初期の日米交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:21 UTC 版)
「アメリカ施政権下の小笠原諸島」の記事における「初期の日米交渉」の解説
アメリカ政府内では、太平洋戦争中から小笠原諸島の戦後処理について話し合いを行っており、1943年5月に行われたアメリカ国務省政治小委員会(Political Subcommittee)では、小笠原諸島を戦後も日本の主権下に残すべきか議論が行われている。そのため、1946年11月にアメリカ国務省で起草された対日平和条約草案では、伊豆諸島の非武装化と小笠原諸島の主権の放棄及び信託統治領化が記載された。これはアメリカ国防総省の強い意向があったためで、その1年後に起草された草案においても、沖縄は日本の主権下に残されることが検討されたのに対し、小笠原諸島については引き続き信託統治領化が定められた。これに対しアメリカ国務省内からは、小笠原諸島及び沖縄の信託統治領化は日本の世論を過度に刺激するという反対意見も挙がっていた。 1950年(昭和25年)12月、外務省顧問の白洲次郎は、アメリカ国務省のロバート・フィアリー(Robert A.Fearey)と、東京で平和条約について会談した。その会談で白洲は、小笠原諸島及び沖縄の信託統治領化に反対したが、両地域におけるアメリカの軍事的利益に対しては譲歩する用意があることを伝えた。この後白洲は首相の吉田茂と協議し、もしアメリカが小笠原諸島及び沖縄の信託統治領化に固執した場合、信託統治に期限を設けるか、日本が信託統治領の共同施政者となること、そして日本本土と両地域の往来の自由や小笠原諸島民の帰島をアメリカに提案することで方針を固めた。 1951年(昭和26年)1月、アメリカ国務長官政治顧問のジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)が来日し、吉田と2回にわたり会談を行った。この会談でダレスは小笠原諸島及び沖縄の返還に強く反対したが、この会談以降日本国内では返還の世論が高まり、平和条約批准反対の声も上がった。そのため、ダレスはアメリカ国防総省やイギリスと折衝を行い、新たな草案では日本による主権の放棄が定められなくなった。一方吉田は、6月に来日したアメリカ国務省北東アジア部長のジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison)とも会談し、住民の日本国籍維持や小笠原諸島民の帰島などを要請した。 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効に伴い、アメリカが小笠原諸島を信託統治下に置くことを国際連合に提案し、その提案が国際連合で可決されるまでの期間、アメリカが小笠原諸島の行政、立法、司法のすべての権限を行使することが規定された。サンフランシスコ平和条約第2章第3条で規定されたのは、信託統治可決までアメリカが小笠原諸島の行政、立法、司法のすべての権限を行使することであり、小笠原諸島に対する主権の放棄は規定されていないため、日本は小笠原諸島に対する潜在的主権(残存主権)を返還まで持ち続けることができ、住民も日本国籍を維持することが可能となった。しかし一方で、条約発効に伴い日本の施政権が完全に及ばなくなったため、東京都小笠原支庁および各村の役場が廃止された。
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