田沼意次 政策

田沼意次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:56 UTC 版)

政策

貨幣経済を振興しようと思ったきっかけは、徳川吉宗による政治にあった。吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻した。そして、天領における一揆ではないものの、意次は郡上一揆の裁定を任されたことから、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場であった。また、米相場の乱高下に頭を悩ます吉宗を身近で見て、田沼は日本に貨幣経済を普及させて問題を解決できないか、と考えたという。

田沼の経済政策は、商人に対する課税によって幕府の財政を健全化させる目的があったとされている。田沼時代の特徴の一つとして、幕府財政を健全化させることを目的として吉宗時代の米中心の税収に加え、新たに商業の面から収入の増加策に積極的に取り組んだことが挙げられる。

だが、その収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多発していた。そして幕府に運上金冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた[3]。そのようなマイナス面を見て、彼の行った諸政策を「金権政治」の一言で切り捨てる向きもある。また商人に様々な特権を与えた為に農産物の買い叩きや都市部への過度の集積を招き、その失政は天候不順に因る凶作の被害を甚大な物へと拡大させ大飢饉を引き起こし数年間で約100万人が死亡した。

また、田沼の経済政策の推進にあたり宝暦・明和・安永に石谷清昌、安藤惟要が勘定奉行を務めた時期に田沼の主たる政策は実施されている。特に石谷は後に川路聖謨が勘定所などでは今でも石谷が定めたことをよりに運営しているとして石谷を「豪傑」と高く評価されている。それに対し、天明期に後任の松本秀持、赤井忠皛が勘定奉行であった時代に実施した政策は革新的な試みもあったものの、蝦夷地開発計画のような非現実的な案も多く、それらはほぼ全て失敗に終わっており、田沼失脚に繋がったものが多い[20]

大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた[21]

株仲間の推奨

株中を公認した享保期の幕府の意図は、問屋商人達の力を利用し物価の安定や操作に利用することだった。しかし、田沼時代の幕府の意図に関しては冥加金を上納させることによる財政収入増加策なのか、株仲間による流通統制や物価安定策だったのかと評価が分かれている。田沼時代は同業者組合である株仲間を奨励し、真鍮座などの組織を結成させ、商人に専売制などの特権を与えて保護、運上金冥加金を税として積極的に徴収した。だが、この冥加金などの上納は基本的にどれも少額であるため幕府の財政収支に与えた影響はあまり大きかったとは考え難く、中井信彦氏などは冥加金は少額な為、財政上の意義は不明として冥加金の財政収入増加説に否定的である[3][注 7]

長崎会所の健全化

長崎貿易を担っていた長崎会所は享保8年(1723年)にはその運上を5万両に定められていた。だが享保18年には3万5000両に減額し、寛保2年(1742年)にはとうとう廃止、以降は借金がかさみ延享3年(1746年)には拝借金21万両にまで膨れ上がった。そのため、勘定所は寛延元年(1748年)から22年間勘定奉行長崎奉行を兼任することで管理統制を強め、最終的には借金返済、運上金もかつての5万両の3分の1以下だが1万5000両を上納させることに成功した。長崎貿易は俵物の増産が目指され、銀も輸出から輸入へと切り替わった[3]

なお、一般には田沼意次の積極的な貿易政策で輸出を増やしたといわれているが、鈴木康子の著書「長崎奉行の研究」によると、海舶互市新例で定められた貿易総量を超えて貿易を始めたわけでも、銀を輸入する見返りに銅の輸出量を増加させたわけでもなく、貿易総量に変化はなかったことがわかり、一般に言われているような積極的な貿易政策による輸出増加政策などしていないこともわかる。藤田覚は田沼時代の積極的な貿易政策というこれまでの評価は再考を求められているとしている[3]

通貨政策

財政支出補填のための五匁銀南鐐二朱銀寛永通宝四文黄銅銭といった新貨の鋳造を行った。南鐐二朱銀に関しては法定比価で金一両分だと元文銀104gに対し南鐐二朱銀八枚79gと設定したので元文銀を材料に南鐐二朱銀を鋳造すれば通貨発行益が発生することになる。寛永通宝四文黄銅銭は一文青銅銭に比べ額面上の額は4倍だが銅の量は1.3倍でしかなく、これもまた発行すれば通貨発行益が発生した[22]。財政補填の為に発行された南鐐二朱銀だが、その発行に関しては通貨発行益以外に、金貨単位の計数銀貨の誕生によって通貨単位が金貨への統合を促された。南鐐二朱銀は田沼の在任当時はなはだ評判の悪い通貨だったが田沼末期には定着した。次代の定信政権も田沼の貨幣政策を継承して二朱銀の流通を積極的におしすすめたことで人々に喜ばれている[23]

これらは時代に先駆ける政策であった。それに反し時代に逆行する政策もしている。紙幣発行については吉宗の時代には紙幣の通用が解禁されていたが、それを逆行させ1759年に金札・銭札の通用を禁止し、また銀札も新規発行を禁止した。しかし、それらの法令を無視して藩札・私札は発行され続けた[24]

蝦夷地開発

松本秀持の蝦夷地政策で蝦夷地を開発し金銀銅山を開き、産出した金銀でロシアと交易し利益を得ようという試みがあった。

この数十年、ロシアは日本との交易を望んでいたので、これを放置していては密貿易が盛んになると危惧していた。そこで公式に貿易を認めれば、ロシアは食料がほしいので、俵物だけでも交易になるので利益になるだろうと考えた。蝦夷地の金銀銅山を開発しロシア交易にあてれば長崎貿易も盛んになると試算した[25]

田沼は、蝦夷地を調べるために幕府メンバーには、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六などがいた。また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行松本秀持、勘定組頭土山宗次郎などがいた。蝦夷地調査で鉱山開発やロシア交易の実現性を調べ、蝦夷地開発の可否を決定することとなった。調査隊は4月29日、松前をたち、東から国後、西から択捉の二隊に分かれて進んだ。翌、天明6年2月、佐藤玄六郎による調査報告があがった。調査の結果、危惧していたのと違い、ロシアとの間の密貿易は交易といえるほどの規模のものは存在しなかった。ロシアは日本と交易をしたがっているので正式に交易を始めればかなりの規模になるだろうが、外国製品は長崎貿易で十分入手できている現状、無理にロシア交易を始めても長崎貿易に支障をきたすことになり、そのうえいくら禁止しても金銀銅が流出することになる。結果、最終的に田沼は蝦夷の鉱山開発、ロシア交易を放棄した[25]

蝦夷地の鉱山開発・ロシア交易の構想が頓挫したことで、松本秀持は新田開発案に転換した。松本秀持は農地開発の為、アイヌを3万に穢多、非人を7万人移住させ、新田開発が進んで農民が増えれば、商人たちも増え人口を増える。さらに異国との通路を締め切り、日本の威光によりロシア、満州、山丹までもが日本に服属し永久の安全保障となる。蝦夷地が開発されれば、奥羽両国も中国地方のような良い国柄になる。新田開発もあまり時間をかけず、人口の増加も八、九年で実現できるとの非現実的な構想を書いている[注 8]。田沼失脚後、蝦夷地開発をいったん中止となった。しかし、この政策は老中を含む幕府の大多数に支持されていた。開拓反対派である松平定信も早急での開拓に反対しているだけで将来的な蝦夷の開拓自体は肯定派だった。その後、定信が失脚した後の寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とし中止されていた蝦夷地開発を開始した。文化4年(1807)には松前から領地を取り上げ全蝦夷地を直轄した。田沼が提唱した幕府による蝦夷開発計画はその後は紆余曲折はあったものの文政4年(1821)に中止されるまで継続していくこととなる[25]

上知令

利益の大きい産業のある藩領を幕府領に編入するべく上地を命じようとした。

  • 秋田藩領 阿仁銅山
    • 宝暦14年(1764年)貿易用の銅の直接確保のために5月に上知令を出したが、秋田藩の反発が激しく翌月撤回。
  • 尼崎藩摂津西宮
    • 明和6年(1769年) 灯油の原料である菜種の生産地域1万4千石の村と都市を代替地と引き換えで上地を命じた。
  • 蝦夷地
    • 松前藩から蝦夷地そのものを上地しようとしたが田沼失脚とともに頓挫した。

相良藩の藩政

田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に第9代将軍家重から呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の大名となった。この時の相良は郡上一揆で改易となった本多忠央が前領主であったが、城はなく陣屋のみあった。明和4年(1767年)には第10代将軍家治より神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城を許可されて城主格となった。翌年から相良城の建設を始め、完成までに11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に天守を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。出世を重ねた意次の所領は最終的に5万7,000石にまで加増された[26]

意次は江戸定府で幕政の執務に勤めていたため、国元の藩政については町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。上記の築城の他、城下町の改造、後に田沼街道(相良街道)と呼ばれる東海道藤枝宿から相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して瓦焼きを奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残された。殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨栽培の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた[26]


注釈

  1. ^ 実際は斬られて重傷を負い、その傷が癒えないまま亡くなった。
  2. ^ 柳沢・間部の職が側用人のみで正式の老中には就任していなかった(柳沢は老中格→大老格)ことと異なり、田沼は老中も兼ねていた。将軍の取次役である側用人が処罰されることはないが(将軍の政治責任を問うことになってしまうため)、老中は失政の責任を問われるためしばしば処罰を受けていた。
  3. ^ 赤ん坊が手を握る動作と役人が賄賂を受け取ることをかけて皮肉っている
  4. ^ 「猪牙」とは吉原への専用船のこと。固い役人でも吉原で接待すれば骨抜きになる
  5. ^ 田沼時代や田沼意次が汚職政治のイメージで語られたのは辻が始まりではない。上述のように三上の論考や徳富による通史があったり、辻自身が引用している通り、シーメンス事件に関わる貴族院議員の発言がある[11]。辻の論考は佐々木の指摘のように、その意図に反して意次=汚職政治家と学術的に、あるいは中高の教育に引用された経緯がある[12]。また、辻の論旨は民権発達の潮流として当時の民衆が時代や意次をどう認識していたかという部分があり[13]、辻が意次の汚職の根拠として民衆の噂話程度のものすら挙げたという大石の批判は注意が必要である。
  6. ^ 当時、田沼の賄賂政治を批判した松平定信が行った寛政の改革の諸役人への贈り物を規制する触書では、あまりに高価な品を送ることを戒めてはいるが、新年、中元、歳暮などの儀礼的な年中恒例の贈答などを禁止などしているわけではなく、むしろ一年に何度も及ぶ恒例の進物は当然のこととされた。それどころか、幕府役人への進物は大名らへの当然の義務であった。寛政4年の触書では“近年、年中恒例の進物の数を減らしたり、質を落としたり、なかには贈らない者もいる”と非難している。さらに、側衆や表向き役人への進物は、大名と役人の私的な贈答ではなく、将軍の政務を担う役人への公的な性格のものだからきちんと贈るようにとも命じている。 
  7. ^ 同時に藤田覚は「たしかに、個々の冥加金を見ると幕府財政を潤すほどの額とは言えないかもしれない。しかし、少額とはいえ少しづつでも増額させようとしており、そこには明らかに財政収支を増加させようとする意図がみえる」とも書き、財政収入増加説と流通統制説の双方に理解を示している。
  8. ^ 藤田覚は、この新田開発計画が成功すれば、当時全国3000万石あった石高が二割増しになり、しかもロシアまで日本に服属できるというのだから、実現の可能性を考えなければ気宇壮大、だが荒唐無稽な構想であり、蝦夷地開発策はまさに「山師」の時代を象徴するような大規模開発の構想だったと書いている。
  9. ^ 政府が積極的に支出をふやし、経済の拡大を図ろうとする財政政策
  10. ^ 支出をできるだけ減らして歳出規模の縮小を図る財政

出典

  1. ^ 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、4-6頁。 
  2. ^ 藤野保『江戸幕府崩壊論』塙書房、2008年。[要ページ番号]
  3. ^ a b c d e f g h i 日本近世の歴史4 田沼時代. 吉川弘文館. (2012/5/1) 
  4. ^ 大石慎三郎 (2001). 田沼意次の時代. 岩波現代文庫 
  5. ^ 高澤 憲治 (2012). 日本歴史学会. ed. 松平定信. 吉川弘文館 
  6. ^ 領内で起こった大火後、藁葺きの家をことごとく瓦葺にするよう令を発した。
  7. ^ 山本 博文 『武士の人事』KADOKAWA、2018年11月10日。 
  8. ^ 徳川林政史研究所 (監修) 編 『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、17-18頁。 
  9. ^ a b 大石慎三郎 1977, pp. 203–208, 「誤られた田沼像」.
  10. ^ 大石慎三郎 1977, pp. 212–215, 「幕府政治の支配システム」.
  11. ^ 辻善之助 1980, pp. 7–9, 「緒言」.
  12. ^ 辻善之助 1980, pp. 345–357, 解説 佐々木潤之介.
  13. ^ 辻善之助 1980, pp. 328–342, 「結論」.
  14. ^ 大石慎三郎 1977, pp. 208–212, 「"顔をつなぐ"社会」.
  15. ^ 大石 慎三郎 『田沼意次の時代』岩波書店、1991年12月18日、37-55頁。 
  16. ^ a b 藤田覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、157-163頁。 
  17. ^ 藤田覚 2012, pp. 47–58, 「賄賂汚職の時代」.
  18. ^ 深谷 克己 (2010/12/1). 田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家. 山川出版社 
  19. ^ a b c 藤田 覚 『日本近世の歴史〈4〉田沼時代』吉川弘文館、2012年5月1日、29-32頁。 
  20. ^ 徳川林政史研究所 編 『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日。 
  21. ^ 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、253-254頁。 
  22. ^ 高木 久史 (2016). 通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで. 中公新書 
  23. ^ 徳川林政史研究所 (監修) 編 『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、19頁。 
  24. ^ 高木 久史 『通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』中央公論新社、2016年8月25日。 
  25. ^ a b c 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、128-139頁。 
  26. ^ a b 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社[要ページ番号]
  27. ^ a b c 藤田覚 (2018). 勘定奉行の江戸時代. ちくま新書 
  28. ^ 藤田 覚 『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、148-155頁。 






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