初期の映画製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:23 UTC 版)
「ジョルジュ・メリエス」の記事における「初期の映画製作」の解説
1895年12月28日、パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアンで、同じくフランスのリュミエール兄弟による映画の公開を見た。メリエスはすぐさま1万フランでカメラを1台売ってほしいとリュミエール兄弟に申し出たが、拒否された(同時にフォリー・ベルジェールなどからさらに高額な提示があったためだという)。メリエスはロンドンに赴いてアニマトグラフの発明者ロバート・W・ポールから映画のフィルムを何本かと映写機を購入した。ロベール=ウーダン劇場では1896年4月には日々の興行の一部として映画を上映している。そして技師リュシアン・コルスタン(Lucien Korsten)とリュシアン・ルロ(Lucien Reulos)の助けを借りてアニマトグラフの映写機を参考にして映画用カメラを作り始めた。オートマタや特殊効果用装置の部品を流用して実動するカメラを組み立てることができた。しかし、パリにはまだ撮影用の未使用のフィルムが売っておらず、現像所もなかったので、メリエスはロンドンでパーフォレーションのないフィルムを購入し、試行錯誤しながら自分で現像した。1896年9月、コルスタンおよびルロと連名で Kinètographe Robert-Houdin と名付けた鋳鉄製カメラ兼映写機の特許を取得した。動作音はかなり騒々しく、メリエスは「コーヒーミル」と「マシンガン」と呼んでいた。1897年にはパリでももっとよいカメラを購入可能になり、メリエスはさっそくゴーモンやリュミエール兄弟やパテのカメラを何台か購入した。 メリエスは1896年から1913年までに531作品の映画を撮影しており、作品の長さは1分程度から40分まで様々である。扱っている主題はメリエスが劇場で披露していたマジックショーに似ており、物が消えるとか大きさが変化するといった「トリック」や不思議な現象が含まれている。それら初期の特殊効果映画にはプロットと言えるものが基本的になかった。そういった特殊効果はプロットを強化するためというよりも、何が可能かを示すためだけに使われている。メリエスの初期の映画の多くは、単一のカメラによる合成で撮影されており、それだけで映画全編を構成している。例えば『一人オーケストラ』では多重露光を使い、メリエスが1人7役を演じ、同時に画面に映っている。後にバスター・キートンはこの技法をさらに洗練させ『キートンの即席百人芸(英語版)』(1921) で使った。 メリエスが映画を撮影しはじめたのは1896年5月のことで、8月にはロベール=ウーダン劇場で上映を行っている。1896年末、ルロと共にスター・フィルム(英語版)を創業し、コルスタンが主要カメラマンとなった。初期の作品の多くはリュミエール兄弟の作品のコピーまたはリメイクで、それによって1日2000人の集客があるグラン・カフェに張り合おうとした。例えば最初の作品とされる『カード遊び(英語版)』もリュミエール作品とよく似ている。しかしメリエスの初期作品には彼の芝居とスペクタクルを好む傾向が表れており、『困った一夜(英語版)』という作品は、ホテルの宿泊客が大きな虫に襲われる話である。より重要な差異として、リュミエール兄弟は彼らの発明が科学や歴史の研究にとって重要だと考えており、世界中にカメラマンを派遣して民族学的なドキュメンタリー映画を撮らせた。一方メリエスのスター・フィルムはマジックやイリュージョンの延長線上にある娯楽的方向へ舵を切った。メリエスは当初から映画撮影に特有の特殊効果を実験し、時にはその技法を発明した。回想録によれば、あるシーンを撮影中にカメラが一時的に故障し、映写してみるとバスが霊柩車に入れ替わり、女性が男性に入れ替わったという。この偶然からカメラを止めて被写体を入れ替えるというトリックを発見した。同じトリックは既にトーマス・エジソンが『メアリ王女の処刑』(1895) で斬首シーンに使っている。メリエスがこのトリックを最初に使ったのは『ロベール=ウーダン劇場における婦人の雲隠れ』(1896) で、舞台から人間が消えるという当時既に古典的となっていたマジック(背後の隠し戸を使用)を映画的に強化し、人間を骸骨に変え、さらに人間を舞台上に再登場させた。 1896年9月、パリ近郊のモントルイユに映画スタジオを建て始めた。主な舞台となる建物は壁も天井もガラスでできていて、昼は照明なしで撮影できるようにしてあり、舞台の寸法はロベール=ウーダン劇場のものと同じである。他に楽屋やセットを作るための格納庫も建設している。それぞれの色はモノクロのフィルムで撮影したとき思いがけない明るさの灰色になる可能性があるため、役者の衣装や化粧、セットなどは全て様々な明るさの灰色で着色された。メリエスはこのスタジオを「写真館と劇場の舞台を融合したもの」と称した。舞台でのマジックやミュージカルの手法に倣って、セットの前で役者が演じるという手法を採用。これ以降メリエスはモントルイユとロベール=ウーダン劇場を行ったり来たりする生活となった。朝7時にスタジオ入りし、10時間セットの製作を指揮し、午後5時に着替えて劇場に戻って6時までにその日の出演者を迎え入れる。手早く夕食をとり、午後8時からのショーに間に合うよう劇場に戻り、その間にセットのデザインをスケッチする。ショーが終わるとモントルイユに戻って寝た。金曜日と土曜日はそれまでに作ったセットを使って撮影を行い、日曜日と祝日は劇場の昼間興行に充てた。 1896年には78作品、1897年には53作品の映画を製作。その後も様々なジャンルの映画を撮り続けた。リュミエール風のドキュメンタリー、喜劇、歴史の再現、ドラマ、マジック、おとぎ話などが主なジャンルとなった。ジョルジュ・ブリュネルは1897年に「メリエスとルロは特色ある奇想天外な場面や芸術的場面、劇場を再現した場面などを作り、街頭を撮影しただけの他の映画とは異なるジャンルを生み出した」と記している。リュミエール兄弟やパテと同様ポルノ映画も製作しており、L'Indiscret aux Bains de mer、Le Magnétiseur、『舞踏会のあとの入浴』などがある。特に『舞踏会のあとの入浴』はメリエス作品で現存する唯一のポルノ映画で、ジュアンヌ・ダルシーが主演している。また1896年から1900年までの間に、10本の広告映画も製作しており、ウィスキー、チョコレート、離乳食などの商品のコマーシャルを作った。1897年9月、ロベール=ウーダン劇場を映画館に転換し、映画の上映を主として合間にマジックを行うようにした。しかし、1897年12月末には映画の上映を土曜の夜のみに限定している。 1898年には30本しか製作していないが、さらに野心的で精巧な映画を作るようになっていった。アメリカ海軍のメイン号の沈没を再現した Visite sous-marine du Maine、マジック映画 Illusions fantasmagoriques、おとぎ話の『天文学者の夢(英語版)』などがある。『天文学者の夢』ではメリエスが天文学者を演じ、月や悪魔や天使が登場する。La Tentation de saint Antoine は宗教を皮肉った映画で、イエス・キリスト像が誘惑的な女性(ジュアンヌ・ダルシー)に変化する。メリエスはその後も宗教を皮肉った映画をいくつも製作した。また特殊効果の実験も続けており、Salle a manger fantastique では撮影時にフィルムを逆回しにしている。また、黒い背景で役者に演じさせ、フィルムを巻き戻して別の映像を再度撮影するという二重露光による合成も実験している。例えば La Caverne maudite では洞窟内を漂う透明な幽霊を描き、『幾つもの頭を持つ男』ではメリエスが自分の頭を3回取り除き、4つの頭で合唱してみせた。現代の目で見れば粗雑だが、こういった特殊効果を実現することは難しく熟練を要した。1907年のインタビューでメリエスは「役者は異なるシーンを10回演じて、その間の自分の動きを覚えておく必要があり、前のシーンで自分がどこにどういう格好でいたのかを正確に覚えて演じなければならない」と述べている。 1899年にも特殊効果の実験を続けている。例えば Cléopâtre はクレオパトラを描いた歴史映画ではなくミイラが現代に蘇るホラー映画で、2005年にパリで発見されるまでフィルムが現存しないと思われていた。この年、メリエスの2つの作品が有名になる。同年夏、当時論争となっていたドレフュス事件を描いた『ドレフュス映画』を製作。フランス陸軍所属のユダヤ人大尉アルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で告発された事件である。メリエスはドレフュス派であり、ドレフュスが冤罪であり不当にデビルズ島の監獄に収監されたというように同情的に描いた。この映画が上映されると、両派の口論から乱闘に発展したため、警察は映画の結末部分の上映を禁止した。また同年後半、上映時間7分、20のシーンで構成され35人以上が出演した映画『シンデレラ(英語版)』を製作。この映画はヨーロッパやアメリカ合衆国の各地で上映され、大成功を収めた。シグムンド・ルービン(英語版)らアメリカの映画配給業者は、エジソンの映画市場支配が進む中、それに対抗できる魅力的作品を必要としていた。メリエスの作品は特に人気があり、『シンデレラ』は1899年12月の初公開以降も毎年のように再上映されている。トーマス・エジソンに代表されるアメリカの映画製作者は海外からの競争相手の参入に憤慨し、『シンデレラ』の成功後はメリエスの作品がアメリカ国内で上映されないよう画策したが、間もなく海賊版が出回るようになった。メリエスらは海外市場で対抗するため Chambre Syndicale des Editeurs Cinématographiques という組合を結成。メリエスが1912年まで組合長を務め、ロベール=ウーダン劇場がその本部となった。そのころ、映画での収益をモントルイユのスタジオ拡充に使い、より精巧なセットを作れるようになり、増え続ける衣装や小道具などを納める倉庫を増設した。
※この「初期の映画製作」の解説は、「ジョルジュ・メリエス」の解説の一部です。
「初期の映画製作」を含む「ジョルジュ・メリエス」の記事については、「ジョルジュ・メリエス」の概要を参照ください。
- 初期の映画製作のページへのリンク