帝国自由都市ブレーメン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/12 05:26 UTC 版)
「護送船団 (ドイツ史)」の記事における「帝国自由都市ブレーメン」の解説
ブレーメンはハンザ同盟の没落後に重要性を失ったが、引き続きイングランドと緊密な通商関係を維持した。15世紀から17世紀にかけてブレーメン市議会(ドイツ語版)は、ヴェーザー川やその河口の水域を守るべく小型艦艇を用い続けた末、プファルツ継承戦争(1668年-1697年)の勃発をもって航洋能力を備えるより大型の護衛艦の整備が必要となった。なぜなら、北海の海上交易がフランスの軍艦や私掠船に脅かされるようになったからである。そのため1689年、「商人の長老衆(ドイツ語版)」はブレーメン商人が私財で出資した護衛艦、「ゴールデナー・レーヴェ」を整備し、イギリス航路に出動させている。しかし、この重要な通商路における交易を継続的に維持するには、同艦が余りにも小型であったことがすぐに判明した。それゆえ商人衆は、議会により大型で武装に優れた艦をこの目的のため派遣するよう要請する。これを受けて1690年12月17日、議会は 「1隻のみ、しかし優秀で防衛能力のある艦を急いで購入・調達すること」 を決定した。こうして1691年初頭、護送船団金庫(ドイツ語版)の負担でより強力な護衛艦、「ヴァッペン・フォン・ブレーメン(ドイツ語版)」の調達と整備が実施される。議会の指令によれば、同艦は「主にイギリスとの交易を保全するため」のものであり、「それが少しでも阻害されたり、厄介となったりするような用途に利用してはならない」とされた。 そのため何よりヴェーザー川からロンドン、ハル、ニューカッスルやさらに遠く、スコットランドへ続くイギリスとの交易路に投入されたが、時にはアムステルダム、ベルゲンやバルト海への護衛に用いられることもあった。さらに、3本マストの大型船のみが護送船団の保護下に入ることとされた。なぜなら、より小型の船が船団の足手まといとなり、その全体を危険に晒す懸念があったためである。 プファルツ継承戦争が終わると船団護衛は中止され、「ヴァッペン・フォン・ブレーメン」は議会の決定で退役し、1698年に競売にかけられ、ブレーメン商人のダニエル・マイナーツハーゲン(ドイツ語版)、コンラート・グレレ、ペーター・レニンク、フリードリヒ・ハーロッホと仲間たちへ6,000ターラーで売却された。数年後、スペイン継承戦争(1701年-1714年)の勃発とともに海上交易が再び脅かされると、議会は1704年に新たな護衛艦、「ローラント・フォン・ブレーメン」を就役させた。同年、「ヴァッペン・フォン・ブレーメン」を購入した商人衆はこれを再び護衛艦として整備し、カディス、マラガ及びアリカンテに向けて出航させた。その後、これらの護衛艦がどうなったかは不明である。 ブレーメンの護衛艦の模型 市庁舎上階のホールにある「オルロークシッフ」
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