死生観
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注釈
- ^ 類似に『日本書紀』第9の一書「時伊奘諾尊 乃投其杖曰 自此以還 雷不敢來 是謂岐神 此本號曰來名戸之祖神焉」がある。
- ^ 西は日没の方角であり、象徴的に死の方角とする例は世界中で見られる。
- ^ どちらかというと驚き、畏怖のニュアンス。-「あな恐ろし」
- ^ 古くは濁音の表記は厳密に区別されなかった。例として「輝く」はかかやくとも書いたことが挙げられる。
- ^ 元々の中国語の意味は死者の霊といった意味であるが、日本語で恐怖の面が出ているのは興味深い。
- ^ 偽作とも云われるがここでは人々の信仰なのであまり問題にしない。
- ^ 日本語のすべての仮名を用い、かつ詩的意味を持たせるようにしてつくられた歌。
- ^ 侘び・寂びについては別の起源説もある。
出典
- ^ エリアーデ・中村 (2000), p. 151.
- ^ プラトン・加来 1967 [要ページ番号]
- ^ 久野 (2004), p. 32.
- ^ 柳田 2013 [要ページ番号]
- ^ 折口 (2002), p. 31.
- ^ 久野 (2004), pp. 24–27.
- ^ 折口 (2002), p. 361, 翁の発生.
- ^ 久野 (2004), pp. 324–333.
- ^ 宮田 (2006), p. 99.
- ^ 竹内 (2007), pp. 44–50.
- ^ 久野 (2004), pp. 127–130.
- ^ 高階ほか (1999), pp. 53–72.
- ^ 竹内 (2007), pp. 64–71.
- ^ 高階ほか (1999), pp. 79–89.
- ^ 石田 (2001), pp. 93–95.
- ^ 石田 (2001), pp. 109–111.
- ^ 竹内 (2007), pp. 155–160.
- ^ 40~60代の全国男女900名に聞いた現代人の死生観 | 執筆者なし | 第一生命経済研究所
- ^ 現代人の死生観とは。なろう系作品から読み解く、死に対する考え方の変化 - 神社と信仰、日本人の死生観を考える|高貴船人のブログ[出典無効]
死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
昭和の戦時下に少年・青年時代を送り徴兵の対象年齢にあった三島は、常に「死」というものを念頭に生きていた世代であり、そうした終末感的な状況下での創作活動の中で、自身を〈薄命の天才とも。日本の美的伝統の最後の若者とも。デカダン中のデカダン、頽唐期の最後の皇帝とも。それから、美の特攻隊とも〉夢想していた。しかし、その状況が一変し戦時中の価値が転倒した戦後社会においても、三島にとって「死」の観念は様々なコンプレックスや美意識との間で大きな命題でありつづけ、それが小説の中にも多彩に揺曳しており、「死」は「行動」という言葉とともに三島文学において最も多く用いられている語彙の一つとなっている。 そうした「死」の観念から生涯離れられなかった三島は、「死」を純粋と絶対の行為として、最終的には戦後社会との訣別を意味するような回帰的な「死」への行動に至っているが、『金閣寺』直前の30歳の時に書かれた随筆『小説家の休暇』では、〈行動家の世界は、いつも最後の一点を附加することで完成される環を、しじゆう眼前に描いてゐる〉と、芸術家の世界と対比し〈私は想像するのに、ただ一点を添加することによつて瞬時にその世界を完成する死のはうが、ずつと完成感は強烈ではあるまいか?〉と語っているなど、すでに晩年の行動家に至る死生観が、小説家としての絶頂期から内包されていることが指摘されている。 その『小説家の休暇』の中でも触れている『葉隠』(山本常朝著)を戦時中から愛読していた三島は、そこから様々な生きるヒントや活力源、哲学的なものを得られたとして、〈毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふこと〉、〈われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない〉という死生観を『葉隠入門』の中で述べている。 そういった、今日明日死ぬかもしれないという思いで生きる人生観・死生観は、他の評論でも散見され、人間とは何か理想や夢のために生きていくものではあるものの、〈より良き未来世界〉などというものを目途にして自分をその進歩や進化のプロセス(過程)とするような〈未来に夢を賭ける〉考えを三島は否定し、〈未来などといふことを考へるからいけない。だから未来といふ言葉を辞書から抹殺しなさいといふのが私の考へなのです〉と主張しながら、まずは〈明日がないのだと思ふ〉気構えが肝心だとしている。 また、人間は「未来」に向って成熟していくものではなくて、〈“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らない〉のだとし、〈死といふ事を毎日毎日起り得る状況として捉へる〉ところから、〈自分の行動と日々のクリエーション〉の根拠やモラルが発見され、それが〈人間の行動の強さの源泉〉にもなると三島は主張している。 未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。(中略)われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。 — 三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」 そして三島は、人間はいつ死ぬかも知れない〈果無い生命〉ではあるが、〈明日死ぬと思へば今日何かできる〉、〈明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふ〉のが、〈人間の全力的表現〉であり、そうした考え方や行動は「禅」の精神に通じると三島は語っている。 本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。私は未来は信じないけれども後世は信ずる。 — 三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」 三島の作品や評論には、戦時下の同年代の若い兵士の死を、他人事のようには考えられなかった複雑な思いが随所に現われ、死の一週間前に行なわれた古林尚との対談においても、そうしたことが言及されているが、そこで三島は、戦後は〈余生〉という意識が〈いまだにあります〉と述べながら、戦時中に入営通知(召集令状)が来た際に毛筆で書いた遺書の気持から〈逃れられない〉と語っている。また、〈天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いまでもぼくの内部に生きている〉とし、自身の本質が10代の時の日本浪曼派的な心性〈ロマンティーク〉だと悟るにつけ、そこに〈ハイムケール〉(帰郷)していき、その〈ハイムケールする自己に忠実〉である以外にないとしている。 死の4年前の41歳の時のNHKのインタビューでは、20歳で迎えた終戦の風景について、〈世界が崩壊するはずであるのに〉、まわりの木々の緑が夏の日を浴びて輝いているのが〈不思議でならなかった〉と振り返り、終戦の詔勅を聴いたときは〈空白感しか〉なかったと答え、その8月15日の〈激しい日光〉は〈私の心の中にずっと続いていくだろう〉と述べている。そして、三島は自身の死生観を以下のように語り、戦時中の、死が〈遠くない将来に来るんだというふうに考えていた〉当時のその心理状態は〈今の心理状態に比べて幸福だったんです〉とも発言している。 人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないんです。というのは、人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐに飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ず出てくる。それが昔いわれた大義というものです。そして大義のために死ぬということが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だと考えられた。しかし、今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんてものがいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。 — 三島由紀夫「NHKテレビのインタビュー『宗教の時間』、1966年」
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死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:32 UTC 版)
パウロは復活の教えを強調した。(当時、ユダヤ教ではサドカイ派などや、キリスト教会内部でも、イエスの教えに反して復活を否定する動きがあったためか。)もし死人の復活がないならキリストもよみがえらなかった事になり、それをよみがえらせたと言っている私達は神にそむく偽証人という事になる為、全ての人の中で最もあわれむべき存在になるとまで語った。
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死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 23:59 UTC 版)
シェオール、ハデスなどと呼ばれる死後の世界が存在するとされる。ハデスの中には「アブラハムのふところ」と呼ばれる憩いの場と、裁きの場があるとされる。 また,三つの天という概念があり,第一の天が空,第二の天が星の空間(宇宙),第三の天が神の住まいとされる。 最後の審判の時にすべての魂が復活し、律法(特に後述の安息日の規定が重要であるとされる)を守っていたものが救われる,またはアブラハムの子孫はみな救われる,などの解釈が存在する。 またカバラ神学では、魂は個体の記憶の集合体であり、唯一神はすべての生命に内在し、ただ唯一神は永遠の魂(命の木)である。個体が善悪を分かち、銘々の記憶は神へ帰っている。神はただ記憶を収集し、善悪を分かたない。神では、善の記憶が再創造の素材になり、悪の記憶がなくなる。 カバラでは以下のような寓話がある:毎年贖罪の日ではすべての生命は死んで、生き返り、悪もなくなる。(あるいは、毎年角笛吹きの祭から贖罪の日までの間にすべての生命は死んで、記憶が神へ帰った。贖罪の日から光の祭りまでの間に神は再創造し、善の記憶がすべての生命へ帰った。)死亡はただ贖罪の日と同じである。
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死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:31 UTC 版)
市井に伝わる伝承によると、里木に帯を結んで祈ると催生玄君が名簿を作って西王母に提出する。それを天帝に諮り、親に相応しい者を選び、西王母が女神に卵果作りを命じ、送生玄君が子供の元をこねて卵果にし、送子玄君が里木に運んで卵果が実る、と言われている。子供の魂は夜になると体から抜け出して五山に行って天帝に親の所行を報告し、天帝はそれを元に親の寿命を決める、と言われている。 死者は多くの国では、この世界の人々が卵から生まれるため、丸い素焼きの棺に納められる。仏教が伝わっている芳、雁、漣、奏では火葬だが、それ以外の国では土葬である。死者は普通、子、孫、兄弟、親など、家族が引き取る。たとえ遠く離れていても、知らせを受けて駆けつけ、死者を受け取って連れ帰り、自分の土地の片隅に葬って祀る。塚を作り、墓標の代わりに白く塗った梓を植え、裕福な者は祠を置き、物品を備え供養し、季節季節には紙で作った衣類を供える。冢堂はおおむね、ひどく殺風景な建物で祠廟らしい構えはなく、冢堂の建物だけがぽつんとあり、その建物も風雨を防ぐための壁がかろうじてあるだけで、扉さえない所に死者を祀る祭壇がある。閑地に葬られるのはこの里で客死したものなので、その祭壇には満足な供養もない。閑地の墓地は本来、家族の迎えを待つ間に仮に埋葬されるべき場所である。しかし、家族がよほどの遠方にいるのでなければ、殯を延長して少しでも埋葬を待つ。結局のところ、迎えに来る者を持たない寂しい者が、客死として閑地に埋葬される。旅の途中で斃れた者だけでなく、引き取る家族を持たない者、家族があっても迎えに来る余裕がない、あるいは迎えに来るほどの敬愛を得られない者、または一家が一時に死んでしまったり、浮民であって迎えてくれる家族はあれども葬るべき土地を持たない者も客死の扱いとなる。閑地に埋葬されたまま迎えの来ない死者は、七年で棺ごと掘り上げられ、冢堂で墓士に棺ごと骨を砕かれる。砕いた骨は府第の宗廟に納められる。 死者の魂の行方は諸説あり、蓬莱に言って仙人になる、蓬山の中にある蒿里山に飛んで天の決済を受け悪行善行に応じて神々の世界(玉京)で官位を得る、人間に生まれ変わる、等がある。
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死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 01:17 UTC 版)
身体が魂の外殻に過ぎないので、人が死ぬと魂が生き残る。ひとりひとりが魂と精神の両方を持っているとされ、死ぬとそれらが分かたれると考えていた。人の精神は悪意を持って生きる親戚に害を及ぼし始めるようになる。時間が経つにつれ、これらのアンバンは飼いならされて礼拝が可能になるが、そうでなければ悪霊を追い出す特別な儀式が必要になる。
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死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 07:33 UTC 版)
人間は死んで肉体の衣を脱ぎ49日が過ぎると、生前の行動と想念によって積まれた功徳と業の相殺決算により、適合した霊界へ旅立つとする。大別すると、天国界、中有霊界、地獄界の三つに分けられる。天国界は第一天国、第二天国、第三天国というふうに別れ、さらに、ランクが細分化されている。また、ほかにも、死後に人間の魂が行く世界は、兜率天、霊国界、最奥人天界等があり、人間の個性が様々であるのと同様、霊界、神界のあり方も様々であるとする。
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死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:57 UTC 版)
日中戦争時代の洛陽攻撃で川原中尉を失った時に髭をそり落とし霊前に手向けて以来、加藤の右手として活躍し強く信頼されていた安間大尉の未帰還以外は、部下を失っても淡々とした表情であったが、心の懊悩は深いものがあった。 加藤は常に自ら率先して危地に飛び込み「死を見ること帰するが如し」を実践した。部下には「ただ、の覚悟が出来たというだけでは足らぬと思う。生きている限り、心身をみがき何かの役に立たねばならないのだ。そして、死を跳躍台として悠久(ゆうきゅう)に生きるのだ」と語っている。
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死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「死生観」の解説
チャーチルは「涙もろく、小鳥が死んだだけでも泣く人」だったが、一方で「真の同情は持っていないことが多かった」という意見もある。
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