田沼意次 田沼意次の概要

田沼意次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:56 UTC 版)

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田沼 意次
牧之原市史料館所蔵
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保4年7月27日1719年9月11日
死没 天明8年7月24日1788年8月25日
改名 龍助(幼名)→意次
戒名 隆興院殿耆山良英大居士
墓所 万年山勝林寺東京都豊島区駒込
官位 従五位下 主殿頭従四位下 侍従
幕府 江戸幕府小姓小姓組番頭御側御用取次
側用人老中格老中
主君 徳川家重徳川家治
相良藩
氏族 田沼氏
父母 父:田沼意行、母:田代高近の養女・辰
兄弟 意次意誠、意満
正室:伊丹直賢の娘
継室:黒沢定紀の娘
意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、
土方雄貞九鬼隆棋、千賀(西尾忠移室)
宝池院(井伊直朗室)
養女:新見正則の娘(大岡忠喜室→土方雄年室)
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生涯

出生

享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ[1]

父・意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため意次は七面大明神に感謝し、家紋七曜星に変更したといわれている。

相良藩主時代

元文2年(1737年)、従五位下主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。寛延元年(1748年)に1400石を加増され、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩百姓一揆郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。

宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増でわずか600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国下総国相模国三河国和泉国河内国の7か国14郡にわたり、東海道から畿内にまたがる分散知行となった[2]

田沼時代

この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。

宝暦期に起こった郡上一揆などの民衆の反発の激化から、次の明和期、幕府幕閣は米以外の税収入を推し進める。田沼の代表政策である株仲間の推奨や俵物生産奨励を勧めた明和年間の時期のことを寛政の改革を主導した松平定信は、元禄から寛政までの100年の中で幕府の貯え金が充実していたのは明和年間だと書いている。だが実際のところ幕府の貯蓄は豊かであったが明和年間における幕府の財政収支は決して豊かとはいえなかった。宝暦明和期は大旱魃や洪水など天災が多発し、江戸では明和の大火にて大量の死者がでた。明和9年、変事が続いたため年号を安永に変更し安寧を願った。当時の落首でも「明和九も昨日を限り今日よりは 壽命久しき安永の年」と書かれている。明和年間の1764年から1772年の8年の期間は内、6年が、米・金ともに赤字を記録し、赤字のない年は明和8年以外ないという赤字が多い時期であった[3]

田沼は、享保の改革から宝暦期までに貯えられてきた幕府の豊富な貯蓄を切り崩しながら悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、伝統的な経費削減などの緊縮政策を進めると共に、米の収益が頭打ちになった時代背景から年貢収益以外の財政収入増加を試みた。内容は株仲間の推奨、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売、下総国印旛沼や手賀沼の干拓に着手するなど、田沼時代の財政政策は元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない、さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税し、金融からも利益を引き出すなどといった大胆な財政政策を試みた。

しかし、田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策であり諸大名や庶民の反発を浴びた。また、幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判がおこった。都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火浅間山天明大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。享保の大飢饉時には大飢饉に陥った西日本に対して、大名への拝借金、大規模な回米などといったかなり迅速かつ大規模な救援が幕府主導で実施されたが、天明の大飢饉時には幕府はわずかな大名拝借金を認めたのみで、積極的な被災地救援に乗り出そうとはしなかった。その中にあって、財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。

このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。

赤字続きだった長崎会所の財政を健全化し、国内の金保有量は高めた。また蝦夷の開発を行おうとしたこともあったが、蝦夷に送られた調査団は樺太、国後、択捉などの北方の島を含め蝦夷地を耕作適地と判断し、蝦夷地を新田開発すれば幕領の400万石を超える583万石の収入が手に入り、それはアイヌを3万、穢多・非人を7万人移住させれば賄えると主張した。[4]

ほか、平賀源内などと親交を持ち、そのパトロンになったと言われる。士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に意次の世子のまま若年寄を勤めていた田沼意知江戸城内で佐野政言に暗殺された[注 1]ことを契機とし、権勢が衰え始める。

天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家徳川治済)の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。

その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。相良城は打ち壊され、城内に備蓄されていた八万両のうちの一万三千両と塩・味噌を備蓄用との名目で没収された[5]。長男の意知はすでに暗殺され、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった[注 2]

その2年後にあたる天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去した。享年70。

人物

田沼は失脚前から既に悪評が出ており、田沼の賄賂政治を皮肉って以下の狂歌が歌われた。

  • この上は なほ田沼るる 度毎に めった取りこむ 主殿とのも家来も

これは、田沼も家来もやたらと賄賂を取り立てることを皮肉った歌である。当時、田沼邸には猟官運動をする大名や直参旗本,幕府からの受注を願う商人達が朝から列をなしていたといわれている。田沼失脚後に老中となった松平定信譜代親藩による寛政の改革が始まり、意次の政策は否定される。11代将軍徳川家斉大御所時代には、水野忠友の子水野忠成と、田沼意次の四男田沼意正らによる大御所家斉の浪費から生じた重商主義的な経済状況が生まれ、家斉の浪費によって市場の経済の状況は上向いたが賄賂政治が横行し、幕府財政の破綻、幕政の腐敗を招いた。

松平定信は庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約な方針だったので、良くも悪くも世俗的な田沼の治世を懐かしむ声もあった。この時期流行った落首として次の二つがある。定信の就任当初は前者の歌が流行ったが、やがて改革が厳しすぎるとして後者の歌に取って代わられた。

  • 田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
  • 白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき

一方、相良藩主としての田沼は、街道や港湾の拡張、防火対策[6]殖産興業などきわめて正統的で当を得た藩政を行っている。

また、成り上がり者が威を振るうと反感を買うことを弁えており、言動を謙虚に努めていた。子孫に与えた遺訓の中でも「親戚や席を同じくする大名と表裏なく親密に交際し、家格の低い大名とも同じように接するべき」「家来に対してもできるだけ情けをかけ、依怙贔屓のないように召しつかうように」などと残している[7]

旧相良藩中にある牧之原市では郷土の偉人として扱われている。相良城が位置した場所に存在する牧之原市立相良中学校の校章は、田沼意次の威光にあやかり田沼家の家紋である「七曜紋」をモチーフとしたものになっている。また、同校の体育大会と文化祭を総称して「七曜祭」と言う。

イェール大学ジョン・ホイットニー・ホールTanuma Okitsugu, 1719-1788, forerunner of modern Japan (1955)において「意次は近代日本の先駆者」と評価している。


注釈

  1. ^ 実際は斬られて重傷を負い、その傷が癒えないまま亡くなった。
  2. ^ 柳沢・間部の職が側用人のみで正式の老中には就任していなかった(柳沢は老中格→大老格)ことと異なり、田沼は老中も兼ねていた。将軍の取次役である側用人が処罰されることはないが(将軍の政治責任を問うことになってしまうため)、老中は失政の責任を問われるためしばしば処罰を受けていた。
  3. ^ 赤ん坊が手を握る動作と役人が賄賂を受け取ることをかけて皮肉っている
  4. ^ 「猪牙」とは吉原への専用船のこと。固い役人でも吉原で接待すれば骨抜きになる
  5. ^ 田沼時代や田沼意次が汚職政治のイメージで語られたのは辻が始まりではない。上述のように三上の論考や徳富による通史があったり、辻自身が引用している通り、シーメンス事件に関わる貴族院議員の発言がある[11]。辻の論考は佐々木の指摘のように、その意図に反して意次=汚職政治家と学術的に、あるいは中高の教育に引用された経緯がある[12]。また、辻の論旨は民権発達の潮流として当時の民衆が時代や意次をどう認識していたかという部分があり[13]、辻が意次の汚職の根拠として民衆の噂話程度のものすら挙げたという大石の批判は注意が必要である。
  6. ^ 当時、田沼の賄賂政治を批判した松平定信が行った寛政の改革の諸役人への贈り物を規制する触書では、あまりに高価な品を送ることを戒めてはいるが、新年、中元、歳暮などの儀礼的な年中恒例の贈答などを禁止などしているわけではなく、むしろ一年に何度も及ぶ恒例の進物は当然のこととされた。それどころか、幕府役人への進物は大名らへの当然の義務であった。寛政4年の触書では“近年、年中恒例の進物の数を減らしたり、質を落としたり、なかには贈らない者もいる”と非難している。さらに、側衆や表向き役人への進物は、大名と役人の私的な贈答ではなく、将軍の政務を担う役人への公的な性格のものだからきちんと贈るようにとも命じている。 
  7. ^ 同時に藤田覚は「たしかに、個々の冥加金を見ると幕府財政を潤すほどの額とは言えないかもしれない。しかし、少額とはいえ少しづつでも増額させようとしており、そこには明らかに財政収支を増加させようとする意図がみえる」とも書き、財政収入増加説と流通統制説の双方に理解を示している。
  8. ^ 藤田覚は、この新田開発計画が成功すれば、当時全国3000万石あった石高が二割増しになり、しかもロシアまで日本に服属できるというのだから、実現の可能性を考えなければ気宇壮大、だが荒唐無稽な構想であり、蝦夷地開発策はまさに「山師」の時代を象徴するような大規模開発の構想だったと書いている。
  9. ^ 政府が積極的に支出をふやし、経済の拡大を図ろうとする財政政策
  10. ^ 支出をできるだけ減らして歳出規模の縮小を図る財政

出典

  1. ^ 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、4-6頁。 
  2. ^ 藤野保『江戸幕府崩壊論』塙書房、2008年。[要ページ番号]
  3. ^ a b c d e f g h i 日本近世の歴史4 田沼時代. 吉川弘文館. (2012/5/1) 
  4. ^ 大石慎三郎 (2001). 田沼意次の時代. 岩波現代文庫 
  5. ^ 高澤 憲治 (2012). 日本歴史学会. ed. 松平定信. 吉川弘文館 
  6. ^ 領内で起こった大火後、藁葺きの家をことごとく瓦葺にするよう令を発した。
  7. ^ 山本 博文 『武士の人事』KADOKAWA、2018年11月10日。 
  8. ^ 徳川林政史研究所 (監修) 編 『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、17-18頁。 
  9. ^ a b 大石慎三郎 1977, pp. 203–208, 「誤られた田沼像」.
  10. ^ 大石慎三郎 1977, pp. 212–215, 「幕府政治の支配システム」.
  11. ^ 辻善之助 1980, pp. 7–9, 「緒言」.
  12. ^ 辻善之助 1980, pp. 345–357, 解説 佐々木潤之介.
  13. ^ 辻善之助 1980, pp. 328–342, 「結論」.
  14. ^ 大石慎三郎 1977, pp. 208–212, 「"顔をつなぐ"社会」.
  15. ^ 大石 慎三郎 『田沼意次の時代』岩波書店、1991年12月18日、37-55頁。 
  16. ^ a b 藤田覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、157-163頁。 
  17. ^ 藤田覚 2012, pp. 47–58, 「賄賂汚職の時代」.
  18. ^ 深谷 克己 (2010/12/1). 田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家. 山川出版社 
  19. ^ a b c 藤田 覚 『日本近世の歴史〈4〉田沼時代』吉川弘文館、2012年5月1日、29-32頁。 
  20. ^ 徳川林政史研究所 編 『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日。 
  21. ^ 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、253-254頁。 
  22. ^ 高木 久史 (2016). 通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで. 中公新書 
  23. ^ 徳川林政史研究所 (監修) 編 『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、19頁。 
  24. ^ 高木 久史 『通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』中央公論新社、2016年8月25日。 
  25. ^ a b c 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、128-139頁。 
  26. ^ a b 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社[要ページ番号]
  27. ^ a b c 藤田覚 (2018). 勘定奉行の江戸時代. ちくま新書 
  28. ^ 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、148-155頁。 






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