寓画の解釈
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その名が示す通り教皇と双子の聖職者がモチーフとされ、教皇が人々を祝福し、罪を赦す場面は慈悲の象徴とされる。中心の「教皇」、下部の二人の人物、上部の二本の柱が、トランプやサイコロなどで表される「5」の形をとり、「教皇」が「5」の支配者として揺るぎない立場にいることを表している。 「教皇」は「皇帝」と異なり宗教的な律法を司る。社会的道徳ではなく宗教的聖性に基づいて裁きを下す。また「教皇」と「女教皇」は共に教皇であるが、「教皇」は書物を持っていない。これは書物による法文の確認を必要としない──即ち「教皇」自身が法であることを示す。左手に掲げる杖の先端には、「霊」を象徴する十字架が3つも取り付けられている。この杖は、特にマルセイユ版では手袋と併せて「超越的な力を所有するのが個別的な人間の手ではないことを示す」と解釈している。また「教皇」の頭には「女教皇」と同様の三層の冠を確認できる。これらの「3」は霊的要素の強調(象徴学的な重複表現)を示し、「教皇」の力が(キリスト教の三位一体などの)人間の精神・肉体・魂に及んでいることを表している。 また、マルセイユ版、ウェイト版ともに「教皇」と下部の二人の人物を見比べると、明らかに大きさの比率が不自然であることがわかるが、これは神的なものと関わりを持とうとする人間の努力が、外在的に形を帯びたもの、即ち「教皇」を投影的イメージの象徴とする解釈が行われているためとされている(もっとも、前近代の図像学(図像表現における記号的な決まりごと、約束の体系)においては、重要な人物をリアルな比率を無視して巨大に描くことはごく一般的なことであった)。二人の人物は聖職者を表し(マルセイユ版では少々分かり難いが、ウェイト版同様二人ともザビエルのような剃髪(トンスラ)が行われている)、特にウェイト版に見られるように判で押したように瓜二つなことから双子と解釈される。双子は象徴的に二面性を表し、人間の宗教的部分、また人生のあらゆる場面における二面性を表している。 また、全体の構図は「悪魔」と対になっている。「悪魔」のカードでは「教皇」が悪魔となり、下の二人が前向きで描かれている。対してマルセイユ版の「教皇」はそっぽを向き、下の二人に対してどこか冷ややかな態度である。 ウェイト版とマルセイユ版を見比べて分かるように、22枚の大アルカナの中でウェイトが(恋人などのように)大きく構図を変更しなかったうちの1枚である。主な変更点は、人物の向きや右手の位置、杖を持つ左手の手袋の有無、足元にある交差した鍵の有無(バチカン市国の国旗にもほぼ同様の紋章が描かれている)、柱のサイズや位置、全体の配色・レイアウトなどである。ウェイト版では「女教皇」と同様の構図で二本の柱が描かれるが、「教皇」の柱はより対称的に描かれている。
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寓画の解釈
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マルセイユ版に描かれる「死」では他のカードのような下部の名称欄が設けられず、そのまま無記名としたりカードの側部に「DEATH」等と記載するなどの措置が採られる。伝統的に多くのデザインでは鎌を手にしており、死神(抽象的な死を擬人化したもの)とされるが、これは神話や物語などから特定の人物や場面をモチーフとして採用したものではない。 ウェイト版タロットに描かれている死神は伝統的な図柄から大胆に改変されているが、これはウェイトの独創ではなく、15世紀のジャックマン・グランゴヌール版の死神は鎌ではなく軍旗を手にし、馬に乗って、死神が行く先々で人々の魂を刈り取る「死の行軍」の様子が描かれ、疫病の流行を連想させる図となっている。ウェイト版ではこの構図を採用し、さらに甲冑を着せて、ヨハネの黙示録に登場する「第四の騎士」とした。 マルセイユ版に描かれる「死」はマルセイユ版タロットの大アルカナに名を連ねる数種のカードをモチーフとして採用されている。まず、大鎌を持つ禍々しいガイコツのような人物(?)は、姿勢や棒状の物体(鎌の柄)といった構図から大アルカナの「愚者」であるとされる。事実、「愚者」は特定の数字を持たないのに対し「死」は特定の名前を持たない。実際、このアルカナのみタイトルが無いタロットカードも数種類確認されている。また、暗黒の大地(いわゆる、死後の世界の意)に散乱する手や足に混じって女性の頭部と王冠をのせた男性の頭部が描かれている。男性のモチーフは「戦車」に登場する若き王とされる(女性については男性に比べ象徴的な情報が少なく説も多々存在し、共通の説として「対立物としての象徴」とされる)。 これらが意味するところは、12番の「吊された男」において「現状の変容」を求められた人物の内面における自己変革の段階を描いた構図であり、「戦車」として行動を起こした際の観念(頭)も、拠って立つところ(足)も、活動(手)も、もはや現段階では意味をもたず、前進のためには一度バラバラに「破壊」されることが必要であることを示している。さらに、骸骨は性別を判断しにくい特性から「両性具有」的であると解釈され、「世界」に描かれる“完璧なる存在”により近いこの象徴が、「愚者」に比べ「死」が「世界」に近づいていることを表している。故に、鎌を振るうのは(内面的変革を促す立場にある)「骸骨」なのである。 追記として、骸骨の片足は大地に突き刺さった状態で描かれ、その場で回転している状態を表している。回転、即ち「螺旋」は“死の本質は螺旋を描きながら変容していく”と同時に“死は変化であると同時に静止である”という暗示を与え、アレイスター・クロウリーがデザイン監修を行ったトート・タロットなどの一部のデッキにおいては、大鎌を振り回しながらクルクルと「死の舞踏」を舞う死神の姿が描かれている。トランプのジョーカーが転じて死神となり、さらに以降の札が作られたとの説がある。
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寓画の解釈
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象徴的に太陽は、朝を告げ、光を与え、活力の源であり、陽であり、プラスである。しかし、太陽の熱は時として、水を枯れさせ、大地を荒らし、あらゆる生命を脅かす脅威ともなる。こういった両面は古来より男性を陽として表してきたことを納得させる部分と言える。また、太陽を神として崇める風習(太陽信仰)もエジプトやアステカ・日本など世界各地で多く見られる。 マルセイユ版では、人の顔を持つ「太陽」と降り注ぐ数多の雫の他に、互いに青い腰布を巻いた2人の子供、後方に見えるレンガ造りの壁、子供の足元に置かれた2つの石が確認できる。この太陽は、対立する性質の融合を表している。太陽から伸びる太い16本の光線は、鋭角的に尖ったものと柔和的にくねくねしたものとが交互に描き表されているが、これは太陽が肯定的エネルギーと否定的エネルギーの両方を併せ持っている事を表しており、あらゆる対立する力の究極的な結合によるエネルギーを持つと解釈される。さらに「太陽」の顔は(「月」が横向きなのに対し)正面を向いている。これは太陽の影響力が広大であり、また恒常的に行われていることを表す。即ち、太陽は地球をはじめ太陽系諸惑星の中心であり、たとえ夜であってもその活動が止まることはなく、人間の内外におけるリズム、果ては宇宙のリズムに欠かすことのできない偉大な存在であることを暗示している。 この「太陽」だけを見ると、まさに完成された究極存在であり、一連の大アルカナの最後に位置すべきカードのようにも思える。しかし「太陽」は19番で、後に2枚も控えている。19番たる所以は2人の人間が描かれる事によって表されている。この2人は子供である。しかしそれ以外に身体的特徴は描かれていない。ただ一つ明らかな点は2人が非常によく似ていることで、これは双子の象徴である。この点を踏まえるなら、象徴的に腰部分を隠すことを「互いに異性同士である」と強調していると解釈できる。双子の象徴は「太陽」以前のカードにも多々登場した象徴であるものの、確立された個別の人間として現実的に描かれるのは初めてである。さらに対存在が直接的に干渉しあう描かれ方も初めてである。これは「太陽」に至り、相反する2つの性質が初めて別個として区別され、あらゆる対立物、即ち、男と女、霊と肉、心と身体などが直接的・人間的な方法で関わることが出来るようになったことを暗示している。加えて後方の壁は、2人の子供の立つ場所が、あらゆる外的要因から隔絶された極めて安全な領域であると保証し、この段階における対立物同士の接触が何者にも邪魔されることなく、太陽の仲介の下に行われていることを表している。さらに足元の石は黄金色であり賢者の石を連想させる。つまり破壊することのできない本質を表すと解釈され、この「太陽」における接触が、極めて重要な本質的変革の第一歩であることを暗示し、この後に控える最終段階への第一歩であることを暗示している。故に、「月」によって蓄えられた雫は大地へ放出され、再び大地を活性化させる。 ウェイト版では、命の連鎖を司る太陽の下で、日の光を浴びながら裸の子供が白馬にまたがり大手を広げている様子が描かれている。この裸の子供は「初々しさ、天真爛漫さ、無邪気さ」を表し、無防備に振る舞い、開けっ広げで何も包み隠すこともなくありのままの心を見せていることを示す。背景には堀とヒマワリが描かれており、この子供がいる場所が、庭や家の敷地内、つまり「庭園」であることがうかがえる。人の管理が行き届いた安全な庭園で、周囲に花咲くヒマワリに取り囲まれながら、よく飼いならされた馬から振り落とされず、両手放しでギャロップする子供の図柄が描かれていると解釈できる。ヒマワリも英語名を直訳すれば「太陽の花」と呼ばれるため、そのエネルギーを象徴するものとしてこのアルカナの図像を一層強調する役割を果たしている。背景に4つ(四方向、四周期を表すと伝えられる)、子供の頭に乗せている花冠には6つのヒマワリが見られ、合計した10は、運命の輪で触れた完成、完全性を象徴する円を表す数字であるため、ここに美しき完成の含みを解釈することができると言われている。子供が乗っている馬は、生きるための本能、生命力の象徴であり、同じ馬が描かれている死神と異なり、人と飼いならされた本能が完全なる一体化を遂げた絵柄がこの「太陽」とされる。生と死の切っても切れない関係性がうかがえる札となっている。
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寓画の解釈
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15世紀頃の初期のタロットでは複数の男女が人生を謳歌する構図で、単純に恋愛そのものを表していたようにみえる。 マルセイユ版タロットに注目すると、2人の女性が1人の男性の両側に立ち、その頭上に天使らしき1匹(?)を確認できるがこれはクピド(キューピッド、またはエロース)であり、(人間的な)生臭い男女の関係を表していると言える。向かって左側に位置する女性は(頭の被り物から見て)ある種の権力を持っているようであり、我が物顔で男性の肩に手を置いている。一方、向かって右側の女性は年も若く、アプローチも情熱的であろうことが男性の心臓に近い部分に当てられた手から窺い知ることができる。どことなく、頭上の天使とこの女性は協力関係にあるように見える。中心の若者は明らかに優柔不断であると見て取れるが、それは2人の女性両方が彼にとって大切な何かであることを表している。具体的には、彼の頭は(彼自身から見て)右側(意識・理性)の威厳ある人物へと向けながら、残りの身体は(彼から見て)左側(本能・無意識)の金髪の人物へと向けられていることから、まるで万力に挟まれたかのように身動きすらままならないようである。そこで「優柔不断」という解釈や「選択・決断」という意味がうまれる。 ウェイトは無駄を省いて均衡の取れた1組の男女を書き表した。ウェイト版に描かれている人物は、旧約聖書のアダムとイヴ(ユダヤ教の聖典・タルムードのイブとリリス又は女神アプロディーテーとイリオスの王子・パリスとも)がモチーフとされる。クピドに代わる天使はラファエルをモチーフにしたものに変更されている。イヴらしき女性の後ろには善悪を知るための知恵の樹、アダムらしき男性の後ろには永遠の命を司る生命の樹が描かれる。知恵の樹には、エデンの園のエピソードの中で、邪悪な物、人を惑わす存在として蛇が巻き付いている。蛇は、錬金術においては地上を這う低俗なものであるが、そこに留まらず進化を遂げ、サソリとなって消化し、天に上がってワシに変成するとされている。なお、この蛇は「10 運命の輪」の札にも描かれており、「9 隠者」のカードの一部には、杖に巻き付いている様子が描かれているものもある。絵柄の男女の間の奥に映る山は、聖者が修行する場所、険しい岩山は神の峻厳と人の試練の象徴である。 アダムとイヴのエピソードによれば、2つの樹に生っている実は「死んでしまうから」食べてはいけないと神に命じられていたが、知恵の樹の蛇が「その実を食べると目が開け、神のように善悪を知ることができるから禁じているだけ」とイヴに唆すことで、共に盲目のイヴとアダムがその実を食べてしまい、目が見えて自身が裸であることを恥じ、イチジクの葉を綴り合せて身体を覆ったのだとされる。後に2人は神の怒りを買い、エデンの園から追放されてしまうのである。キリスト教における人間の「原罪」の思想が描き出されたのはこの2人が犯した罪からであるといわれている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/31 14:07 UTC 版)
タイトル通り「運命対自由意志」を提示している。輪は周期性・永続性の象徴とされる。マルセイユ版タロットでは輪に絡まるようにして2匹の動物が、輪から独立した台座の上に1体の生物が確認できる。通説として、輪の右側(上を向いている方)の動物はアヌビスとされ、転じて善玉と解釈される。対して輪の左側(下を向いている方)の動物はテュポンとされ、転じて悪玉とされる。2体の動物の向きから輪は左回転を行っているものと思われ、吉と凶は変則的でありながらも規則的に訪れることを暗示している。輪の回転を操るかのように鎮座する黒色の禍々しい生物は、一見すると悪魔との関連を想像させるが、ライオンの胴体、人面の頭、大きな羽といった外見に加え、黄金の冠が神聖な力を示すことからスフィンクスと解釈されるのが一般的である。 ウェイトによるウェイト版タロットでは、輪の周囲を四大元素を司る人間、ワシ、牡牛、獅子の天使が囲んでいる様子が描かれている。これらはそれぞれ黄道十二宮では水瓶座、蠍座、牡牛座、獅子座であり、いずれも「不動宮」に属している事が分かる。なお、この天使達は「世界」に向けて勉強中である事を示す。輪の頂上の生物はスフィンクスとして描かれている。輪の中央は、車輪の輻になぞらえて8本の放射線があり、これは仏教で用いられる「法輪」を彷彿とさせている。8本の放射線のうち縦横四方向には錬金術の記号が施されており、上側は「水銀(☿)」、右側は「硫黄」、左側は「塩」という三元素、下側は「銅(♒)」(宝瓶宮、水瓶座の象徴と溶解を表す記号)を意味しており、三元素とそれを統合するものという四つ組の構成が採用されているようである。円の縦横四方向に書かれている文字は様々に読むことができ、時計の12時の位置から90度ずつ時計回りに読むと「TARO(T)」(タロット)、反時計回りに読むと「TORA」(女教皇が持っていた書物の名前と一致)、6時の位置から時計回りには「ROTA」(輪の意味)と読める。さらに斜め四方向にある各ラテン文字の間にあるヘブライ文字は左上から反時計回りに読むと「יהוה」(ヤハウェ)となる。このヘブライ文字の1文字目と3文字目「ヘー」は同じであるが、これらの意味は、王と王妃から生まれる王子の元に外から新たに妃が嫁ぐという構造を表しており、王と、そしてそこで誕生した王子、2度にわたる結婚であるとされている。マルセイユ版でも悪玉として描かれたテュポンがウェイト版でも描かれているが、マルセイユ版とは位置が異なり輪の右側に存在し、左への回転に沿って上昇していく様子が見られる。また、輪の左側にはテュポンと対照的に輪の左への回転に沿って下降する蛇が描かれている。この蛇は邪悪な物、人を惑わすものの象徴であるが、ヨーロッパに中興した錬金術においては、地を這う低俗な蛇が、進化する過程でその姿をサソリに変え、さらに魂が昇華された結果、翼を宿し天に上がってワシに変成するものとされ、邪悪ながらも変成を遂げるもの、進化、変容の象徴とされた。絵柄の右上に描かれているワシこそその象徴とされ、不動宮である蠍座と例えられたのもここから来ている。
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寓画の解釈
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イタリアの古いタロットカードの中には、この逆さ吊りの人物に金の入った袋を持たせ「反逆者」というタイトルをつけるものもある。即ち「ユダ」である。 マルセイユ版の構図に注目すると「恋人」のカードと同じ構図が確認できる。象徴的に樹木は母性であり、この2枚ともが「2本の(2人の)樹木(女性)に挟まれた身動きの取れなくなっている男」を表している。また両側に伸びる樹木は枝を切り揃えられており、切り口は1本につき6つ、合わせて「12」となる。樹木の下に地面(らしきもの)が見られ、吊られている男の頭部は谷のような(深さが不明な為、掘られた穴とも、樹木と土自体が地面より高い位置にあるとする説もある)場所で両側の地面(のような部分)より低い位置に描かれている。こうした危機的状況にもかかわらず、男の表情は素直にこの状況を受け入れているかのように凛としたものであり、この男自身が望んでこの状況を招き入れたことを暗示している。つまりこの絵に描かれているのは単純な辱めの為の刑罰ではなく、通過儀礼の儀式であろうことが伺える。組んだ足の形はカバラにおいて物質世界を表す「4」、同じく手は精神世界を表す「3」になっており、現状は「物質が精神の上に置かれた状態」を表し、精神が物質を越えた「XXI 世界」と対比される。 また、このカードを逆さま(いわゆる逆位置の構図)に置き換えて眺めてみると、追い詰められた状況にいた男の姿が一転してほんのり笑みを浮かべた表情へと変わり、その姿は片足で超絶的なバランスをとりながらダンスを踊っているように見える。このことから、男はやがて通過儀礼の儀式を終え更なる高みへと進むであろうことが暗示されており、この絵の状況が決して避けて通ることのできないものであることを示す1つの要因となっている。 ウェイト版タロットでは描かれている人物は北欧神話の最高神・オーディンをモチーフにしている。オーディンはルーン文字の解読方法を知るために世界樹・ユグドラシルの枝から9日間にわたり首を吊り続けたが、縄が切れて一命を取り留めたと神話では伝えられている。実質吊された場所は処刑場ではなく、生命の息吹を感じさせる物として芽吹いているタウ十字に模された木々のため、吊された人物自身も何らかの希望を持っており、それを見出すために瞑想していると解釈する人もいる。ウェイト博士曰く、足の形は「4」ではなく「卍」を形作っており、ここには神と人間の世界についての関係が示されているとのことである。また、人物の頭の後ろに光るものは「光輪」であり、吊されている人物の光輪が、その吊るしている木々の芽吹きを促進させているほどの行為を成し遂げ、それを悟ったことが表し示されていると言われる。この光輪は、「14 節制」の天使の頭の後ろにも描かれていて、「13 死神」を挟んだ前後の札2枚の光輪は、生死の狭間を体験するものには既に栄誉を与えられている可能性があると信じられている。
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寓画の解釈
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羽の生えた人物が超絶的な業をもって杯(或いは水差し)から杯へ水を移し替えている様子が描かれる。この人物は大天使ミカエルであるとされ、規律と節度、慈愛と献身を表している。また、タロットカードの22枚の大アルカナが錬金術における不老不死の霊薬、エリクシールの製造過程を寓画に起こしたものとする説があるが、この「節制」に描かれる水を移し変える作業はまさに錬金術の基本、調合そのものである。マルセイユ版に描かれる「節制」には、青い髪の額部分に赤い花をつけた羽の生えた人物が、青い壺から赤い壺へ白い液体を注いでいる姿が描かれている。この壺(杯、水差し)をもって、オズヴァルド・ヴィルトはこのカードを水瓶座と関連付けた。この対極にある2つの壺の中身は、男性性と女性性、陰と陽、火と水、霊と肉、意識と無意識といった相反する要素を象徴し、それらが混ざり合う液体は白色であり純粋な本質を象徴していることから、『相反する要素の結合に至る様子』を表している。有翼の人物は、この相反するもの同士を結びつける「仲介者」として描かれている。衣服や頭部の配色は、赤と青のどちらにも偏ることなく公平な立場にいることを示し、羽をもった姿は人智を超えた存在、即ち天使として解釈され、世俗的な些細なことがらを超越した存在であることを暗示している。また額の花は、五弁の花びらの円形でありマンダラ即ち第五元質を象徴しているとされるのが、今なお有力な説である。 ウェイト版でもマルセイユ版のものとそれほど絵柄は変わっていないが、描かれている天使そのものが四大元素を一つにまとめあげ、調和されたデザインをより強調したものとなっている。天使の背中の羽は風を、水につけている右足は水を、地につけている左足は地を、胸にある上向きの赤い正三角形は(錬金術における)火をそれぞれ象徴している。また背景に着目すると、天使の背後には、栄誉の印とされる「光輪」が描かれている。吊された男の札にも描かれていて、死神を挟んだ前後の札2枚の光輪は、生死の狭間を体験するものには既に栄誉を与えられている可能性があると信じられている。左側の山から出る「日の出」は、死と再生の札を経て新しい生命を獲得した人の産声が上がろうとしていることを象徴している。この日の出は、前述のマルセイユ版での錬金や調合が成功したことを表す太陽として描かれており、新しい生命の誕生を想起させる図柄となっている。背景右側に咲いている2つの花はアイリスである。アイリスは、ギリシャ語で「虹」を表す女神イリスを語源としたものであり、この札には描かれていないものの、このアルカナの情景が、虹の橋がかかっていてもおかしくはない、地上のあらゆる生き物たちと天界の神々とが共に微笑む穏やかな晴天の一日であることが伝わる札でもあると言われている。
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寓画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 20:05 UTC 版)
この場面は新約聖書の巻末・ヨハネの黙示録に由来するとされ、ラッパを吹く天使は最後の審判に基づき、大天使ガブリエルをモチーフにしたとされる。 マルセイユ版に描かれる「審判」には、雲をまとい空中から現れた巨大な天使が、鋭角的な光を放ち、右手はラッパの吹き口を持ち、左手は十字の紋章の入った旗を指差した姿で描かれ、地上には、向かって右側に老人が一人、左側に女性が一人、中心には棺からよみがえった人物が後ろ向きに立った状態で描かれている。 この天使と人物達の関係は、非常に意識的な接触であると解釈される。つまり「恋人」に登場した天使などのように地上の人物達のあずかり知らぬ所で活動しているのではなく、人物達がその存在を確認し、何らかのコンタクトをとっている様子で描かれている。このことを強く象徴するのが天使の持つラッパとギザギザの光である。ラッパとは即ち「音」であり、この天使による干渉は光と音の両方によるものであると暗示している。旧約聖書、創世記に記される神が最初に行ったとされる創造行為は「光あれ」の通り「光」である。しかし神が発した「言葉」は「音」であり、創造の前に「音」が存在したことになる。「音」は人間(あるいは動物・生物)にとって「光」よりも即物的で直接的であることは、「音」による空気の振動が聴覚だけではなく身体全体を震わせ、超音波がガラスを破壊すること等に例えることが出来る。また、「光」も人間の視覚に大きな影響を与えるものであり、これら「音」と「光」の両方による干渉からは何者も逃れることが出来ないことを暗示している。 地上に立つ3人の人物達は、この天使から逃れるどころか厳粛に受け入れている様である。この人物達の中心に立つ後ろ向きの人物は、今まさに甦った瞬間であると解釈される。しかし、この人物が男性なのか女性なのかは定かではない。わかるのは、この人物が若々しくエネルギーに満ち溢れている様子である事と、両脇の男女に復活を祝福されている事である。この人物は「吊された男」のように孤独でもなければ、「塔」のように危機的状況に居るわけでも無い、まさに通過儀礼の儀式を遂げ、新たに生まれ変わった姿であると解釈される。また人物が「3人」であることから、地上における三位一体の完成を表すとされる。さらに、これに天使を加えることで天と地をつなぎ新たなる概念の誕生を表すとする説も存在し、天使の持つ旗に記される正十字をもって裏付けとしている。
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寓画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 20:58 UTC 版)
2番の「女教皇」が純粋に霊的な女性像(少女)を表すのに対し、このカードでは「霊的世界の中の現世的要素」としての女性像(母親像)を表す。 マルセイユ版タロットには王冠を被り玉座に腰掛け黄金の錫杖と鷲の紋章が入った盾を手にしている構図で描かれている。黄金の錫杖には「地上的な現実」を表すとされる球体と「霊」を表すとされる十字架が取り付けられている。また、玉座自体が女性の背中から生える一対の羽のように見えることから、他版のカードでは翼を持った女神として描かれるケースもあり、このカードが「皇帝」のカード等と比べ特に「霊的要素」を強調していることが読み取れる。 盾に描かれた黄金の鷲は王家の紋章として広く採用されるモチーフであり、王冠とともに権力の象徴として描かれている。また、女性の右手が鷲の胴体を抱くようにして抱えていることから鷲を「生き物」として捉え、左下隅に生える若草とともに、生命力を暗示するカードとして扱われることから大地母神の象徴とされ、しばしば農作物の収穫や経済的な利益と結び付けられて考えられる。 ウェイト版タロットには、黄道十二宮、宇宙の生みの親を象徴する12個の星が散りばめられた王冠を被り、女性性と豊穣の象徴である果実が描かれた衣服を纏い、右手に錫杖を振り上げたような状態で、大自然の中にある王座に腰かけている構図で描かれている。王座の右側に立てかけられているものは「♀」のマークが書かれたハート型の盾であり、ハートは心や心臓を象徴し、マークは金星の惑星記号を表している。
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寓画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:26 UTC 版)
ウェイト版、マルセイユ版の両版とも、天空にひときわ大きな星とその周りを囲む7つの小さな星が、地上には水と大地に壺から液体を注いでいる女性が描かれている。この星が何なのかは、シリウス説、金星説、木星と土星の会合説、北極星説、七惑星説、水星説、北斗七星説がある。ウェイト版とマルセイユ版との主な相違点は、女性の姿勢、星の形と位置、樹木の数と位置、あとは全体の配色程度に留まっている。マルセイユ版では、小さな星は赤・青・黄色の3色で描かれ、その配色はある程度の規則性に則っているものの、形の方はフリーハンドで描かれたかのように歪で、一つとして同じ形のものは無い。一方、中心の大きな星は幾何学的な正確さをもって描かれている。この大きな星の黄色の八芒星には黒い線が引かれており、星の先端を中心へと繋いでいる。その中心の黒点は車輪の車軸を思わせ、この2つの星が天に留められ、そこに留まったままであることを示している。加えて、赤と黄色が交互に入れ替わるように描かれている事から、この星は自らの軸をもって回転している巨大な車輪を暗示している。象徴的に黄色は霊や直感などを表し、赤は肉体や人間的感情を表している。即ち、この大きな星は「霊的な直観力」と「身体」との“統合”を表していると解釈される。また、小さな星々を個人の内面における多種多様なパーソナリティの断片と捉え、車輪の回転と共にもうすぐ意識にとって利用可能になるということを暗示している。だが、そのためには仲介者が必要である。「星」のカードには裸体の女性が描かれている。女性は二つの壺から液体を注いでいる。この壺は形・色・大きさにおいて非常によく似ているが、一方の液体を水の流れに、もう一方の液体を大地に注いでいることから、その用途において異なっていることが読み取れる。流れ出した水の一方は大地に落ちて地中に眠るあらゆる種子を育む。もう一方は共通の水流へと戻り、再び流れを生み、水で満たす。大地は種子を育む生命の母であり、水は全ての生命の源であり、樹木は水を得て大地より生える生命の象徴である。二つの壺は「節制」との親近性を表し、この女性が人間でありながら仲介者としての力を持っていることを表している。また、身体的象徴である「赤」と、女性が裸体であることは、「星」の段階においてこれら自然との接触、即ち「塔」において求められた変容が、女性=仲介者によって自己の内面において即時的・直接的に行われていることを表している。「星」に描かれる樹木は、伸び伸びと生い茂り、天と地をつなぐ象徴として描かれている。それらは離れた位置にありながらも大地に根ざすことによって同一の目的を与えられており、鳥が木から木へ飛び移ることによって更に強く結び付けられる。このように強く関連する2つの類似物が象徴するのは双子である。双子は、無意識の中で存在するあらゆる性質や本質は互いに混じり合っており、それを意識として気付くときの初期段階における象徴として現れる。この段階を表したのが「教皇」に描かれた双子である。だが、「星」で表される双子の象徴するものは、より意識的に段階が進み、像として類似するものの同一の内容や形をもたない、2つのものとして現れていると解釈される。 ウェイト版とマルセイユ版を見比べて分かるように、22枚の大アルカナの中でウェイトが大きく構図を変更しなかったうちの1枚である。
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寓画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/21 19:20 UTC 版)
「魔術師 (タロット)」の記事における「寓画の解釈」の解説
マルセイユ版タロットなどの伝統的なものでは、描かれている姿は奇術を行う大道芸人であった。マルセイユ版の魔術師(奇術師)ではかなり胡散臭い人物が描かれている。先端が金色の巻き髪に異様な形の帽子をかぶって派手な衣装に身を包み、右手はコインをいじくり左手でステッキ(棍棒)をくるくると回している。また、この男が立っている場所は原っぱであり、今にも壊れてしまいそうな3本足のテーブルの上に雑多な道具を引っ張り出して、ステージを開いている。テーブルの上にはナイフや数枚のコイン、賭博などもやるのだろうかサイコロとコップなどが並べられ、それらが入っていたと思われるカバンも置かれている。カバンからは布のようなものが飛び出し、中にまだ何か入っているらしいことを伝えている。このテーブルの上に並べられた如何わしげな道具類の一部と、魔術師(奇術師)の掲げる杖は、それぞれ小アルカナのスート(剣・杖・カップ・コイン)に相当する。この内の「杖」を魔術師(奇術師)が左手に掲げていることは、象徴学的側面から彼に備わった「力」が勉学や修行によってもたらされたものでは無く、無意識的に、生まれつき備えられた「力」であると解釈される。対して右手で捏ね繰り回すコインは、常に人の世についてまわる「お金」を象徴し、この人物の意識的な部分が文字通り「商売」へと向いていると解釈される。またサイコロは、6面に記された数字の和が「21」であることは、大アルカナに居並ぶ各カードに付記される数字の最大数であると同時に、(マルセイユ版では)数字を持たない愚者を除いた枚数と一致する。これらの品々が並ぶテーブルは四角形(四つ目の角はやはり隠されているものの、一般的に四角形と見られる)であるものの、テーブルの足は3本と奇妙な描かれ方をしている。このテーブルが3本足であることについては諸説存在するが、代表的なものとして、三次元と四次元、三位一体と四位一体、第四のものは常に隠されるといった神秘思想・秘教原理、等といった事柄と関連付けて解釈が行われる。また、この魔術師(奇術師)の奇抜な衣装は見る者に胡散臭い印象を与えるが、愚者のようにおよそ規則性の感じられないものではない。その衣装には一分の乱れも見られず、配色は左右非対称になるよう対照的に構成されている。即ち、この人物はこういった奇抜な衣装を身に着けることによって意図的に自らの能力を覆い隠し、大衆を欺く計算高い人物であることを窺い知ることが出来る。現にこの人物は身体を右(象徴として未来)に向けながらも左(同様に過去)を振り返り反省することを忘れない。この魔術師(奇術師)は、その外見的特徴やトリックを行う職業柄などから愚者などのトリックスターと比較・照合されることがあるが、彼のトリックは失敗の許されない仕事であり、計算された上でのものであり、作品であり、芸術である。故に彼は様々な奇跡を起こし万能の神のごとく立ち振る舞い観客を驚かせるが、あくまでステージの上に限定される。補足として、この人物の両足の間から伸びる一際目立つ1枚の葉っぱは生命力の象徴であり、この後20枚続くカードの始まりたる「1」そのものであり、男根である。 黄金の夜明け団ではより神秘的に解釈され絵柄もそれに準拠したものへと変更された。同団のデザインによる黄金の夜明け団タロットでは祭壇上に祭具を献納する術士が描かれており、「力の術士 (Magus of Power)」という称号を与えられている。これは精神によって統御される元素力の結合と均衡を表す。ウェイトのデザインによるウェイト版タロットでは、聖衣を身にまとった若い魔術師が描かれている。頭上の「∞」は「三位一体」を、腰帯は自らの尾を食する大蛇ウロボロスを象徴しており、共に無限性・永劫性を表す。魔術師が天上に掲げる聖杖と大地を示す指は万能の神の力を地上に降ろすことを意味する。テーブルの上に置かれている剣(ソード)・杖(ワンド)・杯(カップ)・護符(ペンタクル)は小アルカナを構成するスートであり、四大元素との接触・交信を象徴する。
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寓画の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 02:27 UTC 版)
描かれているのは一人の旅人らしき男と一匹の犬である。この「愚者」は(伝統的に)数を持たないカードであることや、「愚者」という単語から連想される象徴(ジョーカーや宮廷道化師、民間信仰におけるグリーン・マンなど)とその意味合いや、22枚の大アルカナの中で唯一移動している人物が描かれている絵札であることなどから、しばしば特別視されるカードであり、「世界」などと並んでその解釈は注解者ごとに(とりわけ)千差万別である。 マルセイユ版タロットに描かれている「愚者」は、派手な衣装と冠を身に着け、右手に杖を持ち、左手には先端に袋のようなものを取り付けた棒を右肩に担いだ人物が、草の生い茂る荒野を歩いている姿が描かれている。また人物の後方からは犬が追従しており、その前足を人物の右足付近に寄せている。マルセイユ版の「愚者」はその抽象的な絵柄の為、見方によっては後ろ歩きをしているようにも見える。これは「愚者」の持つエネルギーが無意識的なものであり、一定の方向性を持たず自由気ままに放たれていることを表している。しかし、同時にそれ自体が目的であるとも解釈されており、このカードの二面性を示す要因として扱われている。 「愚者」が移動している姿で描かれていることに関しては、「1」から「21」までの各カードを順を追って渡り歩く何らかの目的を持った旅人と解釈する説と、他の21枚の大アルカナを、または他のカードを意識すらせず全くの自由気ままに歩き回る完全に無計画な放浪者と解釈する説の二通りの説が存在しており、これらの説は両立する形でさまざまな解釈に用いられている。この二つの解釈を如実に象徴するのが愚者の身に纏う衣装であり、その配色や装飾、特に首と腰に鈴が取り付けられている衣装の奇抜さは、さながらピエロを思わせるものとなっている。この配色は奇抜でありながらも統一の取れた「魔術師」の衣装のように計画性の感じられるものではなく、鈴に関してはこの人物の「輪廻転生の数である」などと神秘的に解釈する場合を除けば、特別な意味合いはない。加えて、この人物の持つ杖は旅の補助としてだけでなく、道化としての道化棒(鈴などが取り付けられている場合もある)と関連づけての解釈を除けば、特別な意味合いはない。 つまり、この人物は自分の衣服、さらには自分の持つ棒や荷物、果ては進んでいる方向やその目的、自分を取り巻く環境のいっさいについて特にこだわりや興味などは持ち合わせていないのである。故にこの人物は、後方の犬の存在すら認知しておらず、ズボンの右足は犬によるものか破かれたままとなっている。しかし象徴的な観点から照らし合わせると、この人物は決して「無能」な人物ではない。 この「愚者」は黄金の冠を被っているのである。冠は象徴的に王の持ち物であり権力の象徴とされ、黄金の冠は天上の神との交信を図るための霊的要素も兼ね備えた象徴とされる。このような象徴を「愚者」が身に着けているのは、この人物がある種の霊的な力を備え、過去には権力を持つ階級に居たであろうことを表している。加えてこの人物が右肩に担ぐ荷物とその棒は「男根」の象徴であり、繁殖と豊饒の象徴である。これらの象徴は「トリックスター」との関連を強調しており、この「愚者」が道化などと同様に相対する二つの極を持っていることを表している。つまり、この人物の愚行を象徴するもの、計算高くしたたかな側面を象徴しているものである。これらのことから、この人物はいっさいの計画性を持ち合わせていないが全くの無計画という訳ではないとやや矛盾した結論が付けられる。 ウェイト版タロットの絵に描かれている人物は若い旅人で、若さは未熟さを現す。犬は旅人のパートナーで、前進を意味する。しかしこの若者は左側を向いている(象徴的に左は過去・精神世界などとされている)。旅人は自分の目の前に崖が迫っていることにまだ気づいていない。ウェイト版の「愚者」は今まさに崖に向かって歩こうとしていることが明らかであるが、この先、崖から落ちるか、踏みとどまるか、それは旅人次第である。思想家エリファス・レヴィによれば、「審判」と「世界」のカードの間にこの「愚者」を置いて、特殊な切り札として相応に扱っており、エジプト人の死生観を導入させたとも考えられる[要出典]。
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