帝国自動車工業とは? わかりやすく解説

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日野車体工業

(帝国自動車工業 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/12 08:42 UTC 版)

日野車体工業株式会社
Hino Body Co.LTD.
種類 株式会社
市場情報
東証2部 7207
1949年5月16日 - 2000年8月4日
略称 日野車体
本社所在地 日本
230-0003
神奈川県横浜市鶴見区尻手1丁目1番25号[1][2]
設立 1930年3月18日[3]
業種 輸送用機器
事業内容 バスボテー・トラックボデーの製造
関係する人物 脇田兼太郎(創業者)
特記事項:1908年創業[3]
1975年4月、帝国自動車工業と金産自動車工業が合併し、日野車体工業株式会社に商号変更[1]
2002年10月、会社分割により株式会社トランテックスに商号変更[1]
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日野車体工業株式会社(ひのしゃたいこうぎょう、Hino Body Co.LTD)は、1975年昭和50年)4月から2004年平成16年)9月まで存在したコーチビルダー[1]神奈川県横浜市鶴見区に本社を置いていた[1]日野自動車100%出資の完全子会社であった。

2002年(平成14年)10月1日会社分割を行い、トラック架装会社を存続会社として株式会社トランテックスに商号変更した[1]バスボデー製造会社を分社化する形で事業継承した(新)日野車体工業は、2004年(平成16年)10月にジェイ・バスが(新)日野車体工業といすゞバス製造の2社の存続会社となる形で3社合併し、法人としての日野車体工業は消滅した。

概要

1975年(昭和50年)4月、帝国自動車工業(ていこくじどうしゃこうぎょう)と金産自動車工業(きんさんじどうしゃこうぎょう)が合併し、日野車体工業株式会社に商号変更した[1]

帝国自動車工業(帝国自工)の工場を引き継ぎ、神奈川県横浜市鶴見区尻手1丁目1番25号[1][2]に本社を置き、日野車体工業横浜工場としていた[1]

1939年(昭和14年)9月に開設され[1]、63年間続いた歴史ある横浜工場は、ジェイ・バスへの統合に伴い、2002年(平成14年)9月に閉鎖された[1]。工場は解体され、跡地は大規模分譲マンション「ヨコハマオールパークス」[4]として再開発されている。

日野車体工業では、日野自動車のCI変更でロゴマークが「Hino」から大文字の「HINO」へ変更された後も、ジェイ・バスへの統合まで日野の旧ロゴマークを使用していた(Hino Body=筆記体、H,Bのみ大文字)。

バスボデーのほか、トラック荷台やトレーラー車体の製造も行い、トラックボデーやアルミバンは日野製シャーシ以外へも架装していた。トランテックスとなってからもより積極的に日野シャーシ以外に架装している。

本項では、日野車体工業の前身となった帝国自動車工業金澤産業(かなざわさんぎょう、のち金産自動車工業)の2社についても述べる。

日野車体工業以前

帝国自動車工業

いすゞBX91 (1949年式)
江ノ島鎌倉観光(現:江ノ電バス
日野RA900P
国鉄専用型式

日野車体工業発足後も、1983年(昭和58年)までモノコックボデーを並行生産し、国鉄バス向けいすゞシャーシへの架装を続けた(架装はいすゞ・C系まで)。

金産自動車工業

日野BT71 (1965年式)
金産自動車工業に商号変更直後の製造車
信南交通
日産ディーゼル車への架装例
4R94 (1968年式)
東京急行電鉄
  • 1957年(昭和32年):構造体の技術的向学心をもった設計者が、技術提携を繰り返しても得られない答えを求め、1年間休職し大学で研究を開始する。ひずみゲージを用いた実験をまとめあげ、結果を日本機械学会に発表した。それまでの理論値が実測値となって裏付けられたことで貴重なデータとなる。
    • その研究結果は復職後、エアサスペンション、フレームレスモノコックボデーー、リヤエンジン方式を採用した新型モデルへフィードバックされ、この流れは後のトラックリヤボデーへの事業拡大や、バスボデーーのスケルトン化へと繋がってゆく。
  • 1963年(昭和38年):日野RA100PRA120Pほか、日野車率が99%となり最盛期を迎える。
  • 1965年(昭和40年)
  • 5月:金産自動車工業株式会社に商号変更[1]
  • 11月:新工場の松任工場が石川県石川郡松任町(現:白山市徳丸町)に完成(現在のトランテックス本店・本社工場)[1]
    • キンサンコーチ(KINSAN COACH)の名で親しまれる。さらにアルミを主体としたトラックのリヤボデーーやトレーラー、当時「第2の黒船」と騒がれた国際海上コンテナなどを手がけるようになる。
  • 1960年代後半より、自家用車の普及鉄道のスピードアップなどによるバス利用者の移行が顕著となり、大型バスの需要が減りはじめ、小型バスの需要が増えていく。結果、金産と帝国の両社間で日野車の販売競争と競合を招き、1969年から日野の仲介によって両社は業務提携を進め、共通設計でバスを製造するようになった。
  • 1971年:帝国自工と全面的業務提携に調印。以降の受注は99.9%日野車となり、ボデー部品の共通化や共通設計化がさらに徹底されるが、実質的効果が上がらなかった。
  • 1970年代より、主力商品であった国際海上コンテナが高度経済成長末期の円切上げにより国際競争力を失い、極度の経営悪化を招く。金産は帝国との合併へと向かう。

日野車体工業

日野スケルトンRS
国産初の大型スケルトンボデーバス
日野グランビュー ダブルデッカー
シャーシフレームまで角型鋼管構造に挑戦

製品一覧

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 会社沿革”. 株式会社トランテックス. 2020年12月13日閲覧。
  2. ^ a b 日野車体工業健康保険組合 全国保険者情報一覧、2020年9月12日閲覧。
  3. ^ a b c d 会社概要”. 株式会社トランテックス. 2020年12月13日閲覧。
  4. ^ ヨコハマオールパークス ナイス株式会社、2020年9月12日閲覧。

関連項目

外部リンク


帝国自動車工業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:16 UTC 版)

日野車体工業」の記事における「帝国自動車工業」の解説

1908年明治41年4月創業者脇田太郎個人事業として、東京市芝区芝浦2丁目3番地自動車車体製作を創業トランテックスではこの年会社創業年としている。麻布馬車馬具の製作をしていた父の跡を継いだ脇田は、黎明期自動車産業将来性着目馬車構造車体製作を開始し脇田商會興す1914年大正3年):技術上の問題解決するため脇田アメリカ渡り車体工業実情視察して帰国1916年大正5年):芝浦工場借り上げ合資会社脇田自動車工業所を発足1917年大正6年):創業者脇田病気により死去事業・経営継承される1925年大正14年):この頃東京石川島自動車ウーズレーCG東京市交通局向けバスボデーの架装担当する1930年昭和5年3月脇田自動車工業株式会社設立トランテックスではこの年会社設立年としている。 1935年昭和10年):この頃、ふそうBD46デッキ&ハーフスミダBTトレーラーバス鉄道省向け架装を行う。 1938年昭和13年6月:帝国自動車工業に商号変更1939年昭和14年9月横浜市鶴見区尻手1丁目1番25号に新工場建設本社製造拠点移転(のちに日野車体工業本社置かれる)。帝国自動車工業は陸軍省軍用自動車認定工場となり、大半軍用トラックボデー架装を行う。鉄道省省営バス東京市バス架装手がける1943年昭和18年):いすゞ大型B乗用車(PA10型)のボデー手がける帝国自工初の乗用車となる。 1945年昭和20年):終戦後米軍ジープ改造経てバスボデー架装再開1952年昭和27年):この年初め日野ジーゼル製BH11シャーシへのボデー架装始める(日野トレーラーバスT11型架装新日工業担当していた)。 1953年昭和28年):日野ブルーリボンBDセンターアンダーフロアエンジンバス登場標準車体金沢産業新日工業と決まるが、初期キャラバン車は富士重工業帝国自工担当した国内のバスボデー市場には航空機製造転換組の参入顕著で、帝国自工は他の活路求めオート三輪開発始めるが発売には至らなかった。また帝国自工プリンス自動車乗用車商用車ボデー製造も手がけていた。 1954年昭和29年):いすゞBX91V/95Vのボデー架装帝国自工初のフレームレスモノコックリヤエンジンバスとなる。以降、いすゞBA-B続き1959年昭和34年)まで主にいすゞ国鉄バス仕様手がける1955年昭和30年):経営危機に陥っていた帝国自工対し日野自動車役員派遣を行う。以降BDブルーリボンはじめとして日野トラックコンマースなど日野車の比率が高まる。 1960年昭和35年):7年ぶりの黒字計上国鉄高速試作バス国鉄専用型式)として、日野RX10といすゞBU20PAのボデー手がける1961年昭和36年):日野RB/RCのボデー架装1964年昭和39年):日野RA120Pのボデー架装1967年昭和42年):いすゞBXD30のボデー架装帝国自工最後ボンネットバスとなる。 1969年昭和44年):日野RA900Pボデー架装日野車体工業発足後も、1983年昭和58年)までモノコックボデーを並行生産し国鉄バス向けいすゞシャーシへの架装続けた架装いすゞ・C系まで)。

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