1998年死刑確定囚(7人)
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事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)京都・大阪連続強盗殺人事件(神宮雅晴) 1998年1月16日 1984年9月4日 1943年(昭和18年)1月5日生まれ。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中(現在79歳)。旧姓:廣田。1997年11月の上告審弁論後に改姓届を出し、姓を結婚前の「神宮」(しんぐう)に戻した。元京都府警察巡査部長だが、西陣警察署十二坊派出所に勤務していた1978年3月、署内から盗んだ拳銃で強盗傷人事件を起こし、同月24日付で懲戒免職。1981年2月に大阪高裁で懲役7年に処され、同年4月から加古川刑務所に服役していたが、1984年8月30日に仮出所した。1984年9月4日、かつて勤務していた十二坊派出所(京都府京都市北区)の巡査(当時30歳)を近くの船岡山公園に呼び出して包丁で刺殺し、拳銃を強奪。さらに約3時間後、大阪府大阪市都島区の金融業者支店へ侵入し、奪った拳銃で店員(当時23歳)を射殺し、現金約60万円を奪った。一連の事件は警察庁により、広域重要115号事件に指定されている。1988年10月25日に大阪地裁第1刑事部(青木暢茂裁判長)で死刑判決を受け、1993年4月30日に大阪高裁第6刑事部(村上保之助裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1997年12月19日に最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決を受けた。判決への訂正申立も、1998年1月13日付で棄却され、同月16日に死刑が確定。2事件とも無実を主張し、1998年12月3日から7回の再審請求を行ったが、いずれも棄却され、2011年1月21日に8回目の再審請求を起こしている。控訴中、雑誌『噂の眞相』(1992年1月号)に実名(当時は「廣田雅晴」)で手記「毎日を先陣としたマスコミ報道陣は「赤報隊」に射殺されよ!」を寄稿している。また2013年には、再審請求費用を工面するため、「極悪死刑囚の笑福転倒」と題する原稿を徳間書店から出版して印税を得ようと、原稿を同封した知人宛の信書を郵送しようとしたが、不許可にされたことから、同年4月27日付で国に対し、処分取り消しを求める訴訟を提起。大阪地裁第7民事部(田中健治裁判長)は2014年5月22日に原告(神宮)の請求を認める判決を言い渡したが、大阪高裁(森義之裁判長)は同年11月14日に原判決を取り消し、請求を棄却する判決を言い渡した。最高裁第三小法廷(山崎敏充裁判長)は2016年5月31日付の決定で神宮の上告を棄却したため、神宮の敗訴が確定。 熊本大学生誘拐殺人事件(春田竜也) 1998年7月24日 1987年9月14日 1966年(昭和41年)4月18日生まれ(旧姓:田本)。1988年3月30日に熊本地裁(荒木勝己裁判長)で死刑判決、1991年3月26日に福岡高裁(前田一昭裁判長)で控訴棄却判決。上告中に脱獄未遂を起こし、当時の福岡拘置所所長が自殺。1998年4月23日に最高裁第一小法廷(遠藤光男裁判長)で上告棄却の判決を受けた。同年7月22日付で判決訂正申立を棄却する決定を受け、同月24日付で死刑が確定。2002年9月18日に福岡拘置所で死刑執行(36歳没)。 岐阜県坂祝町一家3人殺害事件 (H) 1998年6月3日 1994年6月3日 殺人前科あり。1994年6月、岐阜県加茂郡坂祝町で、交際中の女性とのトラブルから、女性の実家に侵入し、女性の父親(当時61歳)、母親(当時59歳)、妹(当時31歳)の3人を監禁し、出刃包丁で胸や背中などを刺して殺害した。1998年5月15日に岐阜地裁(沢田経夫裁判長)で死刑判決を受け、名古屋高裁に控訴したが、6月3日に自ら控訴を取り下げて死刑確定。2002年9月18日に名古屋拘置所で死刑執行(51歳没)。 富山・長野連続女性誘拐殺人事件 (M) 1998年10月9日(正式確定日) 1980年2月23日 - 3月7日 1946年(昭和21年)2月14日生まれ。本籍地および住居は富山県富山市上千俵872番地。2020年9月27日時点で名古屋拘置所に収監中。戦後7番目の女性死刑囚。「警察庁広域重要指定111号事件」。1980年2月23日、富山市で帰宅途中の女子高生(当時18歳)を誘拐し、2日後(2月25日)に睡眠薬を飲ませた上で、腰紐を用いて絞殺した(富山事件)。富山事件で身代金獲得に失敗したため、8日後(3月5日)には長野県長野市で帰宅途中の女性会社員(当時20歳)を同様に誘拐し、翌6日に殺害(長野事件)。遺体を山中に遺棄し、2人の家族にそれぞれ電話で身代金を要求した。当初は被害者2人の殺害・死体遺棄を実行したのは、Mと愛人関係にあった男性(共謀共同正犯として起訴)とされていたが、検察は第一審の第125回公判(1985年3月5日)で「殺害・死体遺棄ともMが被害者に睡眠薬を飲ませた上で実行した」と主従関係を逆転させた。1988年2月9日に富山地裁(大山貞雄裁判長)は「一連の事件はMの単独犯行」と認定し、被告人Mに求刑通り死刑判決を言い渡した一方、共謀共同正犯とされていた男性(求刑:無期懲役)については「(起訴の根拠とされた)Mの自白には信用性がなく、共謀は認められない」として無罪を言い渡した。死刑を不服としたMと、(男性について有罪を訴えた)富山地検が名古屋高裁金沢支部へ控訴したが、1992年3月31日に名古屋高裁金沢支部(濱田武律裁判長)は「両事件ともMの単独犯行。男性の関与は証拠上認められず、むしろ共謀を否定する消極的事情さえも指摘できる」として、双方の控訴を棄却(Mに死刑、男性に無罪を言い渡した原判決を支持)する判決を言い渡した。名古屋高検が同判決への上告を断念したため、男性は1992年4月15日0時に無罪が確定。Mは1998年9月4日に最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で上告棄却判決を受け、同年10月7日付の第二小法廷決定[判決訂正申立棄却決定 事件番号:平成10年(み)第4号・平成10年(み)第5号]により、同月9日に死刑が確定。上告審判決前の1998年7月、東京拘置所に収監されていた死刑囚と養子縁組して「F」姓に改姓した。さらに2000年1月時点では「S」姓を名乗っていたが、2007年8月31日時点では元の「M」姓に戻っている。2021年1月までに5度にわたり再審請求を起こしたが、いずれも棄却されている。 中村橋派出所警官殺害事件 (S) 1998年9月29日 1989年5月16日 1969年(昭和44年)1月1日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在53歳)。元陸上自衛官。銀行強盗のために拳銃を奪おうとして、練馬警察署の「中村橋派出所」を襲撃し、警察官2名をサバイバルナイフで刺殺した。派出所勤務中の警察官2人が同時に殺害され殉職した事件は、1955年(昭和30年)以降では初だった。1991年5月27日に東京地裁(中山善房裁判長)で死刑判決、1994年2月24日に東京高裁(小林充裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1998年9月17日に最高裁第一小法廷(井嶋一友裁判長)で上告棄却判決を受け、死刑が確定。死刑確定後の2003年8月、犯行時の責任能力を問題として再審請求。 宮代事件(村松誠一郎) 1998年10月29日 1980年3月21日 1956年(昭和31年)5月17日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在66歳)。犠牲者2人。兄弟が起訴され、兄(村松)の死刑、弟の無期懲役が確定したが、冤罪説もある。村松は宮代事件について無実を主張したが、1985年9月26日に浦和地裁(林修裁判長)で死刑判決。1992年6月29日に東京高裁(新谷一信裁判長)で控訴棄却、1998年10月8日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却判決を受け、同年10月28日付の同小法廷決定[判決訂正申立棄却決定 事件番号:平成10年(み)第76号]により死刑が確定。死刑確定後の2001年2月27日に日本弁護士連合会(日弁連)に対し「東京拘置所が自分に対し違法に新技術を用いたポリグラフ実験を行ったり、ミクロ通信器による人工テレパシー・遠隔痛覚実験などを行っている」などと人権救済を申し立て、これを受けた日弁連は「村松は統合失調症あるいは拘禁ノイローゼなど重篤な精神疾患を患っている」として、法務省に対し死刑執行停止を勧告した。 妙義山麓連続殺人事件 (M) 1998年12月1日 1990年12月4日1991年7月6日 1965年(昭和40年)2月20日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在57歳)。2人への殺人罪+1人への傷害致死罪および死体遺棄罪に問われ、1993年8月24日に前橋地裁高崎支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決。1994年9月29日に東京高裁(小林充裁判長)で控訴棄却、1998年12月1日に最高裁第三小法廷(元原利文裁判長)で上告棄却判決を受け、同年18日付で同小法廷から判決訂正申立棄却の決定を受け、死刑が確定。1件の殺人については無実を主張し、他の殺人・傷害致死についても「犯行はシンナーの影響によるもの」と主張して再審請求中(2004年6月末時点)。アムネスティ・インターナショナル日本支部は2013年の報告書で死刑囚Mについて「『マイクロ波放射線に曝されている』『血液が紫色である』などの妄想があり、弁護団が再審請求しているが、自身の弁護活動に関与できていない」と述べている。
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