エリザベス1世 (イングランド女王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 05:05 UTC 版)
評価
エリザベスは哀悼されたが、多くの人々は彼女の死に安堵した[7]。後を継いだジェームズ1世に対する期待は高く、当初、人々は1604年のスペインとの戦争の終結と減税によって報われている。1612年のロバート・セシルの死まで、政府は従来の政策を踏襲していた[210]。だが、ジェームズ1世が国政を寵臣に委ねるようになると人気は衰え、そして1620年代に郷愁的なエリザベス崇拝が復活する[211]。エリザベスはプロテスタント主義と黄金時代のヒロインとして賞賛された[212]。エリザベスの治世の晩年に培った勝利者のイメージ(背景にあった派閥闘争や軍事的、経済的な苦境に反してだが[213])が額面通りに受け取られ、彼女の評判が膨れ上がった。グロスター主教ゴッドフリー・グッドマンは「スコットランド人の政府を経験すると、女王は復活するように思われた。その時は彼女の記憶がとても拡大していた。」と語っている[214]。エリザベスの治世は国王、教会そして議会がバランスよく機能していた時代だったかのように理想化された[215]。
17世紀初めにプロテスタントのエリザベス崇拝者たちによって描かれた彼女の肖像画は後世に残り、影響力をおよぼすことになった[217]。彼女の記憶は、再び国土が侵略の縁に立たされたナポレオン戦争の時にも復活している[218]。ヴィクトリア時代では、エリザベスの伝説は当時の帝国主義イデオロギーに適用され[7][注釈 37]、そして20世紀中盤には、エリザベスは外国の脅威に対抗するロマンチックなシンボルとなった[219][注釈 38]。J・E・ニールやA・L・ラウスといったこの時期の歴史家たちはエリザベスの治世を進歩の黄金時代と解釈した[220]。ニールとラウスはエリザベス個人も理想化した。彼女は常に正しく、彼女の不愉快な特質は無視またはストレスの兆候として説明している[221]。
エリザベスは国民意識を形づくるイングランド国教会を確立させ、今日も健在である[222][223][224]。後に彼女をプロテスタントのヒロインとして称賛した者たちは、彼女がカトリック儀礼全てを排除することは拒否していることを見落としている[注釈 39]。歴史家たちは、厳格なプロテスタントたちが礼拝統一法を妥協であると見なしていたと指摘する[226][227]。事実、エリザベスは信仰は個人的なものであり、(フランシス・ベーコンが言うところの)「人間の精神と隠された思いに窓をつくる」ことを望んではいなかった[228][229]。
エリザベスの治世はユグノーと結びついてイングランドの国際的な地位を高めた。教皇シクストゥス5世は「彼女は単なる女、島の半分の女主人に過ぎない」「にもかかわらず、彼女はスペイン、フランス、帝国、そして全ての者たちから恐れられる存在となった」と驚嘆している[230]。エリザベスの下で、国民は新たな自信と(分裂したキリスト教世界 (en) での)独立意識を得た[231][232][211]。エリザベスは、国王は民衆の同意によって統治すると認識した初めてのテューダー家の人物であった[注釈 40]。それ故に彼女は、常に議会や真実を彼女に伝えると信頼しうる顧問たちとともに働いた。これはステュアート家の後継者たちが理解するのに失敗した統治様式である。一部の歴史家は、彼女を幸運であったと言う[230]。彼女は神が彼女を加護していると信じていた[234]。自らを「純粋なイングランド人である」と誇り[235]、彼女は神と誠実な助言、そして統治の成功のための臣下たちの愛を信じていた[236]。礼拝において、エリザベスは神に感謝を捧げてこう語っている。
悲惨な迫害を伴う戦争と騒乱が私の周りのほとんど全ての国王や国々を悩ましていた時、我が統治は平和であり、そして我が王国は汝ら病める教会の避難所であった。我が民の愛が固く現れ、我が敵の策略は挫かれたのです。[230]
- エリザベス1世 (イングランド女王)のページへのリンク