帝国自由都市ハンブルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/12 05:26 UTC 版)
「護送船団 (ドイツ史)」の記事における「帝国自由都市ハンブルク」の解説
ハンブルクは16世紀、ハンザ同盟の権威が失墜すると経済的な重要性を増大させていった。移住とそれに関連した交易相手の獲得により、帝国自由都市ハンブルクは17世紀中盤以降、ロンドンやアムステルダムと並ぶ最重要の交易中心都市の一つへと発展し、その交易関係はグリーンランドから地中海や白海にまで及んだのである。その際、非常に大切な寄港地はイベリア半島、イングランド、(捕鯨に関連して)北極海やアルハンゲリスクにあった。原則として交易は互恵関係の上に立脚しており、外国の商人もハンブルクの市場に出入りしていた。商圏の拡大とキリスト教国の、とりわけ地中海における武力を伴う影響圏の拡大は必然的に対立を生み、1571年にキリスト教国の艦隊がレパントの海戦で勝利を得たにも拘らず、最終的にイスラム教徒の海賊による大いに損害をもたらす襲撃をも招いた。 これらの私掠船はバルバリア諸国から出撃し、鈍重でしばしば無防備に近い、20隻から50隻の貿易船によって構成される船団を大いに消耗させていた。商船を大砲で武装(いわゆる武装商船)しても、その状況は大して変わらなかった。なぜなら、積荷に起因する商船の鈍さはそのままだったからである。船は拿捕され、積荷は没収され、乗組員はしばしば奴隷となるか、身代金が支払われるまで最悪の環境下で拘束された。 捕縛された船長や船員を買い戻すため、ハンブルクの船乗りや航海士は「用心の欠片の金庫」(ドイツ語: Casse der Stücke von Achten)を設立した。これは身代金の支払いにあたって基となる保険である。この保険に参加できなかった者をも買い戻せるように、1623年には船主や乗組員の分担金、国家組織からの補助金及び提督府の税金から構成される奴隷解放保険(ドイツ語版)がハンブルクで創設された。しかしこれらの資金も充分ではなかったため、教会にも募金箱が置かれた他、家庭でも募金活動が組織されている。 17世紀中、私掠船はその作戦範囲を地中海からジブラルタル、そして英仏海峡を越えてエルベ河口まで広げた。イングランド、フランスとネーデルラントは1665年から1687年にかけて懲罰遠征(英語版)をもってこれらの襲撃に対抗しようと試みた。ハンブルクは当初、独自の軍艦を持たなかったため、このような行動を取ることは不可能であった。海賊の活動範囲が広がった結果、海路を通じたハンブルクへの補給は部分的に滞り、時期によっては物資が逼迫に至ることさえあったのである。さらにキリスト教国間の戦争は、ますますハンブルクの経済問題となりつつあった。 「大同盟戦争」、「英西戦争 (1727年-1729年)」、および「オーストリア継承戦争」も参照 例えばフランスは、グリーンランドへ向かい捕鯨やアザラシ狩り(英語版)で得た物資を加工のためハンブルクへ運ぶ、同市とネーデルラントの船舶を拿捕するべくダンケルクから出航する私掠船の数を増やしていった。 ネーデルラント連邦共和国、イングランド、フランス、ノルウェー、デンマークといった当事国の他、ハンザ都市ブレーメンやブランデンブルク=プロイセンも交易路の海賊問題に対応する必要から、対策として商船団の軍艦による護衛を許可した。 ハンブルクの指導層は、国際的な商業活動における自らの重要な地位を可能な限り持続的に確保するよう望み、同じく商船団の保護と、いわゆる護衛艦(ドイツ語: Convoyer、「コンヴォイアー」)による船団護衛の組織し、以後このような襲撃を撃退することにした。 17世紀と18世紀、ハンブルクとその住民は交易に有害な軍事的紛争から距離を置き、紛争当事者に対して可能な限り中立を保とうと常に尽力していたため、「軍艦」という類別は明確に忌避された。その代わり公的には、攻撃よりも防御に適した艦種を指すとする「護衛艦」(ドイツ語: Konvoischiff、コンヴォイシッフ)や「市の護衛艦」(ドイツ語: Stadtkonvoischiff、シュタットコンヴォイシッフ)という分類が用いられている。事実上これらの艦艇は、武装を重視して建造されていたため全くもって軍艦と呼び得た。 ハンブルクの護衛艦とは恒常的に船団護衛の任務を帯びる軍艦であった。そして1669年から1747年までハンブルクの護送船団を警護し、ハンブルクの交易を保障し、それによって一大交易都市としてのハンブルクの地位を持続的に確保していたのである。 様々な要因の影響を受け、ハンブルクは18世紀の中頃、独自の艦による船団護衛を中止する。例えばイギリスなど、ヨーロッパのいくつかの国はバルバリア諸国と条約を結び、海賊による襲撃を停止させた。ハンブルクは資金の問題から、このような条約を締結できなかった。裏を返せば、商船がこのような「トルコ人通行証」(ドイツ語: Türkenpässe)を利用できる外国の護送船団に加わるようになったため、ハンブルクの船団は成立しなくなったのである。また、後にフランスとの通商関係はハンブルクの交易を容易にした。なぜならフランスは、商船を自国の軍艦で護衛したからである。 ハンブルクの護衛艦による船団護衛の回数と目的地イタリアイベリア半島イギリス北極海アルハンゲリスク3 65 29 26 15 ハンブルクの護衛艦は1665年から1747年にかけて合計138回の航海を護衛した(表を参照)。 西地中海一帯における海賊行為の最終的な鎮圧は1830年、フランスによる北アフリカの占領をもって達成され、船団護衛は時代遅れとなり、もはや戦時に実施されるのみとなった。 ハンブルクの護衛艦の模型 「レオポルドゥス・プリムス」 初代「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」 2代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」 3代目「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」
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