1998年理事選
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しかし、日本相撲協会7代目理事長である12代境川(元横綱・佐田の山)が打ち出した年寄株制度改革に反発する守旧派は、12代境川体制への反発を選挙を通じて行うという戦術を使った。12代境川が理事長を辞職した1998年とその後の2000年・2002年の理事改選において選挙が行われた。具体的には、上記の割り振りの枠を超えて立候補し、選挙しなければならない状態とするというものである。このとき守旧派急先鋒として一門の調整と関係なく独自に立候補したのは、年寄名跡改革小委員会委員長の18代間垣(元横綱・若乃花:二所ノ関一門)と同副委員長の8代高田川(元大関・前の山:高砂一門)であった。この事件により、高砂一門の現職理事である18代陣幕(元横綱・北の富士)が高砂一門の理事候補から外されたことを不服として日本相撲協会を廃業し、この混乱の責任を取る形で8代高田川は高砂一門を破門された。この過程で高砂一門の長である6代高砂(元小結・富士錦)が12代境川に対し、破門後も協会の高田川部屋に対する対応は変わらないという許可を取り付けたとされており、8代高田川もこの破門については折目筋目を通した上でのものとしている。 詳細は「破門#角界」および「前の山太郎#来歴」を参照 「北の富士勝昭#相撲協会を退職・ホテルで還暦土俵入り」も参照 1998年1月31日に投開票。投票総数は112票。高砂一門は当初、高砂と陣幕の2名擁立を目指していたが、当選ラインの9票に及ばず共倒れになることを警戒して高砂に候補者を一本化。この結果、立候補者数は12人から11人となった。 二所ノ関一門は持ち票32票を3候補にわけ当選。出羽海一門は持ち票の26票で2候補を当選させた。高砂部屋を破門となった高田川は、持ち票は高田川と山響の2票だったが、出羽海一門の一部など境川に反発する勢力の票が流れ8票を獲得。時津風一門は持ち票を一門外に出すことはなかったが、基礎票が少なく現職の枝川(元北葉山:時津風一門)が及ばず落選した。 当落候補者名年齢一門当選回数得票数当 高砂(小結・富士錦) 高砂 13票 当 一代北の湖(横綱・北の湖敏満) 出羽海 2 12票 当 二子山(横綱・貴ノ花) 二所ノ関 2 12票 当 境川(横綱・佐田の山) 出羽海 13 11票 当 時津風(大関・豊山) 時津風 15 10票 当 大島(大関・旭國) 立浪・伊勢ケ浜 1 10票 当 木瀬(前9・清の盛) 立浪・伊勢ケ浜 10票 当 佐渡ヶ嶽(横綱・琴櫻) 二所ノ関 4 10票 当 間垣(横綱・二代目若ノ花) 二所ノ関 1 10票 当 高田川(大関・前の山) なし 1 8票 落 枝川(大関・北葉山) 時津風 6票
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