1998年選挙での敗退以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 20:21 UTC 版)
「ハンガリー社会党」の記事における「1998年選挙での敗退以後」の解説
しかし1998年の選挙では、社会党政権の急激な民営化・外資導入優先の市場経済政策への反感もあり、大方の予想に反して、若い首相候補オルバーン・ヴィクトル党首を擁する右派政党のフィデスに敗退した。この敗北を受けてホルンは党首を辞任、コヴァーチ・ラースロー元外相に党首を譲った。 2002年の議会選挙では、ホルン政権下で財務相をつとめたメッジェシ・ペーテルを首相候補とし、最低賃金額の引き上げ、公務員給与の引き上げなどポピュリスト的選挙公約により国民の支持を得て、僅差でフィデスに勝利し政権に復帰した。メッジェシ社会党政権は、当初は高い支持率を誇り、2004年には体制転換以来の国家的悲願であったEU加盟を実現した。しかし政権は明確な政策を欠き、選挙公約の結果生じた大規模な財政赤字によって、懸案であるユーロ導入の見通しが先送りとなった。2003年夏以降、社会党は大幅に支持を低下させ、2004年春の欧州議会選挙では野党フィデスに敗北した。この敗北後、党首はコヴァーチからヒッレル・イシュトヴァーンに交代した。2004年夏には内閣改造をめぐって連立相手の自由民主同盟からの不信任表明を受け、メッジェシ首相は、自らの戦略顧問や閣内で青年スポーツ大臣もつとめていた裕福な実業家ジュルチャーニ・フェレンツ首相にとって代わられた。 地方党組織の強い支持を受けて首相に就任したジュルチャーニは、謎とされる体制転換後の富裕化疑惑、相次ぐ失言やワンマン的言動などで、右派はもちろん、社会党内の一部からも批判を受けていたが、強力な政治的手腕によって弱体化していた国民からの社会党への支持を回復し、国の経済実績数値を美化して国民に発表する手法も手伝って、2006年の議会選挙に勝利した。
※この「1998年選挙での敗退以後」の解説は、「ハンガリー社会党」の解説の一部です。
「1998年選挙での敗退以後」を含む「ハンガリー社会党」の記事については、「ハンガリー社会党」の概要を参照ください。
- 1998年選挙での敗退以後のページへのリンク