セレッソ‐おおさか〔‐おほさか〕【セレッソ大阪】
セレッソ大阪
セレッソ大阪
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- 1 セレッソ大阪とは
- 2 セレッソ大阪の概要
セレッソ大阪(第1次)
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「柿谷曜一朗」の記事における「セレッソ大阪(第1次)」の解説
2006年9月に開催されたAFC U-17アジア選手権では唯一、プロ選手として大会に出場し優勝に貢献。自身も大会MVPに選出された。11月26日のJ1第33節大宮アルディージャ戦で、Jリーグ初出場を果たす。 2007 FIFA U-17ワールドカップのナイジェリア戦で、出場時間900分に達し、プロA契約を締結。大会中、フランス戦およびハイチ戦にて得点を挙げ、同大会にて最も素晴らしいゴールを挙げた得点者と評された。クラブでは、同期入団に香川真司がいたが、当時は香川よりも評価は高く、またワールドカップでの活躍によりすでに世界から注目を受けていた。J2第12節ザスパ草津戦で酒本憲幸のクロスから当時のJ2最年少得点記録(17歳3ヶ月25日)となる得点を決めたものの、同期入団の香川真司がレヴィー・クルピ監督に見出されレギュラーとして活躍する中、21試合2得点と目立った成績は残せなかった。 プロ3年目の2008年、早稲田大学人間科学部eスクール(通信教育課程)に合格。背番号を「11」へ変更して臨んだシーズンだったが、横浜F・マリノスから途中加入した乾貴士の台頭もあり、終盤にはベンチ外となるなど、出場機会は減少。無得点のままシーズンを終えた。また、この年のAFC U-19選手権でもベスト8で敗退し、FIFA U-20ワールドカップへの出場権を逃してしまった。 2009年には練習への遅刻を繰り返すようになり、第3節栃木SC戦終了後、クルピ監督から名指しでプロ意識の欠如を指摘されたが、同時にクルピは香川と比較する形で「シンジとヨウイチロウ、非常に対照的なところがあり、シンジの場合はプロフェッショナルとして責任感が強いが故に、ミスを恐れてしまうところがある。逆にヨウイチロウは責任感がないが、故に、時として非常に勇気のあるプレーができる。好対照なふたりだが、お互いそういったところを変えていけば、間違いなく日本を代表する選手になると思う」と、期待を込めたメッセージを送った。しかし、2得点を決める活躍を見せた第20節ファジアーノ岡山戦の翌日、練習に遅刻した柿谷に対し、クルピは「彼の行為はすべてのサポーターやクラブに対しての裏切りだ」と激怒。約1週間後の6月18日、徳島ヴォルティスへの期限付き移籍が発表された。
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セレッソ大阪(第2次)
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「柿谷曜一朗」の記事における「セレッソ大阪(第2次)」の解説
3年ぶりにC大阪復帰となった2012年シーズンは、開幕当初こそ控えに甘んじたものの、主に2トップの一角としてレギュラーに定着し、キム・ボギョンや清武弘嗣の移籍、ロンドン五輪U-23サッカー日本代表に選出された扇原貴宏、山口蛍の離脱の影響もあり低迷するチームの中でゴールを量産。第21節横浜FM戦の前には、トレードマークの長髪を切り落とし、頭を丸める気合を見せた。同年8月には、セルジオ・ソアレスに代わりC大阪の監督へ再々就任したクルピとの邂逅を果たし、クルピ監督復帰初戦となった第24節アルビレックス新潟戦では、決勝点を挙げた。試合後クルピは、かつて袂を分った教え子に対し「特別な思いがある。ゴールの瞬間、思いがよぎった。彼がプロ2年目のときに私が監督に就任した。かわいい息子だ。 それがゆえに、過ちを犯したときには正しい道に導いた。今日は一皮むけて成長したプレーをみせてくれた。 技術だけでなく、戦術面も理解してピッチで表現してくれた。再び彼と同じチームで働くチャンスがきてうれしく思う」と、惜しみない賞賛を送った。クルピ体制移行後は主にトップ下のポジションでプレー。チームは最終節まで残留争いに巻き込まれ、シーズン終盤は自身も左足かかとの故障に悩まされたが、リーグ戦30試合に出場しチームトップの11得点(カップ戦を含めると40試合17得点)を挙げ、Jリーグ優秀選手賞を受賞した。2012年には、クルピと、遠征先のホテルで通訳を交え3人で会話する機会を設け、かつての過ちを謝罪した。 この活躍によりドイツ1部・ニュルンベルクから移籍オファーを受け、本人曰く「98%くらい(ドイツへ)行く気やった」というが、シーズン終了後に森島寛晃の自宅に招かれ、直々に背番号「8」の継承を要請されたことに感激し、「迷わず、セレッソで8番をつける方を取った」と残留を決意。4年越しの想いを実らせ、森島、香川、清武と受け継がれてきたC大阪のエースナンバーを身につけた2013年は、第1節新潟戦からフォワードとして起用され、自らの決勝点により、クラブ14年ぶりのJ1開幕戦勝利をもたらした。その後もハイペースで得点を重ね、5月にはJリーグ月間MVPを受賞。7月、東アジアカップ2013に出場する日本代表に初選出された。同年はリーグ戦全34試合に出場し、森島が保持していたクラブ日本人J1シーズン最多得点記録(18得点)を更新する21得点をマーク。Jリーグベストイレブンに選出されたほか、第33節鹿島アントラーズ戦前半38分の得点(右サイドからのクロスボールをコントロールした後、リフティングでディフェンダーをかわしてアウトサイドボレーでゴールへ蹴りこんだもの)が、同年新設された最優秀ゴール賞に選出された。オフにはボルシア・ドルトムント、バイエル・レバークーゼン、フィオレンティーナなど欧州の複数のクラブのオファーを断りチームに残った。 2014年シーズンは、現役ウルグアイ代表のディエゴ・フォルランがC大阪に加入した事もありチームの躍進が期待されたが、期待通りの結果は出ず、柿谷も第11節の名古屋戦でシーズン初ゴールを決めるなど低調なスタートとなる。6月に行われたW杯日本代表に選出。そのW杯で経験した悔しさなどから海外移籍決意。
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セレッソ大阪(第3次)
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「柿谷曜一朗」の記事における「セレッソ大阪(第3次)」の解説
2016年よりC大阪に完全移籍により加入した。なお、バーゼルとは昨夏から4年契約を結んでいたが、1年でのJ1昇格に失敗したC大阪側が復帰を要請した事と柿谷が出場機会を求めていた事でクラブ間交渉が成立したと思われる。背番号は移籍前につけていた「8」となる。3月6日、第2節の水戸ホーリーホック戦でキム・ジンヒョンのロングフィードから復帰後初得点を決めた。また、ホーム復帰戦となった第3節のザスパクサツ群馬戦でも得点を決めた。ゲームキャプテンとしてプレーしていた が、6月9日に行われた第17節のV・ファーレン長崎戦で右足関節じん帯を損傷し、長期離脱となってしまった。11月27日、プレーオフの京都サンガF.C.戦では先制点を決め、チームは1-1で引き分けたが年間順位が上位のため決勝に進出、決勝ではフル出場し、チームのJ1昇格に貢献した。 2017年シーズンは、リーグ戦全34試合に出場。ルヴァン杯では4試合に出場し、チームの初タイトルに貢献した。12月23日、天皇杯準決勝のヴィッセル神戸戦では延長戦で勝ち越しゴールを決めて決勝進出を果たすと、翌年1月1日に行われた天皇杯決勝戦の横浜FMでもスタメンで出場し、チームの優勝に貢献した。 2018年シーズンは、開幕戦から得点を決めるなどシーズン前半だけで4ゴールを挙げた。しかし、7月に右内転筋を負傷した影響で戦列離脱を繰り返し、リーグ戦21試合4得点でシーズンを終えた。後のインタビューでこの年の11月頃には「しんどくなっていた」などと話した。 2019年シーズンは、開幕から8試合連続でスタメン出場するが、第9節の大分戦以降はベンチスタートが増える。6月9日にはトップチームではないJ3リーグで活動するC大阪U-23としてJ3の試合に出場するなど厳しい立場が続いたが、9月1日に行われた第25節の川崎戦以降はスタメンに復帰し、第29節の札幌戦では得点を決め、その得点が10月のJ1リーグ月間ベストゴールに選出された。11月30日、藤本康太の現役ラストマッチとなった第33節清水エスパルス戦では、1点ビハインドで迎えたハーフタイムに藤本に対して「大丈夫、俺に任せておけ」と言い、その言葉通り後半79分にバイシクルシュートでゴールを決めて逆転勝ちに貢献した。またこれに対して藤本は「そのあたりはさすがだなとあいつが点を取ったときに泣いたから最後のスピーチのときは涙が残っていなかった。本当に嬉しかった」などとコメントした。 2020年シーズン、第25節ヴィッセル神戸戦では前半33分に味方がレッドカードで退場したためシステムが4-2-2-2から5-3-1に変更された事でサイドハーフからワントップで起用された。相手のパスコースを最初に限定する役割を担い続けながら、後半62分にヘディングシュートで決勝点を決めて勝利に貢献した。ロティーナ監督のトータル・ゾーン戦術に適応をみせ、高いボールコントロール力と瞬発力で緩急をつけたドリブルに加えて、守備でも貢献したが、リーグ戦24試合出場1得点(先発出場は6試合)でリーグ後半戦ではベンチ外になる事が増え、立場は変わらなかった。シーズン終了後には契約延長のオファーを受けるも、2年連続でオファーを受けた名古屋への移籍を決意した。
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「セレッソ大阪」の例文・使い方・用例・文例
- プロ野球のオリックス・バファローズやJリーグのガンバ大阪,セレッソ大阪など8つのチームがファンを呼び込むためのこの取り組みに参加している。
- 後半10分,セレッソ大阪のミッドフィールダー,扇(おうぎ)原(はら)貴(たか)宏(ひろ)選手が日本の初ゴールを決め,その4分後にはセレッソのミッドフィールダー,清(きよ)武(たけ)弘(ひろ)嗣(し)選手が2本目のゴールを決めた。
- 香川選手は2006年,17歳のとき,Jリーグのセレッソ大阪に入団した。
- 彼はセレッソ大阪やベガルタ仙台でプレーした後,2005年にサンフレッチェに入団した。
固有名詞の分類
日本のスポーツチーム | ZERO ニチダイ セレッソ大阪 フェデックス 福井ミラクルエレファンツ |
近畿地方のサッカークラブ | 紀北蹴球団 京都サンガF.C. セレッソ大阪 佐川印刷サッカー部 AS.Laranja Kyoto |
日本のサッカークラブ | 愛媛FC 京都サンガF.C. セレッソ大阪 横浜F・マリノス 浦和レッズ |
サッカー実況アナウンサー | 谷口直樹 下田恒幸 セレッソ大阪 村山朋彦 櫻井和明 |
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