大日本帝国陸軍における竹槍とは? わかりやすく解説

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大日本帝国陸軍における竹槍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 22:29 UTC 版)

竹槍」の記事における「大日本帝国陸軍における竹槍」の解説

竹槍三百万本論」も参照 第二次世界大戦中大日本帝国陸軍においては竹槍が「制式兵器」、すなわち正規兵器として採用され実戦使用された。 まず、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変の頃より、教育総監部本部長陸軍大臣などを歴任した大日本帝国陸軍トップ荒木貞夫が、竹槍を「乏し軍備象徴」として盛んに語るようになった。「日本国民全員日本精神持ちえすれば、あとは軍備乏しくても十分国が行える」とする論で、その趣旨については、本人1934年著した非常時認識青年覚悟』に詳しい。荒木曰く、「軍事費が非常に余計に掛かっていかぬと言うならば、もう要塞全部平らにして、兵器全部しまい込んで、この九千万国民一致して、人と人との和、皇室日本道とを戴いてやったらばよい。そうすれば国防為に竹槍三百本を揃えておきさえすれば、それでもう沢山だとのこと荒木陸相1933年昭和8年)に来日したバーナード・ショー当時世界的影響力のあった文化人で、1925年ノーベル文学賞受賞)にも面会し各国軍拡競争ストップするために各国竹槍戦術採用するべきだと訴えたことを東京朝日新聞1933年3月8日付)などが報じている。 竹槍はやがて、「日本精神象徴」としても用いられるようになった荒木貞夫陸軍大将1936年昭和11年)の講演において、「三百万人国民竹槍持ってよく防ぎよく守る決心あらば、大将自ら指揮して契って国家守護する」と語っており、その解説によると「三百万人とは国防第一線に立つ陸海軍人であり、竹槍とは誠心である」 とのことこのように少なくとも十五年戦争初期時点においては竹槍はあくまで喩えであり、本当に竹槍兵器として使うという意味ではなかったと帝国軍人には解釈されていた。しかし荒木いわゆる竹槍三百万本論」は、当時マスコミ幾度も報道されており、神戸又新日報1932年5月9日付)が「爆弾三勇士」になぞらえて竹槍三勇士」と評するほどのその扇情的な精神論が、当時青年団員や在郷軍人愛国心訴えかけて「何ほどかの効果持ったことと思われる」と当時神戸又新日報報じており、また荒木皇道派シンボルとしても、当時青年将校らに絶大な思想的影響力があったことは事実である。 1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の頃より、本当に竹槍実戦用いられるようになった。ただし、当初はあくまで銃剣代用品としての位置づけで、輜重・兵站などの後方部隊において補助兵器として竹槍配分され事例見られる銃剣代用品としての竹槍に関しては、『銃剣術指導必携』(陸軍戸山学校編、1942年)に詳しい。 1942年昭和17年)より、竹槍は「制式兵器」と位置付けられ規格化され陸軍兵士配備された。また竹槍扱い方も、陸軍教育掌る教育総監部によって武術一つである「竹槍術」として完成され1942年より全国民竹槍訓練が行われるに至った武術としての竹槍術」の神髄、及び訓練方法に関しては、『竹槍術訓練参考』(教育総監部1943年)に詳しい。本書では、竹槍代用品として木槍を使う方法紹介されている。 さらに1945年には国民義勇隊組織され竹槍本土決戦のための主要武器一つ位置付けられた。白兵戦において竹槍用いてアメリカ人を殺すためのテクニックについては、『国民抗戦必携』(大本営陸軍部1945年)に詳しい。具体的には、「背ノ高イヤンキー共ノ腹ヲ突ケ、斬ルナ、ハラフナ」とのこと刀槍一般的な用い方解説したものだが、例示されているイラスト明らかに竹槍である。銃を持った敵兵正面から向かって行き竹槍突き刺すと、敵兵のちょうどおへそのあたりに突き刺さり、敵は撃滅する、というのが、1945年当時大日本帝国大本営陸軍部想定した運用方法である)。 竹槍は「制式兵器」(軍から正規支給される武器)としてだけでなく、「自活兵器」(現地ありあわせの物を使って自作する武器)としても活用された。日本軍においては武器弾薬尽きた後も、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)の教えから降伏せず、敵に対して最後突撃バンザイ突撃)を行う慣習があり、その際持参する武器として現地生えている竹を用いて竹槍制作された。敵側記録日本兵陣中日誌などに多数の例が記載されている。 竹槍術実戦向けにマニュアル整備されており、心身陶冶にも、本土決戦における白兵戦兵器として有効だ1944年当時陸軍考えていたが、一方で当時海軍は「戦争太平洋で決まる、敵が日本沿岸侵攻して来た時点ではもう手遅れ」「敵は飛行機海洋航空機)で攻めてくるが、竹槍では飛行機戦い得ない」と考えており、海軍意向をくむ形で毎日新聞新名丈夫記者が『毎日新聞』(1944年2月23日付)に「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」との記事載せたところ、東條英機陸相首相激怒毎日新聞発禁となり、新名招集された(竹槍事件)。 1945年沖縄戦においては兵士だけでなく本来は非戦闘員であるはずの現地住民女性まで竹槍爆弾持たされ米軍突撃行い死亡した防衛召集によって集められ現地住民正式には「防衛隊と言うが、戦闘訓練受けず武器与えられずに竹槍(棒)だけ持たされた姿から自嘲的に「ボーヒータイ(棒兵隊)」とも呼ばれた沖縄戦における特に悲惨な例の一つとして知られる伊江島の例を挙げると、1945年3月25日から4月16日早朝にかけて第5艦隊による艦砲射撃および艦載海洋航空機によるナパーム弾投下が行われ、やはり竹槍では戦い得ずに島の飛行場およびほとんどの建造物破壊された。4月16日についにアメリカ軍77歩兵師団上陸し伊江島守備隊との戦闘が行われたが、白兵戦においても竹槍はあまり有効であったとは言えない。米兵の腹を突くために竹槍持って最後突撃行っても、ほとんどが米兵近づく前に射殺されるという欠点があった。また、夜に竹槍などをもって少数米兵突撃する斬り込み」と呼ばれる奇襲行われたが、日本軍奇襲米軍察知しており、照明弾照らされ一斉射撃晒されるため、生きて帰るのも難しかった。わずか5日後の4月21日伊江島全島占領され守備隊住人含めて5000人が死亡した伊江島守備隊においては、各兵士配備され竹槍手榴弾以外にも、大隊機関銃中隊小銃が数丁配備されており、あるいは爆薬直接持って自爆攻撃を行うなど竹槍以外にも攻撃手段が無いわけではなかったが、第502特設警備工兵隊(約800名、うち半数義勇召集による地元住民占める)においては主な任務飛行場整備であり、まともな武器配備されておらず、メイン対抗手段本当に竹槍持っての斬りこみしかなかった。「斬り込み敵兵の元までたどり着き竹槍突こうしたものの、敵に竹槍を掴まれて結局突けなかった」と言う、ある第502特設警備工兵隊隊員による逸話が『定本 沖縄戦』に記載されている。 硫黄島戦の後期内地から送られて来た補給品見た雷管竹槍だけであったという。大戦末期には極度物資窮乏のため、竹の先に青竹編んだ籠を付けて爆雷発射装置とした「投射式噴進爆雷」(竹製パンツァーファウストのようなもの)、竹槍先に火薬詰めて爆雷とした「爆」、爆末尾推進火薬詰めてロケット弾にした「対空噴進爆」(竹製フリーガーファウストのようなもの)など、竹槍実際に対空兵器対戦車兵器したもの考案されている。 『竹槍術訓練参考』など、大日本帝国陸軍兵器として竹槍に関する軍事資料は、終戦直後証拠隠滅による破却逃れたものが、一部は他の軍事機密とともに連合軍接収され竹槍は『兵器引渡目録』にも記載されており、本当に竹槍兵器として連合軍引き渡された)、現在はアメリカ議会図書館蔵されている(「米議会図書館所蔵占領接収陸海軍資料」)ほか、日本国内にある資料一部国立国会図書館国立公文書館アジア歴史資料センターによってインターネット公開されている。

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