大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:01 UTC 版)
「好太王碑」の記事における「大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻」の解説
辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした日本在住の韓国・朝鮮人考古学、歴史学者の李進熙が、1970年代に大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。 その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は 百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民〈百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。〉 と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。 しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。 ほかにもこの説に対しては井上光貞、古田武彦、田中卓、上田正昭らからも反論が示された。1974年(昭和49年)に上田が北京で入手した石灰塗布以前の拓本では、改竄の跡はなかった。1985年には古田らによる現地調査が行われ「碑文に意図的な改ざんは認められない」と結論付けた。 さらに、2005年(平成17年)6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一であるとされた。さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定され、その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。 東北大学名誉教授の関晃は「一介の砲兵中尉にそのような学力があったとはとうてい考えられないし、また酒匂中尉は特務機関として行動していたのであるから、そのような人目を惹くようなことができるはずもない」と述べ、改竄・捏造説を否定している。 宮脇淳子は、「もともと伽耶は倭人が進出して開発した地域なのです。…しかし、日本が何かしらの拠点を持っていたことは間違いなく、それは前方後円墳の存在など考古学的にも実証されつつあります。日韓併合のずっと前から自分たちの土地が日本人に仕切られていたという歴史は、韓国人にとっては確かに面白くないでしょうが、日韓併合とは全く関係のない古代史まで歪曲するのはやめてもらいたいものです。…もっといえば任那に限らず、百済や新羅にも日本は強い影響力を持っていました。5世紀に『倭の五王』はシナの南朝に使節を送っていますが、478年、倭王武が宋からもらった称号の中に『使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王』というものがあります。まあ、それは使者を寄越したご褒美の名誉称号みたいなもので、倭王がそれらの土地を直接統治していたわけではありません。しかし、何の裏付けもなくシナの皇帝がその支配を認めるはずもないので、倭の勢力範囲であったことは間違いありません。倭の軍隊がたびたび朝鮮半島に進出していたのは明らかで、前述したように高句麗の『広開土王碑』にも倭軍が海を越えて攻めてきたと、はっきりと書いてあります。その当時の朝鮮半島南部は馬韓、弁韓、辰韓という豪族の集合体から、百済、新羅、任那という国になりつつありましたが、まだ王様がいたいないようなはっきりしない状態でした。また、各民族が混在していて、全ての国に倭人がいました。日本列島は物産が豊かで人口も多く、朝鮮半島に比べたら土地に力があるので、日本の豪族は半島まで出張って地元の豪族を子分にしたりするようなことがあったのです。もちろん、まだ国境が明確な時代ではないから、すなわち倭の領土ということにはなりませんが、それぞれの地域で倭人が力を持っていたということです。朝鮮半島南部のほかの地域で百済や新羅という統一国家ができたのに、任那でできなかったのも、それだけ倭国の存在感が強かったからではないでしょうか」と指摘している。 なお、この説が唱えられる以前の1963年(昭和38年)、北朝鮮内で碑文の改竄論争が起き、同国の調査団が現地で調査を実施した結果、改竄とは言えないという結論を出した。
※この「大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻」の解説は、「好太王碑」の解説の一部です。
「大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻」を含む「好太王碑」の記事については、「好太王碑」の概要を参照ください。
- 大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻のページへのリンク