大日本帝国陸軍における竹槍
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「竹槍三百万本論」も参照 第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍においては、竹槍が「制式兵器」、すなわち正規の兵器として採用され、実戦で使用された。 まず、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変の頃より、教育総監部本部長や陸軍大臣などを歴任した大日本帝国陸軍トップの荒木貞夫が、竹槍を「乏しい軍備の象徴」として盛んに語るようになった。「日本国民全員が日本精神を持ちさえすれば、あとは軍備が乏しくても十分国防が行える」とする論で、その趣旨については、本人が1934年に著した『非常時の認識と青年の覚悟』に詳しい。荒木曰く、「軍事費が非常に余計に掛かっていかぬと言うならば、もう要塞を全部平らにして、兵器を全部しまい込んで、この九千万国民が一致して、人と人との和、皇室と日本道とを戴いてやったらばよい。そうすれば国防の為に竹槍三百万本を揃えておきさえすれば、それでもう沢山だ」 とのこと。荒木陸相は1933年(昭和8年)に来日したバーナード・ショー(当時世界的影響力のあった文化人で、1925年にノーベル文学賞を受賞)にも面会し、各国の軍拡競争をストップするために各国で竹槍戦術を採用するべきだと訴えたことを東京朝日新聞(1933年3月8日付)などが報じている。 竹槍はやがて、「日本精神の象徴」としても用いられるようになった。荒木貞夫陸軍大将は1936年(昭和11年)の講演において、「三百万人の国民が竹槍を持ってよく防ぎよく守る決心あらば、大将自ら指揮して契って国家を守護する」と語っており、その解説によると「三百万人とは国防の第一線に立つ陸海軍人であり、竹槍とは誠心である」 とのこと。このように、少なくとも十五年戦争の初期の時点においては、竹槍はあくまで喩えであり、本当に竹槍を兵器として使うという意味ではなかったと帝国軍人には解釈されていた。しかし荒木のいわゆる「竹槍三百万本論」は、当時のマスコミに幾度も報道されており、神戸又新日報(1932年5月9日付)が「爆弾三勇士」になぞらえて「竹槍三勇士」と評するほどのその扇情的な精神論が、当時の青年団員や在郷軍人の愛国心に訴えかけて「何ほどかの効果を持ったことと思われる」と当時の神戸又新日報も報じており、また荒木は皇道派のシンボルとしても、当時の青年将校らに絶大な思想的影響力があったことは事実である。 1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の頃より、本当に竹槍が実戦で用いられるようになった。ただし、当初はあくまで銃剣の代用品としての位置づけで、輜重・兵站などの後方部隊において補助兵器として竹槍が配分された事例が見られる。銃剣の代用品としての竹槍に関しては、『銃剣術指導必携』(陸軍戸山学校編、1942年)に詳しい。 1942年(昭和17年)より、竹槍は「制式兵器」と位置付けられて規格化され、陸軍兵士に配備された。また竹槍の扱い方も、陸軍の教育を掌る教育総監部によって武術の一つである「竹槍術」として完成され、1942年より全国民に竹槍訓練が行われるに至った。武術としての「竹槍術」の神髄、及び訓練方法に関しては、『竹槍術訓練ノ参考』(教育総監部、1943年)に詳しい。本書では、竹槍の代用品として木槍を使う方法も紹介されている。 さらに1945年には国民義勇隊が組織され、竹槍は本土決戦のための主要武器の一つと位置付けられた。白兵戦において竹槍を用いてアメリカ人を殺すためのテクニックについては、『国民抗戦必携』(大本営陸軍部、1945年)に詳しい。具体的には、「背ノ高イヤンキー共ノ腹ヲ突ケ、斬ルナ、ハラフナ」とのこと(刀槍の一般的な用い方を解説したものだが、例示されているイラストは明らかに竹槍である。銃を持った敵兵に正面から向かって行き、竹槍を突き刺すと、敵兵のちょうどおへそのあたりに突き刺さり、敵は撃滅する、というのが、1945年当時の大日本帝国の大本営陸軍部が想定した運用方法である)。 竹槍は「制式兵器」(軍から正規に支給される武器)としてだけでなく、「自活兵器」(現地でありあわせの物を使って自作する武器)としても活用された。日本軍においては武器弾薬が尽きた後も、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)の教えから降伏せず、敵に対して最後の突撃(バンザイ突撃)を行う慣習があり、その際に持参する武器として、現地に生えている竹を用いて竹槍が制作された。敵側の記録や日本兵の陣中日誌などに多数の例が記載されている。 竹槍術は実戦向けにマニュアルも整備されており、心身の陶冶にも、本土決戦における白兵戦闘兵器としても有効だと1944年当時の陸軍は考えていたが、一方で当時の海軍は「戦争は太平洋で決まる、敵が日本沿岸に侵攻して来た時点ではもう手遅れ」「敵は飛行機(海洋航空機)で攻めてくるが、竹槍では飛行機と戦い得ない」と考えており、海軍の意向をくむ形で毎日新聞の新名丈夫記者が『毎日新聞』(1944年2月23日付)に「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」との記事を載せたところ、東條英機陸相兼首相が激怒。毎日新聞は発禁となり、新名は招集された(竹槍事件)。 1945年の沖縄戦においては、兵士だけでなく本来は非戦闘員であるはずの現地住民や女性まで竹槍や爆弾を持たされて米軍に突撃を行い死亡した。防衛召集によって集められた現地住民を正式には「防衛隊」と言うが、戦闘訓練も受けず、武器も与えられずに竹槍(棒)だけ持たされた姿から自嘲的に「ボーヒータイ(棒兵隊)」とも呼ばれた。沖縄戦における特に悲惨な例の一つとして知られる伊江島の例を挙げると、1945年3月25日から4月16日早朝にかけて第5艦隊による艦砲射撃および艦載の海洋航空機によるナパーム弾の投下が行われ、やはり竹槍では戦い得ずに島の飛行場およびほとんどの建造物は破壊された。4月16日についにアメリカ軍第77歩兵師団が上陸し、伊江島守備隊との戦闘が行われたが、白兵戦においても竹槍はあまり有効であったとは言えない。米兵の腹を突くために竹槍を持って最後の突撃を行っても、ほとんどが米兵に近づく前に射殺されるという欠点があった。また、夜に竹槍などをもって少数で米兵に突撃する「斬り込み」と呼ばれる奇襲も行われたが、日本軍の奇襲は米軍も察知しており、照明弾で照らされて一斉射撃に晒されるため、生きて帰るのも難しかった。わずか5日後の4月21日に伊江島全島が占領され、守備隊と住人を含めて約5000人が死亡した。伊江島守備隊においては、各兵士に配備された竹槍と手榴弾以外にも、大隊に機関銃、中隊に小銃が数丁配備されており、あるいは爆薬を直接持って自爆攻撃を行うなど竹槍以外にも攻撃手段が無いわけではなかったが、第502特設警備工兵隊(約800名、うち半数を義勇召集による地元住民が占める)においては主な任務が飛行場の整備であり、まともな武器が配備されておらず、メインの対抗手段が本当に竹槍を持っての斬りこみしかなかった。「斬り込みで敵兵の元までたどり着き、竹槍を突こうとしたものの、敵に竹槍を掴まれて結局突けなかった」と言う、ある第502特設警備工兵隊隊員による逸話が『定本 沖縄戦』に記載されている。 硫黄島戦の後期、内地から送られて来た補給品を見たら雷管と竹槍だけであったという。大戦末期には極度の物資の窮乏のため、竹の先に青竹で編んだ籠を付けて爆雷の発射装置とした「投射式噴進爆雷」(竹製のパンツァーファウストのようなもの)、竹槍の先に火薬を詰めて爆雷とした「爆槍」、爆槍の末尾に推進火薬を詰めてロケット弾にした「対空噴進爆槍」(竹製のフリーガーファウストのようなもの)など、竹槍を実際に対空兵器や対戦車兵器としたものが考案されている。 『竹槍術訓練ノ参考』など、大日本帝国陸軍兵器としての竹槍に関する軍事資料は、終戦直後の証拠隠滅による破却を逃れたものが、一部は他の軍事機密とともに連合軍に接収され(竹槍は『兵器引渡目録』にも記載されており、本当に竹槍が兵器として連合軍に引き渡された)、現在はアメリカ議会図書館に蔵されている(「米議会図書館所蔵占領接収旧陸海軍資料」)ほか、日本国内にある資料の一部は国立国会図書館や国立公文書館アジア歴史資料センターによってインターネット公開されている。
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