日本の焼肉文化とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日本の焼肉文化の意味・解説 

日本の焼肉文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:59 UTC 版)

焼肉」の記事における「日本の焼肉文化」の解説

日本の獣肉食の歴史」も参照 日本においても古くから獣肉食の歴史がある。一方で食用にする鳥獣屠畜方法や肉の流通形態下処理調味調理方法使用する民具などによりそれぞれの文化風俗差異確認できることはあるが、これらについても文献から明確な起源判明していること多くない。 最も一般的な説では江戸時代ももんじ屋などでひっそり続いていた食肉文化があり、これはや鹿、、牛、馬など各地方食文化により多種多様な様態をもっていた。 彦根藩では第3藩主井伊直澄の頃、反本丸(へいほんがん)と称して全国唯一牛肉味噌漬け作られており、滋養をつけるとして全国出回り幕末まで江戸幕府や他藩から要求絶えなかったという。これは近江牛名産となるはしりとなった近江牛開港期に東海道徒歩で、のち汽船使用し東京・横浜まで出荷されるうになる。 「焼肉」の風習明治以前から既に存在しており、たとえば幕末開港期の横浜では、牛肉を串に刺して焼いたものを売り歩き客に食わせる料理があったとされる幕末開国期に日本各地開港場日本国外の人向けとして食肉処理(屠蓄業)が始められ当初英国人米国人清国人などが経営行った。たとえば神戸では英国人キルビーにより最初屠畜場設けられ以降、9名の外国人により7箇所屠畜場設置された。彼らの屠畜方法は「神戸肉仕立て」といい、後の神戸肉ブランド支え屠畜方法大きな影響与えたと言われる本郷浩二によれば神戸における屠畜業は当初から外国人大きく関与しており、近世期伝統的な生牛の屠畜技術との連続性相対的に希薄であるとする。日本人屠畜神戸場合宇治野村風呂ヶ谷の「穢多」が動員されたという記録がある。これは死牛馬勝手処理令や解放令以前段階において、生牛の屠畜穢多の役分としての延長解釈されたことを推測させるものである1870年明治3年)には食肉需要拡大するなかで商社宇治野組は屠畜場経営する至ったとされる開花期牛肉食は学生や一部の都市民が興味本位で口にするようなメニューであり、農村部庶民にとっては忌避感を伴うものであった。これら一般大衆牛肉食を普及させたのは何事にも西欧式を採用した軍隊であり、徴兵制度であった日清戦争・日露戦争期を通じて牛肉消費急激に拡大し8歳頃まで成長した農耕牛を肥育回して食肉用途として出荷する形体定着した神戸場合では被差別部落民とされた食肉加工事業者明治期には既に裕福で、処理施設などを構え屋敷町形成しており、周辺には港湾労働者らの貧民街形成されており、その一部食肉処理事業従事していたという。内臓などいわゆるホルモン焼き枝肉精肉)より鮮度劣化激しく常温下で2~3日経てば腐敗進み悪臭食べられたものではなくなる。冷凍流通存在しない当時としては肥料にでもするしか利用価値の無いものであったが、当日落としたような内臓部位については食肉加工場周辺売られ食材用として流通していた。精肉内臓部位流通経路当初から明確に異なっており、江戸時代からの慣習内臓などは屠畜作業者の取分とされ、これらを港湾労働者らに販売した売却益屠畜作業者の重要な副収入となっていた。 朝鮮人労働者屠場から牛や豚の内臓等を譲り受け食べていたことが朝鮮料理日本での普及関連してしばしば語られ東京においても品川屠場朝鮮人焼肉料理との関連示唆する証言がある。芝浦朝鮮人集住地を舞台とする村山知義小説或るコロニー記録』には豚の蹄を煮て塩で食べ朝鮮人描写がある。東京においても朝鮮人被差別部落民近隣住民や同じ職場労働者として、あるいは雇用者被雇用者として関係を結んでいた。これらのエピソード屠畜業者労働者である在日朝鮮人および被差別部落民との間に、牛や豚の内臓食通して経済関係生まれそのこと日本焼肉料理にしばしば内臓食含まれているという影響与えた可能性証言するのである。ただし筆者外村大は、日本朝鮮料理朝鮮焼肉料理起源これだけ求めるべきではないとコメントしている。 そして第二次世界大戦後深刻な食糧難の際に在日朝鮮人料理屋として内臓類を調理して販売したところ瞬く間好評得て安価な食材で店を繁盛させる事が出来る事に気付いた在日朝鮮人により「朝鮮料理」として全国的に店舗拡大させた。しかし後に朝鮮戦争勃発し在日朝鮮人の中で韓国支持して韓国料理」と名を変える者と、北朝鮮支持して朝鮮料理主張する者の二派に分かれたが、主な客である日本人には理解されず、日本人にも理解し易い様、肉を焼くという意味で「焼肉」に統一され、これが戦後の日本一般的に知られる焼肉ルーツと言われている。 日本人食肉供給量(消費量)は、かつて牛肉どころかそれに豚肉鶏肉あわせてもとても少なく1960年時点で、1人1年当たり牛肉・豚肉鶏肉あわせた供給量でもわずかに3.5kgだったが、2013年はその10倍の30kgとなった牛肉消費形態については、1960年代半ばから、伝統的な形態以外の調理法による各種牛肉料理急速に広まり、その主要なものは「濃いタレ」をつけて焼く「焼肉」、ハンバーグなど各種挽き肉料理カレー・シチューなど煮込み料理であり、その背景には1960年代以降グラスフェッド肥育ビーフ輸入増加乳用種去勢牛若齢肥育本格化などによる肉質多様化ともなった牛肉消費の増大があった。 牛肉輸入自由化による牛肉普遍化焼肉チェーン登場 日本牛肉輸入自由化1991年平成3年4月である。以前牛肉国産のみの高級食品焼肉屋女・子供入れないために男性ばかりのカルビ一人前1000円越え基本個人経営店舗のみであった牛肉輸入自由化受けて1995年12月焼肉きんぐ運営する物語コーポレーション小林佳雄は焼肉食べ放題焼肉きんぐ前身カルビ一番第一号店を出し大型店1人前580円のカルビ筆頭店舗増加莫大な利益をあげた。その後焼肉チェーン多数参入2003年からBSEによる日本国民牛肉離れ起きた2007年3月に「焼肉きんぐ」に改名し自分取りに行く形式基本だった焼肉食べ放題ではなく、初のテーブルバイキング式の焼肉食べ放題チェーンとなった

※この「日本の焼肉文化」の解説は、「焼肉」の解説の一部です。
「日本の焼肉文化」を含む「焼肉」の記事については、「焼肉」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日本の焼肉文化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本の焼肉文化」の関連用語

日本の焼肉文化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本の焼肉文化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの焼肉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS