世界選手権とオリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 15:39 UTC 版)
「吉村和郎」の記事における「世界選手権とオリンピック」の解説
世界選手権では、同じ階級に出場した野村豊和がソ連のアナトリイ・ノビコフに敗れるも敗者復活戦で勝ち上がってきたため、準決勝で吉村と戦う事となったが、リードしたまま残り時間40秒で試合会場の時計を見た吉村は背負投で「技あり」を取られ、逆転負けをしてしまう。この件に関し吉村は、野村が前の試合で脳震盪を起こしていた事に加え、吉村もそれまで野村に負けた事が無かった事や、吉村自身はもう一方の準決勝の両者(ソ連のノビコフと東ドイツのディートマール・ヘトガー)に過去の大会で勝利していた事から、自身の金メダルを確信したため「心にスキがあった」と述懐している。 日本大学卒業後は、恩師の木村忠雄をたより警視庁に入庁。 1976年のモントリオールオリンピックでは、自身の足の負傷もあり代表の座を蔵本孝二に譲ってしまう。吉村は翌77年の世界選手権に照準を定め、同年の全日本選抜体重別選手権で優勝し日本代表に選出されるが、出発の1週間前になり政治問題絡みで大会そのものが中止となる。29歳で迎える1980年のモスクワオリンピックでは、日本がオリンピックへの出場をボイコットした(モスクワオリンピック#ボイコット問題)ため、またも出場できなかった。
※この「世界選手権とオリンピック」の解説は、「吉村和郎」の解説の一部です。
「世界選手権とオリンピック」を含む「吉村和郎」の記事については、「吉村和郎」の概要を参照ください。
世界選手権とオリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:39 UTC 版)
1966年に大学を卒業すると、東京五輪無差別級の金メダリストであり天理大学で修行したこともあるオランダのアントン・ヘーシンクから誘いを受け渡欧。ユトレヒトにあるヘーシンク道場やオランダ体育大学で指導員を務める傍ら、一方でウィレム・ルスカやシュナイダー兄弟らを相手に自身の乱取稽古も行い、また寝業も徹底的に鍛え上げた。「水も食べ物も合わないし言葉もわからなかったが、柔道は共通だから困る事はなかった」と湊谷は述べている。欧州各国にも出稽古し、5人掛け・7人掛け等をこなしたという。 1967年5月に帰国すると、同年の世界選手権大会(ソルトレイクシティ)代表選考会では、試合前に松本安市監督から代表選出の条件として課された全試合一本勝を成し遂げ、日本代表に選ばれた。8月の世界選手権大会では決勝で韓国の朴吉淳を大外刈で破り、世界チャンピオンとなった。なお、この大会では7試合を戦い、合計10分もかからないほどの圧倒的強さで、同期の佐藤宣践は「無人の野を行くが如し」の快進撃であったと表している。 オリンピックイヤーの1968年は、湊谷自身も後に「出れば100%金メダルの自信があった」と語る通り、五輪に向け周囲の期待も高まるが、開催国に種目決定権があった当時のメキシコは柔道競技を採用しなかった。翌1969年には、千載一遇の機会を逃した鬱憤を晴らすかのように全日本選抜体重別選手権大会で優勝し、世界選手権大会で2連覇を達成したほか、軽中量級の体格ながら、体重無差別で行われる全日本選手権大会でブロック予選を勝ち抜き本選出場を果たしたことも見逃せない。 本人が「五輪の金メダルは欲しかった」と語る通り、1972年のミュンヘン五輪を目標に自身を奮い立たせるものの、20代後半という年齢的な体力の衰えは隠せなかった。1971年7月の全日本体重別選手権大会で3位に終わり、9月の世界選手権大会でも決勝で若手の津沢寿志(正気塾)に敗れた。翌1972年の全日本体重別選手権大会でも野村豊和に敗れ準優勝であった。これを最後に同階級の第一線からは退いたが、以降もサンボの大会で優勝したり、1975年の全日本選手権大会に出場し選手宣誓を務めるなどした。なお、柔道を始めた頃に目標としていた国体への出場は、実に14回を数えていた。
※この「世界選手権とオリンピック」の解説は、「湊谷弘」の解説の一部です。
「世界選手権とオリンピック」を含む「湊谷弘」の記事については、「湊谷弘」の概要を参照ください。
- 世界選手権とオリンピックのページへのリンク