世界のオートバイ史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 22:19 UTC 版)
1863年にフランスの発明家のルイ-ギヨーム・ペローが蒸気機関を動力とする二輪車を考案して特許を取得し、1873年のオーストリアのウィーンで開催されたウィーン万博に出品したものがオートバイの原型といわれている。しかし、蒸気機関の時代から実用化されていた鉄道、自動車、船舶に対してオートバイや飛行機は常に動力を確保しなければ体勢を維持できないという共通の課題があり、活発な開発や運用がなされるのはゴットリープ・ダイムラーによって内燃機関の発明がなされてからのことだった。1883年に最初のガソリン機関の製作に成功、1885年に特許取得、1886年に実地運転に成功、補助輪付きの考え方によっては四輪車とも呼べる車体に搭載されたエンジンは、縦型シリンダー、F型配置のバルブ、自動負圧式吸入バルブ、熱管型点火装置といった技術が用いられており、それまでは高性能なガス・エンジンなどでも毎分200回転程度であった回転数を一挙に4倍の毎分800回転程度まで引き上げた。この排気量260cc、4ストロークエンジンは、出力0.5ps、最高速度6 - 12km/h程度のものであった。また、当時は二輪車(自転車)の技術開発がオートバイの開発に先駆けて活発で、車体構成の基礎技術であるスポークホイール、チューブタイヤ、ベアリング、チェーン、スプロケットやハンドルといった技術が完成の域に達しており、そのまま転用ができ、人がまたがって搭乗するため基準値を算出しやすく、車体設計の方針が定めやすいといった点がオートバイの開発進度を速める上で非常に有利にはたらいた。 20世紀初頭のアメリカでは、マーケル、ポープ、カーチス、ミッチェル、ワグナー、オリエント、ローヤルなどといったオートバイメーカーが存在し、これに少し遅れハーレー、インディアン、リーディング・スタンダード、ヘンダーソン、エキセルシャー、エースなどといったメーカーが創立された。現存するメーカーによる製品の例としては、1903年、ウイリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンによって創業されたハーレーダビッドソン社が発売した、自転車にエンジンを搭載したモペッドがなどが挙げられる。 活発に開発が行われていたオートバイに対して、同時期に発生した飛行機の技術開発は、同1903年、ライト兄弟によって動力飛行に成功してからも産業にまで拡大されるには更なる時間を要した。飛行機の黎明期にあっては、航空エンジンに必要とされる小型、軽量なエンジンという条件は鉄道や船舶など、小型化より高出力を優先する内燃機関とはコンセプトが異なり、同様に大型化が難しく、先んじて開発が進んでいたオートバイの技術から転用されるものが少なくなかった。なかには、フランスのアンザーニ社などオートバイの製造を行っていた企業の中に航空機エンジン開発に着手するものも現れた。アンザーニ社が開発したW型三3気筒エンジンは出力25ps、パワーウェイトレシオ2.5ps/kgを発生し、これをつんだブレリオ単葉飛行機は1909年にドーバー海峡横断に成功した。1907年には競技会としてマン島におけるオートバイレースが開催されており、そこではデイ式2ストローク機関エンジンの小型化に適した特性を利用したスコット式2ストロークガソリンエンジンを搭載したオートバイが4ストロークエンジンと並んで注目を集めた。 飛行機に先んじて開発が行われていたオートバイであったが、直後1914年に発生する第一次世界大戦(1914年7月28日-1918年11月11日)において飛行機の有用性が認識され、国家規模でこの開発が行われるようになったために、その立場を逆にする。オートバイから転用された諸々の技術は、それを下地として飛行機の分野で技術革新が行われ、以降レシプロエンジン開発の花形は動力をジェットエンジンに移行するまで飛行機であり、逆輸入されるような形でオートバイに再転用されることとなった。 それまでのオートバイは、アメリカのブリッグス・ストラットン社が開発したスミスモーターという自転車に装着する動力装置のような機構が簡便さから一定の評価を得ていたが、車軸に対して推進装置がずれていることや部品精度が低いために、速度が上がるとハンドルが揺れだすといった状況であった。始動を容易にするために圧力を開放するデコンプレッサーが装着されているなど、快適性に対する試行錯誤はみられるものの、始動方式は押しがけでクラッチや変速機、フロントブレーキも装着されていなかったため、運用や転倒せずに走行するには乗り手に高い技術が要求された。また、キャブレターは布にガソリンを染み込ませ、そこを空気が通ることによって混合気を作るといった非常に原始的なものであった。加えて、メーカーによる独自規格が乱立し、操縦方法の違いが顕著であった。代表的な例ではアメリカのハーレーとインディアンの間では同じ動作をするための装置が左右逆に装着されているなど、他社製品を操作するためにはまた新たな技能習得が必要であった。 その後の第二次世界大戦(1939年-1945年)では、戦闘に従事する各国軍隊において、サイドカーを付けて将校の移動手段や、偵察部隊などの機動部隊の装備としてオートバイは利用された。 第二次世界大戦後には日本で航空機などを製造していたメーカーがオートバイ製造に参入、コストパフォーマンスの高い製品を輸出し市場を拡大した。特にアジア圏では商用の低価格モデルを中心にシェアが高い。ヨーロッパの伝統的なブランドは趣味性の高い高級路線にシフトすることで棲み分けを図ったが、日本メーカーが高性能モデルを発売したことで競合するようになった。 中国では国内に多数のメーカーが存在し、庶民の乗り物として自転車と共にオートバイが利用されていたが、近年では環境規制の強化により排出規制が厳格化され、ガソリンエンジンを搭載したオートバイの保有・乗り入れが禁止された都市「禁限摩」の指定が増えている。上海市などの大都市ではガソリンエンジンを搭載するオートバイはナンバーの発行に450万円という懲罰的な金額が課されることや、電動オートバイや電動自転車のレンタル・充電設備が各所に設置され利便性が高いため、都市部では電動化が事実上完了している。 韓国の都市部では道路事情や運賃の低いバス路線が発達しているため、市民の移動手段としてはほとんど用いられないが、普通自動車の運転免許で125ccまで運転できることから、都市部ではアルバイト配達員がオートバイでデリバリーする文化(ペダル文化)が発達しており、日本製のオートバイが多く利用されている。国内メーカーはデーリムモーターとS&Tモータースの2社が大手であるが、日本を始めとした輸入車の方がシェアが高い。 2020年代には世界的な環境規制の強化により電気自動車が普及すると予想されており、オートバイでも電動化が進んでる。
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