日野車体工業
帝国自動車工業
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1908年(明治41年)4月:創業者の脇田兼太郎が個人事業として、東京市芝区芝浦2丁目3番地で自動車車体製作を創業。トランテックスではこの年を会社創業年としている。麻布で馬車や馬具の製作をしていた父の跡を継いだ脇田は、黎明期の自動車産業の将来性に着目、馬車構造の車体製作を開始し脇田商會を興す。 1914年(大正3年):技術上の問題を解決するため脇田がアメリカに渡り、車体工業の実情を視察して帰国。 1916年(大正5年):芝浦に工場を借り上げ、合資会社脇田自動車工業所を発足。 1917年(大正6年):創業者の脇田が病気により死去。事業・経営は継承される。 1925年(大正14年):この頃、東京石川島自動車製ウーズレーCGの東京市交通局向けバスボデーの架装を担当する。 1930年(昭和5年)3月:脇田自動車工業株式会社を設立。トランテックスではこの年を会社設立年としている。 1935年(昭和10年):この頃、ふそうBD46デッキ&ハーフやスミダBTトレーラーバスの鉄道省向け架装を行う。 1938年(昭和13年)6月:帝国自動車工業に商号変更。 1939年(昭和14年)9月:横浜市鶴見区尻手1丁目1番25号に新工場を建設。本社製造拠点を移転(のちに日野車体工業の本社が置かれる)。帝国自動車工業は陸軍省の軍用自動車認定工場となり、大半の軍用トラックのボデー架装を行う。鉄道省省営バスや東京市営バスの架装も手がける。 1943年(昭和18年):いすゞ大型B乗用車(PA10型)のボデーを手がける。帝国自工初の乗用車となる。 1945年(昭和20年):終戦後、米軍ジープの改造を経てバスボデー架装を再開。 1952年(昭和27年):この年に初めて日野ジーゼル製BH11シャーシへのボデー架装を始める(日野トレーラーバスT11型の架装は新日国工業が担当していた)。 1953年(昭和28年):日野ブルーリボンBD系センターアンダーフロアエンジンバス登場。標準車体は金沢産業と新日国工業と決まるが、初期キャラバン車は富士重工業と帝国自工が担当した。国内のバスボデー市場には航空機製造転換組の参入が顕著で、帝国自工は他の活路を求めオート三輪の開発も始めるが発売には至らなかった。また帝国自工はプリンス自動車の乗用車や商用車のボデー製造も手がけていた。 1954年(昭和29年):いすゞBX91V/95Vのボデーを架装。帝国自工初のフレームレスモノコックリヤエンジンバスとなる。以降、いすゞBA-Bと続き、1959年(昭和34年)まで主にいすゞ国鉄バス仕様を手がける。 1955年(昭和30年):経営危機に陥っていた帝国自工に対し、日野自動車が役員派遣を行う。以降はBD系ブルーリボンをはじめとして、日野製トラックやコンマースなど日野車の比率が高まる。 1960年(昭和35年):7年ぶりの黒字を計上。国鉄高速試作バス(国鉄専用型式)として、日野RX10といすゞBU20PAのボデーを手がける。 1961年(昭和36年):日野RB/RCのボデーを架装。 1964年(昭和39年):日野RA120Pのボデーを架装。 1967年(昭和42年):いすゞBXD30のボデーを架装。帝国自工最後のボンネットバスとなる。 1969年(昭和44年):日野RA900Pのボデーを架装。 日野車体工業発足後も、1983年(昭和58年)までモノコックボデーを並行生産し、国鉄バス向けいすゞシャーシへの架装を続けた(架装はいすゞ・C系まで)。
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