オリンピックと世界選手権とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > オリンピックと世界選手権の意味・解説 

オリンピックと世界選手権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 09:57 UTC 版)

ネリー・キム」の記事における「オリンピックと世界選手権」の解説

1976年7月カナダモントリオール五輪大会開催された。五輪開幕前、この大会女子体操競技に関して各国大会でその強さを示す14歳王者コマネチ前回1972年ミュンヘン五輪個人総合制したツリシチェワ、前回五輪種目別平均台とゆかを制したコルブト、そして5月ソビエト連邦カップでツリシチェワとコルブトに勝利したキムの4人を中心とした戦いになるものとメディア予想していたが、実際に大会で女子体操競技が始まると次第キムコマネチ対決との様相呈し2人対決女子体操競技焦点として大い注目集めたキムはこの大会跳馬抱え込みツカハラ跳び1回ひねり、ゆかで後方抱え込み2回宙返り見せいずれも世界で初め成功させた。団体総合金メダル獲得した後、個人総合決勝では五輪大会跳馬史上初の10点満点出して銀メダル獲得した五輪大会体操競技10点満点記録するのは、この大会団体総合予選段違い平行棒規定演技史上初め記録したコマネチ次いで史上2人となった種目別でも跳馬予選で9.850点、決勝で9.950点をマークし合計19.800点で大会2つ目の金メダル獲得。ゆかでは予選で9.850点を出し、9.925点をマークした1位ツリシチェワと0.075点差2位決勝臨んだ決勝では先に演技したツリシチェワが9.900点をマークして予選との合計で19.825点とし、金メダル獲得のためには9.975点以上を出すことが必要な状況となったが、演技冒頭で高い跳躍から後方抱え込み2回宙返り決めてそのままミスなく演じ切り、10点満点採点受けて予選との合計で19.850点とし、0.025点差でツリシチェワを逆転して金メダル獲得した五輪大会のゆかで10点満点記録するのは史上初めてだった。ヴァレンティーナ・コソラポワが振付担当したゆかの演技音楽は、前年欧州選手権ソビエト連邦選手権引き続いてサンバ』が使用された。キムはこの大会で3つの金メダル獲得して実施され女子体操競技6種目のうち半数制し同じく3つの金メダル個人総合段違い平行棒平均台)を獲得したコマネチとともに女子体操競技金メダル分け合ったまた、キム1つ銀メダル合わせて合計4つメダル獲得し、彼女はその女性美と、華麗さ優美さ激しさとを合わせ持つ演技スタイルファンから称讃された。 当時キム関心抱いたカナダ国立映画制作庁(英: National Film Board of Canada、略称:NFB)はジャック・ボベをプロデューサー、ジョルジュ・デュフォーとピエール・ベルニエを共同監督起用してモントリオール五輪での彼女の姿を丹念に描写しアスリートとその背後にある人間としての姿をテーマにした28分間ドキュメンタリー映画Nelli Kim』を制作した。この作品1978年一般公開され、21世紀に入ってからはNFB公式ウェブサイトYouTubeNFB公式チャンネルでも公開されている。この映画についてキムは、カナダ国立映画会社伝統的なオリンピック記録映画ではなくモントリオール五輪参加している6人の選手たち焦点当てた斬新な映画制作決定し、その6人のうちの1人として彼女も選ばれたと語っている。 モントリオール五輪結果キム数多く称賛を受け、国からも表彰受けたが、やがて困難な時期を過ごすことになった。この時期に彼女は体操競技選手としてできること全てやり尽くしたため、今後別の人生歩もう考えてコーチ現役引退申し出ている。それまで目指してきた五輪終わって目標失いどのように生きるべきかがわからなくなっていたのであるコーチ驚いて引き留めたが、彼女はシムケント離れタタール自治ソビエト社会主義共和国(現ロシア連邦タタールスタン共和国カザン近郊小さなタタールマジリヘ行った。そこは母の故郷で、キム幼少の頃によく行っていた思い出の場所である。マジリ親戚の家で、しばらく自然と触れ合う生活を送ったそうする中で現役続行意欲取り戻した彼女はトレーニング再開させて1977年5月欧州選手権プラハ大会出場したが、その直後身体異変感じ病に倒れた病気深刻なのだった医師は、当分の間激し運動をしてはいけないと彼女に告げた病気休養している間にキム結婚し詳細は『結婚生活と家族』のセクション参照)、夫が住む白ロシア・ソビエト社会主義共和国(現ベラルーシ共和国)のミンスク移って現地陸軍スポーツクラブ加入したミンスクでは夫のコーチであるニコライ・パヴロヴィッチ・ミリグロの指導の下で競技生活続けこととしていたが、依然としてトレーニングできない状態は続いた1960年ローマ五輪銀メダリストであるミリグロはキム助言を送るとともに、彼女はまだ衰えとはほど遠く競技生活続け能力十分に持っている確信していた。約半年間のブランク経て病気から回復したキムはミリグロの下でトレーニング再開し競技生活復帰したが、その直後虫垂炎入院するなどの不運重なって本調子に戻るのは遅れ、復帰初戦となった1978年8月ソビエト連邦カップでは個人総合16位に終わった。しかし、当時のソビエトチームは長年チーム支えてきたツリシチェワとコルブトが引退して去りエレナ・ムヒナナタリア・シャポシュニコワ、マリア・フィラトワら若い選手主体困難な時期にあったため、経験買われ10月開催される世界選手権ストラスブール大会ソビエト代表に選ばれた。 こうして迎えたストラスブール大会キムにとって約1年半ぶりの国際大会ではあったが、ブランクによる遅れを取り戻すかのような好演技を示した跳馬では伸身ツカハラ跳び1回ひねり、ゆかでは後方屈身2回宙返りそれぞれ世界で初め成功させて合計3つの金メダル団体総合跳馬、ゆか)を獲得個人総合でも銀メダル獲得し金メダルのムヒナ、銅メダルのシャポシュニコワとともにソビエトチームで個人総合表彰台独占した。翌1979年医師から足首故障がひどくなっているとの診断受けたため、当初大会に出ることを控えていたが、不安に陥ったキム医師診断かかわらず出場することを決めた。そして、11月に彼女にとって最高の大会となる世界選手権フォートワース大会迎える。 フォートワース大会個人総合予選で39.250点のキムと39.175点のマキシ・グナウク東ドイツ)、39.150点のフィラトワ、39.125点のメリタ・リューン(ルーマニア)と4人が0.125点差以内に並ぶ僅差接戦となったが、決勝ではキム4種全てで9.850点をマークする安定感見せて39.400点を記録し予選との合計で78.650点として78.375点のグナウクを0.275点差上回り、初の金メダル獲得した個人総合での勝利は、どの種目別での勝利よりも高い価値がある考えていた彼女にとって、この金メダル現役生活中で最高のメダルとなった。この大会でのソビエトチームは前回世界選手権個人総合制したムヒナを脚の骨折で欠くなどして戦力低下しており、その結果個人総合先立って行われた団体総合で、ソビエト世界選手権とオリンピック通じて長年守り続けてきた王座ルーマニア明け渡していた。そのため、個人総合での金メダル落胆していたチームを救うために戦って獲得したのだったモスクワ振付師ガリーナ・ウラジーミロヴナ・サヴァリナが振付行ったゆかの演技音楽サンタ・エスメラルダの『朝日のあたる家』が用いられ、この曲はモスクワ五輪でも使用された。 翌1980年6月モスクワのルジニキ・スポーツパレスで開かれたソビエト連邦選手権において個人総合金メダル獲得した後、キム平均台演技着地の際に行う新しい技の仕上げ入った。この高難度な技を新たに開発するために彼女は約3年間の歳月費やしている。しかし、その後、古い病気再発させ、モスクワ五輪開幕目前控える中でベッド静養しなければならないことになったベッド不安な日々過ごし一時モスクワ五輪への出場断念したが、病気からは急速に回復し復帰後のトレーニングでも以前変わらない姿を見せたこうした困難な状況を経ることで、それまで幾多辛酸経験してきたキム闘志はかえって高まった。 そして、1980年7月キムにとって現役最後競技大会となるモスクワ五輪開催された。エレーナ・ダヴィドワ、シャポシュニコワ、フィラトワらからなる若いソビエトチームを率い団体総合決勝では394.900点をマークして393.150点のルーマニアを1.750点差上回り金メダル獲得したソビエト前年世界選手権失った団体総合王座取り戻すとともに、この種目1952年ヘルシンキ五輪から8大会連続五輪金メダル獲得決めたまた、キム団体総合決勝平均台演技で「側方宙返りからの後方抱え込み宙返り」という難度の高い終末技世界で初め成功させた。この技はFIGにより「キム」と命名され、『FIG女子体操競技採点規則2017年 - 2020年版』でもE難度指定されている。種目別のゆかでは予選で9.925点のスコア出してコマネチ並び大会最後女子体操競技金メダルをかけて臨んだ決勝では両者とも9.950点をマークして合計19.875点でコマネチとの同点優勝になった。ゆかの表彰式では長年ライバルだったコマネチとともに表彰台頂点に立ち、そこでキムコマネチに「もう、終わるのね?」と語りかけた。コマネチキムに「ええ、終わりね」と答えたモスクワ五輪金メダル2つ獲得した彼女は、この大会最後に現役引退したキム体操演技で示す表現は、非常に女性らしい優美さ激しさ、そして強いカリスマ性合わせ持ち、それによって彼女は人々長く記憶されているとFIG評している。

※この「オリンピックと世界選手権」の解説は、「ネリー・キム」の解説の一部です。
「オリンピックと世界選手権」を含む「ネリー・キム」の記事については、「ネリー・キム」の概要を参照ください。


オリンピックと世界選手権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 00:30 UTC 版)

ボート競技」の記事における「オリンピックと世界選手権」の解説

オリンピックボート競技世界ボート選手権参照それぞれ開催されている種目の数が違う(オリンピック14種目世界ボート選手権23種目)。ボート界ではオリンピック重きがおかれていることが多い。

※この「オリンピックと世界選手権」の解説は、「ボート競技」の解説の一部です。
「オリンピックと世界選手権」を含む「ボート競技」の記事については、「ボート競技」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「オリンピックと世界選手権」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「オリンピックと世界選手権」の関連用語

オリンピックと世界選手権のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



オリンピックと世界選手権のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのネリー・キム (改訂履歴)、ボート競技 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS