獲得した。個人総合での勝利は、どの種目別での勝利よりも高い価値があると考えていた彼女にとって、この金メダルは現役生活中で最高のメダルとなった。この大会でのソビエトチームは前回の世界選手権で個人総合を制したムヒナを脚の骨折で欠くなどして戦力が低下しており、その結果、個人総合に先立って行われた団体総合で、ソビエトは世界選手権とオリンピックを通じて長年守り続けてきた王座をルーマニアに明け渡していた。そのため、個人総合での金メダルは落胆していたチームを救うために戦って獲得したものだった。モスクワの振付師ガリーナ・ウラジーミロヴナ・サヴァリナが振付を行ったゆかの演技の音楽はサンタ・エスメラルダの『朝日のあたる家』が用いられ、この曲はモスクワ五輪でも使用された。 翌1980年6月にモスクワのルジニキ・スポーツパレスで開かれたソビエト連邦選手権において個人総合で金メダルを獲得した後、キムは平均台の演技で着地の際に行う新しい技の仕上げに入った。この高難度な技を新たに開発するために彼女は約3年間の歳月を費やしている。しかし、その後、古い病気を再発させ、モスクワ五輪の開幕を目前に控える中でベッドで静養しなければならないことになった。ベッドで不安な日々を過ごし、一時はモスクワ五輪への出場も断念したが、病気からは急速に回復し復帰後のトレーニングでも以前と変わらない姿を見せた。こうした困難な状況を経ることで、それまで幾多の辛酸を経験してきたキムの闘志はかえって高まった。 そして、1980年7月、キムにとって現役最後の競技大会となるモスクワ五輪が開催された。エレーナ・ダヴィドワ、シャポシュニコワ、フィラトワらからなる若いソビエトチームを率い、団体総合決勝では394.900点をマークして393.150点のルーマニアを1.750点差で上回り金メダルを獲得した。ソビエトは前年の世界選手権で失った団体総合の王座を取り戻すとともに、この種目で1952年ヘルシンキ五輪から8大会連続の五輪金メダル獲得を決めた。また、キムは団体総合決勝の平均台の演技で「側方宙返りからの後方抱え込み宙返り」という難度の高い終末技を世界で初めて成功させた。この技はFIGにより「キム」と命名され、『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』でもE難度に指定されている。種目別のゆかでは予選で9.925点のスコアを出してコマネチと並び、大会最後の女子体操競技の金メダルをかけて臨んだ決勝では両者とも9.950点をマークして合計19.875点でコマネチとの同点優勝になった。ゆかの表彰式では長年のライバルだったコマネチとともに表彰台の頂点に立ち、そこでキムはコマネチに「もう、終わるのね?」と語りかけた。コマネチはキムに「ええ、終わりね」と答えた。モスクワ五輪で金メダル2つを獲得した彼女は、この大会を最後に現役を引退した。キムが体操演技で示す表現は、非常に女性らしい優美さと激しさ、そして強いカリスマ性を合わせ持ち、それによって彼女は人々に長く記憶されているとFIGは評している。
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オリンピックと世界選手権
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「ボート競技」の記事における「オリンピックと世界選手権」の解説
オリンピックボート競技、世界ボート選手権参照。 それぞれ開催されている種目の数が違う(オリンピックが14種目、世界ボート選手権が23種目)。ボート界ではオリンピックに重きがおかれていることが多い。
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