加藤建夫
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加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等功二級。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高等学校)、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校(専科)卒。
注釈
出典
- ^ 梅本 (2010a), p.23
- ^ 梅本 (2010a), p.21
- ^ 梅本 (2010a), p.24
- ^ 梅本 (2010a), p.77
- ^ 檜與平「つばさの血戦ーかえらざる隼戦闘隊」 光人社 1967年 P.309
- ^ 黒江保彦「隼戦闘機隊 かえらざる撃墜王」光人社 2003年 p.128。なお、本書では「アレサンヨウ沖50キロ、高度300メートルから」となっている。
- ^ 梅本弘 (2002a),『ビルマ航空戦・上』 大日本絵画、2002年11月、pp.134-136
- ^ 『太平洋戦争秘録 勇壮!日本陸軍指揮官列伝』別冊宝島編集部編 p58~p59
- ^ 『太平洋戦争秘録 勇壮!日本陸軍指揮官列伝』別冊宝島編集部編 p59~p60
- ^ 檜與平「つばさの血戦ーかえらざる隼戦闘隊」 光人社 1967年 P.147
- ^ 『官報』第4660号「叙任及辞令」1942年7月23日。
加藤建夫
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1942年5月に戦闘飛行部隊長として戦死し、7月になって「空の軍神」として、その人物像も含めて大きく報道された。陸軍将校としては初の二階級特進(中佐→少将)し、9月にはこれも先例のない陸軍葬が執り行われた。その偉勲を讃えた戦時歌謡「空の軍神」「軍神加藤中佐」が発表され、1944年には映画『加藤隼戦闘隊』が公開された。
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