1998年沖縄県知事選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 04:20 UTC 版)
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1998年沖縄県知事選挙(1998ねんおきなわけんちじせんきょ)は、1998年11月15日に執行された沖縄県知事選挙である。新人の稲嶺惠一が現職の大田昌秀を破り初当選を果たした。この結果、2期8年続いた革新県政に終止符が打たれ、8年ぶりに保守側が県政を奪還した。
選挙戦の構図
本知事選は、県知事の任期4年が満了したことに伴い実施された選挙である。選挙には現職知事で3期目を目指し民主党や社会民主党(以下、社民党)、日本共産党(以下、共産党)、沖縄社会大衆党(以下、社大党)など中道や革新系が支援する大田昌秀と新人で自由民主党(以下、自民党)など保守陣営が支援する稲嶺恵一(県経営者協会特別顧問)、それに諸派の又吉光雄の3人が立候補したが事実上、大田と稲嶺による一騎討ちの選挙戦となった。前回の知事選では大田を推薦した公明党は「大田氏を基軸とした自主投票」に転じた。
本選挙では経済振興と在日米軍普天間基地の移設先をどうするのかという普天間基地移設問題が大きな争点となった。大田候補は本州付近および国外への「県外移設」を主張したのに対し、稲嶺候補は「北部の陸上に軍民共用空港建設」と「政府との関係修復による経済振興」を打ち出した。
投票結果
選挙の結果、保守系の稲嶺候補が現職で革新系が支援する大田候補を破って初当選した。選挙への関心は高く、投票率は前回を10%以上も上回った。
※当日有権者数:945,419人 最終投票率:76.54%(前回比:+14pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
稲嶺惠一 | 65 | 無所属 | 新 | 374,833票 | 52.43% | (推薦)自民党・新進沖縄・スポーツ平和党 |
大田昌秀 | 73 | 無所属 | 現 | 337,369票 | 47.19% | (推薦)民主党・社民党・共産党・社大党・自由連合・新社会党 |
又吉光雄 | 54 | 世界経済共同体党 | 新 | 2,649票 | 0.37% |
当選した稲嶺候補は、不況の原因は「県政不況」で大田県政の失策であると訴え、不況からの脱却を望む有権者に支持を広げた。また、企業が集中する那覇市における積極的な取り組みと振興策の訴えが奏功し、革新系が強い地盤でも支持を広げることができた。そして自主投票となった公明党支持層の半分近くの支持も取り込んだ。この知事選以降、全国的にも公明党は自民党への傾斜を強めて行き、1999年の自自公連立政権成立への布石の一つになった。
敗れた大田候補は、基地問題解決と経済振興を中心に訴えたが、政府との関係悪化で各種振興策の協議が停滞したこと、有権者の関心が「経済振興」に移っていく中で「基地問題」の訴えが薄れたこと、運動面で稲嶺陣営に後れを取り、切り崩しにあったことが響いた。
官房機密費3億円が稲嶺陣営に
2010年、当時小渕内閣の副官房長官だった鈴木宗男が、この選挙で稲嶺陣営に官房機密費3億円が渡されていたことを証言し、普天間基地移設問題で辺野古案が浮上する中、本土の自民党政権が裏で積極的に沖縄の選挙に介入していたことが明らかになった[1][2]。告知前から大田県政批判の出所不明のポスターが大量に電柱に貼られた。大手の広告代理店が入り、移設問題が「県政不況」などのキャッチコピーに圧倒的に凌駕され、また、イメージ戦略のため、自民党政権の閣僚来援は控えられ、本土政府と自民党の介入の影を隠した。筑紫哲也は、この選挙を「広告宣伝技術の選挙への導人が見事な成果をおさめた例」と指摘した[3]。
外部リンク
- “沖縄知事選 過去の得票数と得票率の推移”. 琉球新報. (2010年11月7日) 2011年11月12日閲覧。
- “沖縄県知事選挙”. 沖縄タイムス. (1998年11月16日) 2011年11月12日閲覧。
- 稲嶺知事誕生で沖縄政策協議会が再開 - NHK放送史
脚注
- ^ “安倍官邸が74億円もの官房機密費使用の異常! 領収書なしの“使途不明金”は安倍応援団の手にも? (2019年5月13日)”. エキサイトニュース. 2020年3月30日閲覧。
- ^ “官房機密費「支出先文書は5年で廃棄」「9割が領収書不要」の実態(三木 由希子) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2020年3月30日閲覧。
- ^ 筑紫哲也「自我作古 (170) 沖縄知事選――広告宣伝技術の勝利」『週刊金曜日』第244号 (1998.11.20)
1998年沖縄県知事選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:46 UTC 版)
「大田昌秀」の記事における「1998年沖縄県知事選挙」の解説
1998年2月の段階で、政府が普天間基地の返還の条件として沖縄県内で移設という「県内移設」を主張したことに大田知事は激しく反対を主張した。対抗措置として自由民主党は沖縄との経済振興策を話し合う「沖縄政策協議会」を一方的にボイコットし、知事選まで振興策の協議は事実上凍結された。これは沖縄の経済界、とくに中小企業にとっては死活的な恫喝そのものであった。辺野古の海上ヘリポートの建設に反対を表明、沖縄県が打ち出した「基地返還アクションプログラム」、国際貿易都市形成構想など8年間の実績と基地に依存しない沖縄経済の自立を訴えた。 一方、対する稲嶺恵一は、政府・自民党との強いパイプを強調した経済振興を強調し、「反基地か経済か」というコピーで未曽有の広報戦略を展開し、強力な自民党の資力が動いた。県民大会でともに県外移設を訴えてきた「盟友」大田と稲嶺は、本土の自民党の介入で大きく分かたれた。また、辺野古を、実際には不可能な米軍と民間人が共同使用するという「軍民共用空港」の公約をかかげ、辺野古移設に県民に理解を求めた。また今まで革新陣営に与してきた公明党はこの選挙で表向き大田支持の自主投票を表明しながら、実際には稲嶺を支援。翌年の自公連立の布石ともなった。経済振興を綱として企業の組織票を固めたこともあり、投票率は前回を10%以上も上回った。1998年11月15日の沖縄県知事選挙では、大田は新人の稲嶺惠一に敗れ、2期8年続いた革新県政に終止符が打たれた。 辺野古案浮上で、1998年の県知事選挙は、今も続く沖縄選挙の典型的な構図の先駆けとなった。告知前に県内にいっせいに失業率を表す数字「9.2%」と書かれた出所不明の黒地のポスターが貼られた。また、本土の大手広告代理店が入り、全国的不況のなか、大田県政が招いた不況だと誘導する「県政不況」などのキャッチコピーが氾濫した。筑紫哲也は、この選挙を「広告宣伝技術の選挙への導人が見事な成果をおさめた例」と評した。また2010年には当時副官房長官だった鈴木宗男議員が稲嶺陣営に官房機密費で3億円が渡されていたことを証言した。 2001年の参院選に社民党から立候補。この立候補は知事時代与党だった日本共産党や沖縄社会大衆党などからも「特定党派に偏らない政治をするという約束を反故にしている」と批判された。当選したものの、2007年には立候補せず政界を引退した。
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