初期の月面移動の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 02:58 UTC 版)
「LRV (月面車)」の記事における「初期の月面移動の研究」の解説
1964年2月、当時アメリカ航空宇宙局のマーシャル宇宙飛行センター(MSFC)のセンター長であったフォン・ブラウンは、ポピュラーサイエンスにおいて月面車の必要性について論じ、MSFCで、ロッキード、ベンディックス、ボーイング、ゼネラルモーターズ、ブラウン・エンジニアリング(BECO)、グラマン、ベル・ヘリコプターと協力して研究に着手していることを明らかにした。 1960年代初め、月面移動に関する一連の研究がMSFCの指揮下で行われた。当初は、Lunar Logistics System (LLS)という研究名であったが、後にMobility Laboratory (MOLAB)、Lunar Scientific Survey Module (LSSM)、Mobility Test Article (MTA)と名前が変わった。アポロ計画の初期段階では、乗組員を月に送る1台と、装備、食糧、月面車を月に送る1台の合計2台のサターンVロケットを用いることが計画された。MSFCにおける全ての研究は、この2台打上げ体制を前提にしていたため、大きく、重い車体が許容された。 LLSの研究は、1962年秋にグルマンとノースロップによって開始され、与圧キャビンとそれぞれの車輪の電子モーターが設計された。これとほぼ同時に、ベンディックスとボーイングは、月面車の車内の研究を開始した。サンタバーバラにあるゼネラルモーターズ防衛研究所(GMDRL)に移っていたベッカーは、ジェット推進研究所から依頼されたサーベイヤー計画のための小型無人LRVの研究を終えた。ハンガリー出身のフェレンツ・パヴリックスは、弾力性のある車輪を作るために金網状の設計を用い、この設計は後の小型車にも採用された。 1963年初め、NASAはApollo Logistics Support System (ALSS)の研究拠点にMSFCを選んだ。先行研究の調査に続いて、この結果は10巻の報告にまとめられた。その中には、2人の人間が最大2週間の期間を過ごすための装備や消耗品を備えた、2,940-3,840 kgの範囲の重さの与圧車の必要性等が含まれていた。これは、Mobility Laboratory (MOLAB)と呼ばれた。1964年6月、MSFCはMOLABとMobility Test Articles (MTAs)の研究をベンディックスとボーイングに委託し、車両の研究の下請けにGMDRLを選んだ。ベル・ヘリコプターは、既にLunar Flying Vehiclesの下請けの研究を行っていた。 ALSSの研究は進んでいたが、MSFCは、より現実的な表面探査計画であるLocal Scientific Surface Module (LSSM)の検討も行っていた。これは、固定式で居住可能なシェルター式研究所(shelter-laboratory、SHELAB)で、1人乗りか遠隔コントロール可能な小さなlunar-traversing vehicle (LTV)を備えたものだった。LSSMは、やはり2台の打上げが必要であった。Propulsion and Vehicle Engineering (P&VE)とHayes Internationalは、シェルターと車両の基礎研究を行った。また、将来的に月探査が拡大し、MOLABのような車両が必要になることに備え、MOLABの開発は続けられ、いくつかの実物大のMTAが作られた。 アポロ計画の予算を削減するというアメリカ議会の圧力を受け、サターンVロケットの建設数は削減され、1つのミッションに1つのブースターしか許されなくなった。そのため、LRVも宇宙飛行士と同じ月着陸船で輸送する必要が生じた。1964年11月、ALSSは無期限凍結されたが、ベンディックスとボーイングは小さなLRVの研究を続けた。Lunar Excursion Moduleの名前は、簡潔なLunar Moduleに変更された。この計画ではSHELABは存在せず、2人を収容する施設はLocal Scientific Surface Module (LSSM)と呼ばれた。MSFCは、地球からコントロール可能な無人ロボット車についても検討を行った。 アラバマ州ハンツビルに拠点を置くBECOは、MSFCの立上げ以来、全ての月面車の計画に参加してきた。1965年、BECOはMSFCのP&VE研究所の元請企業となった。2人乗りのLSSMの実現可能性の算出が急務になると、フォン・ブラウンは通常の手続きを飛ばし、P&VE's Advanced Studies Officeに対し、直接BECOにMTAの設計、製造、試験を行わせるよう指示した。ベンディックスとボーイングはLSSV/Mの設計を続けていたが、MTAはMSFCの有人計画に不可欠なものであった。Hayes Internationalの初期の計画を率いてきたフィリピンからの移民のEduardo San Juanは、BECOに加わり、LSSM MTAの開発を主導した。 LSSM MTAの開発においては、先行の小型ローバーに関する研究は全て用い、市販で手に入る部品は出来る限り用いられた。車輪の選択は非常に重要で、当時は月の表面についてほとんど情報がなかった。MSFCのSpace Sciences Laboratory (SSL)は、月面の性質の予測を担当していた。BECOはSSLの元請企業でもあり、車輪と表面様々な条件を試験する試験場を用意した。Pavlicsの弾力性のある車輪のシミュレートでは、ナイロンのスキーロープで覆われた直径4フィートのチューブが用いられた。MTAでは、それぞれの車輪が小さな電子モーターを備え、全体の電源には一般的なトラック用のバッテリーが用いられた。横転事故を防止するためにはロールバーが取り付けられた。 1966年初頭、BECOのMTAの試験の準備が完了した。MSFCはクレーターや岩を模した小さな試験場を設置し、LSSMとMOLAB MTAを比較した。提案されたミッションに対しては、小さなローバーが最適であることがすぐに明らかとなった。加速、バウンド高さ、高速での転覆率等の危険が伴う試験には、遠隔モードでの操縦も行われた。6分の1の重力下でのLSSMのパフォーマンスは、嘔吐彗星KC-135Aの飛行で検査され、非常に柔らかい車輪やサスペンションの必要性が示された。Pavlicsの金網状の車輪はMTAには用いられなかったが、ミシシッピ州ヴィックスバーグにあるアメリカ陸軍工兵司令部の水路実験所において、様々な土壌における試験が行われた。後に、金網状の車輪が低重力下で試験された際、塵の混入を防ぐためのフェンダーの必要性が発見された。LSSM MTAはアメリカ陸軍のユマ性能試験場やアバディーン性能試験場で広範な試験が行われた。
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