オリンピックにおける両岸問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:07 UTC 版)
「チャイニーズタイペイ」の記事における「オリンピックにおける両岸問題」の解説
中華民国におけるオリンピック委員会の歴史は、1922年に上海に創設された「中華業餘運動聯合會(China National Amateur Athletic Federation=中華アマチュアスポーツ連合会)」が、同年パリで行われた国際オリンピック委員会 (IOC) 年次総会でNOC「中國奧林匹克委員會(China Olympic Committee=中国オリンピック委員会)」として認められたことに始まる。この時聯合會主席で外相などの要職を歴任した王正廷がIOC委員に就任した。1924年に中華業餘運動聯合會は中華全國體育協進會に改組した。1932年ロサンゼルス、1936年ベルリン、1948年ロンドンの3大会では、中国代表選手はこの体制の下で参加した。 国共内戦の結果、1949年、中国大陸に中華人民共和国が成立し、中華民国政府は台北に逃れた。1951年に「中国オリンピック委員会」は台湾に移転したと通知され、IOCに認められた。中華人民共和国の首都・北京には中華全国体育総会が設立され、「中国オリンピック委員会」としての活動を始めた。1952年のヘルシンキオリンピックでは、台湾海峡両岸双方の参加が決まったが、台北側がこれに反発して参加を取りやめた。開催国フィンランドは1950年1月13日に中華人民共和国を承認している。 1954年にはアテネで開かれたIOC総会で二つの「中国オリンピック委員会」がともに承認された。1956年のメルボルンオリンピックでは、中華民国が国旗・青天白日満地紅旗を掲げて参加することに抗議して、中華人民共和国が直前に参加を取りやめた。1958年には北京のオリンピック委員会が「二つの中国」をつくる動きに抗議するとして、IOCと複数の主要な国際競技連盟(IF)を脱退、関係断絶を宣言した。IOCに不満を持つ国々と共に独自に新興国競技大会も行った。 1959年5月28日IOC総会で、台北のオリンピック委員会について全中国を代表・統括していないとして、「中国オリンピック委員会」名義で承認し続けることはできないとの決議が採択された。台北のオリンピック委員会はこれを受けて即座に名称を「中華民國奧林匹克委員會(Republic of China Olympic Committee)」と改め、IOCに申請した。IOCは1960年にこれを認めたものの、試合では「台湾(Taiwan)」または「フォルモサ(Formosa)」の名義を使用することを求めた。台北側はこれら台湾名義の使用を受け入れず、同年のローマオリンピックでは「Formosa」の呼称が使われたことに対して入場式で抗議を行っている。1964年東京オリンピックには「Taiwan 中華民国」名義で、1968年メキシコシティーオリンピックには「Taiwan」名義で参加した。 1968年、IOCでは中華民国の英語表記Republic Of Chinaの略称であるR.O.C.という名称を使うことで一応の決着を見た。冬季大会初参加となる1972年札幌オリンピックでは「中華民国」名義で、同年のミュンヘンオリンピック、1976年の冬季大会インスブルックオリンピックでは「Republik China(中華民国)」名義で参加した。 1971年、国際連合総会が中国の唯一の合法的代表は中華人民共和国であり「蔣介石の代表」を即時追放するという内容の国連総会決議2758(アルバニア決議)を採択したことにより、中華民国は国際連合脱退を宣言した。1970年にカナダと国交を樹立したことをはじめとして、中華人民共和国は西側諸国との関係改善を続け、中華民国とこれらの国との国交断絶が相次いだ。 こうした動きに対応するため、1973年に台北のオリンピック委員会は日本の日本スポーツ協会に相当する「中華民國體育協進會」を分離して「中華奧林匹克委員會」に改組した。一方、1975年4月、北京側はIOCに復帰を申請した。この復帰申請は書類不備を理由に棚上げされたが、国連と同様に一国一代表の前提に立ち、台湾追放を条件(「国連方式」)としていたために難航した。「中国復帰問題」は当時のIOCと国際スポーツ界における最大の懸案の一つとなった。 1976年のモントリオールオリンピックで、開催国のカナダは、「R.O.C.=中華民国」の呼称とその国旗である青天白日満地紅旗を使う限り、台湾からの選手団を受け入れられないとの方針をとった。IOCは1969年に交わした取り決めに反するとして非難したが、カナダは態度を変えず、この問題によりモントリオール開催の中止も検討された。IOCが示した「台湾」という呼称を使い、五輪旗を掲げる妥協案を台北の中華奧林匹克委員會(R.O.C.オリンピック委員会)は受け入れず、アメリカでカナダ入国を待っていた選手団を呼び戻した。 中華人民共和国側はIOCとIFへの復帰交渉を通じて、段階的に譲歩した。「国連方式」を断念し、台湾除名の主張を撤回、台湾を含む統一チームでの参加を主張して態度を軟化させた。最終的には「中国の一地域」という前提で台湾を別個のチームとすることを認めた。 1979年10月25日、名古屋で開かれたIOC理事会の決議で、台北の中華奧林匹克委員會が「Chinese Taipei Olympic Committee」の名称のもと、旗・歌についてはそれまでのもの(中華民国の国旗・国歌)と異なるIOCが認めたものを使うという条件で残留し、中華人民共和国が「Chinese Olympic Committee(中国奥林匹克委员会=中国オリンピック委員会)」の名義で国旗五星紅旗と国歌義勇軍進行曲を使用してオリンピックに復帰することが認められた(名古屋決議)。 その後、現行のシンボルや他のNOCとの対等な権利・地位、IOCや関連IFでの会員資格の保証が認められたことにより、1981年3月23日、ローザンヌで行われたIOCとの協議の結果(ローザンヌ協定(中国語版))、中華奧林匹克委員會は英文名称・旗・エンブレムの変更を受け入れた。 1984年のサラエボ(冬季)・ロサンゼルス(夏季)両大会から、台湾海峡両岸の選手団が共にオリンピックに参加するようになった。 Chinese Taipeiの中国語名称については、台北側が主張する「中華台北」にするか、北京側の主張する「中国台北」にするかをめぐり、1989年になるまで結論が出なかった。1990年アジア競技大会をはじめとする北京で開催される複数の国際大会を控えてとりまとめる必要があった。1989年4月6日、チャイニーズタイペイオリンピック委員会秘書長(事務局長)李慶華と中国オリンピック委員会主席(会長)何振梁が香港で行った協議で、台湾のスポーツ団体の中国語名称を「中華台北」とすることで合意した。同月20日に開会したアジアユース体操選手権大会に参加するためにチャイニーズタイペイ代表選手が初めて北京に向かったことで、台湾海峡両岸のスポーツ直接交流が始まった。
※この「オリンピックにおける両岸問題」の解説は、「チャイニーズタイペイ」の解説の一部です。
「オリンピックにおける両岸問題」を含む「チャイニーズタイペイ」の記事については、「チャイニーズタイペイ」の概要を参照ください。
- オリンピックにおける両岸問題のページへのリンク