ジェミニ‐けいかく〔‐ケイクワク〕【ジェミニ計画】
ジェミニ計画 Gemini
ジェミニ計画
宇宙空間での共同作業をめざして実施された計画
1961年、マーキュリー計画での有人宇宙飛行の成功に自信をつけた当時のケネディ大統領は、10年以内に人類を月に送り出すという声明を出しました。これが、のちのアポロ計画へとつながります。その実現には宇宙での共同作業をおこなう必要があり、その訓練のために生まれたのがジェミニ計画でした。2人の宇宙飛行士を同時に宇宙に送り出すという意味で、ふたご座をさす「ジェミニ」の名前が使われました。
改良された宇宙船で、2人の宇宙飛行士を宇宙へ
1965年3月23日にバージル・グリソムとジョン・W・ヤング
の乗ったジェミニ3号が打ち上げられました。宇宙船の重量はこれまでの2倍近くの3.2tになり、ロケットには水素と酸素を使用して発電する燃料電池がはじめて使われました。2人用のスペースを確保するために宇宙船の改良がおこなわれましたが、これまでの1.5倍のスペースしか確保できず、かなりせまいものでした。
ジェミニ4号のエドワード・ホワイトが、アメリカ初の宇宙遊泳
1965年6月3日に打ち上げられたジェミニ4号に搭乗したエドワード・ホワイト飛行士は、アメリカ人としてはじめて宇宙遊泳に成功しました。21分間の宇宙遊泳がおわり、帰還の指示を受けたとき、「私の生涯でもっとも悲しい瞬間だ」と言ったそうです。彼の宇宙遊泳のデータは、のちのアポロ計画で長時間の月面活動に耐えられるような宇宙服の設計などに役立てられました。
ジェミニ6号、ジェミニ7号が、世界初のランデブーに成功
2台の宇宙船のランデブー技術を確立することが、ジェミニ計画の目的の1つでした。そのためジェミニ宇宙船には、自力で軌道を変えるための制御ロケットが備え付けられました。これらは今までの宇宙船と区別するために「第2世代の宇宙船」と呼ばれ、旧ソ連のソユーズ宇宙船もこれにあたります。ジェミニ6号と7号は、1965年12月に地球軌道上で世界初のランデブー実験に成功しました。
ジェミニ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 07:40 UTC 版)
ジェミニ計画(ジェミニけいかく、英語: Project Gemini)は、アメリカ合衆国航空宇宙局(NASA)の二度目の有人宇宙飛行計画である。1961年から1966年にかけ、マーキュリー計画とアポロ計画の間に行われた。ジェミニ宇宙船は2名の宇宙飛行士を宇宙に送る能力があり、1965年から1966年までの間に10名の宇宙飛行士が地球周回低軌道を飛行した。この計画により、アメリカは東西冷戦時代にソビエト連邦との間でくり広げられた宇宙開発競争において優位に立つこととなった。
注記
- ^ 1966年に有人軌道実験室の試験飛行のためにジェミニ2号を再発射させた際には、唯一タイタンIIではなくタイタンIIIC が使用された
- ^ ジェミニ3号までは新しい管制センターはまだ試験段階であったため、ケープ・ケネディにあるマーキュリー管制室が使用された。ヒューストンが使用されたのはジェミニ4号からで、このときはマーキュリー管制室はバックアップに使われた。ジェミニ5号から現在に至るまでは、宇宙船の管制はすべてヒューストンで行われている
- ^ パラグライダーを使用して着地させる要求は、1964年に却下された。
- ^ ジェミニが10回の飛行をしている間、ソ連は一度も有人宇宙飛行を行わなかった。また史上初の宇宙遊泳を達成したにもかかわらず、1969年1月まで船外活動が行われることはなかった。
引用
- ^ a b Lafleur, Claude (8 March 2010). "Costs of US piloted programs". The Space Review. 2012年2月18日閲覧。
- ^ a b c d Gainor (2001), pp. 93, 97–99.
- ^ a b Hacker & Grimwood (1977), pp. XV, 75.
- ^ Schwartz, John (2018年10月17日). “Why Does ‘First Man’ Say Gemini as ‘Geminee’? NASA Explains. Sorta.”. The New York Times 2018年11月6日閲覧。
- ^ Loff (2013).
- ^ a b Murray & Cox (1989), pp. 33–34.
- ^ Reguly (1965), p. 7.
- ^ Agle (1998).
- ^ Farmer & Hamblin (2004), pp. 51–54.
- ^ Gatland (1976), p. 42.
- ^ a b Dryden (1964), p. 362.
- ^ Tomayko (1988), pp. 10–19.
- ^ a b Dumoulin, Jim (25 August 2000), NASA Project Gemini-XI, 2010年4月12日閲覧。
- ^ "Orbital Rendezvous". Buzz Aldrin. 2011年10月9日閲覧。
- ^ "NASA, Project Gemini". NASA. 2004年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月14日閲覧。
- ^ Wilford, John Noble (July 1969). We Reach the Moon. New York: Bantam Books. p. 67.
ジェミニ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 02:34 UTC 版)
詳細は「ジェミニ計画」を参照 ジェミニ計画とは、当時のアメリカ大統領であるジョン・F・ケネディが1961年5月15日におこなった『この10年期の末までに人間を月に着陸させ無事に帰還させるべきだと信じる。』とする演説を受け、これを実行するためアポロ計画の下積みとして実施された計画であり、この計画で育まれた技術はアポロ計画に活用された。
※この「ジェミニ計画」の解説は、「有人宇宙飛行」の解説の一部です。
「ジェミニ計画」を含む「有人宇宙飛行」の記事については、「有人宇宙飛行」の概要を参照ください。
ジェミニ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:46 UTC 版)
「トーマス・スタッフォード」の記事における「ジェミニ計画」の解説
スタッフォードは当初、アラン・シェパードとともに初のジェミニの有人ミッションであるジェミニ3号に搭乗することが計画されていた。しかしシェパードが内耳の病気のためフライトから外れると、スタッフォードはこのミッションの交代要員に回された。1965年12月、彼は初めてのランデブーを行ったジェミニ6-A号のパイロットを務め、ランデブーの理論や実用性の検証のための技術を開発した。 1966年6月、チャールズ・バセットとエリオット・シーの死去により、ユージン・サーナンとともにジェミニ9-A号の機長を務め、アポロ10号でも使われた初めての光学式ランデブー等を行った。1997年のSTS-94の打上げまで、彼は5ヶ月19日という宇宙飛行の間隔の最短記録を持っていた。
※この「ジェミニ計画」の解説は、「トーマス・スタッフォード」の解説の一部です。
「ジェミニ計画」を含む「トーマス・スタッフォード」の記事については、「トーマス・スタッフォード」の概要を参照ください。
ジェミニ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 15:17 UTC 版)
「ジョン・ヤング (宇宙飛行士)」の記事における「ジェミニ計画」の解説
ジェミニ3号はジェミニ計画初の有人飛行であった。それ以前のマーキュリー計画の宇宙船は一人乗りだったため、ヴァージル・グリソムと共に初の二人での宇宙飛行となった。1965年3月23日、ジェミニ3号は無事打ち上げられ、初の二人での宇宙飛行を成功させ、約5時間後地球に無事帰還した。なお、このときヤングは当時の味気ない宇宙食への不満から、内緒で船内にサンドイッチを持ち込み、食した。この行為は安全面から批判されたが、同時に宇宙食の食味向上が行なわれるきっかけにもなった。 二度目の飛行であるジェミニ10号では、初飛行であるマイケル・コリンズと共に1966年7月18日、打ち上げられ、ランデブーやドッキング、船外活動などが行われ、約3日後無事地球に帰還した。
※この「ジェミニ計画」の解説は、「ジョン・ヤング (宇宙飛行士)」の解説の一部です。
「ジェミニ計画」を含む「ジョン・ヤング (宇宙飛行士)」の記事については、「ジョン・ヤング (宇宙飛行士)」の概要を参照ください。
ジェミニ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:24 UTC 版)
詳細は「ジェミニ6-A号」を参照 当初、ジェミニ3号の乗組員はアラン・シェパードが船長、トーマス・スタッフォードがパイロットの予定だったが、シェパードがメニエール病と診断されたため乗組員から外され、スタッフォードは予備乗組員となった。シェパードの代わりの予備乗組員の船長はシラーとなり、その後、この2人がジェミニ6号の乗組員に予定された。ジェミニ6号は当初、アジェナ標的機との初の軌道上ドッキングを行う予定だった。1965年10月25日、シラーとスタッフォードがジェミニ6号の中で打ち上げを待っていたとき、同日に打ち上げられたアジェナ標的機が軌道上で爆発したため、ジェミニ6号の打ち上げは中断された。プログラムマネージャーは、アジェナの代替機が入手できるのを待つのではなく、ミッションを修正してジェミニ6-A号と名付け、フランク・ボーマンとジム・ラヴェルが搭乗するジェミニ7号とのランデブーを試みることにした。1965年12月4日にジェミニ7号が打ち上げられた。 12月12日にジェミニ6-A号の打ち上げが行われることになったが、点火後2秒も経たないうちにエンジンが停止してしまった。エンジンが停止した場合、宇宙飛行士は射出座席を用いて宇宙船から脱出する手順になっていたにもかかわらず、シラーは自分とスタッフォードの射出座席を作動させないことを選択した。これは、それを使用することによりミッションがさらに遅延し、場合によってはキャンセルとなる可能性があるのを避けるためだったが、2人が負傷する可能性も高まるものだった。原因究明と対策の後、ジェミニ6-A号は12月15日に打ち上げられ、5時間の飛行の後、ジェミニ7号とのランデブーに成功した。2つの宇宙船はお互いに最短で1フィート(30センチメートル)の距離まで接近し、5時間にわたって相対的にほぼ静止(英語版)していた。ランデブーの後、ジェミニ6-A号は12月16日に軌道を脱離して、ケープカナベラルの南東の大西洋上に着水し、空母「ワスプ」によって回収された:157–168:50–76。 ジェミニ6-A号のミッション中のシラーは、ミッションがクリスマスが近い時期であることから、管制官に対して色々な悪戯をした。まずサンタクロースを暗示する未確認飛行物体の目撃情報を報告した後、密かに持ち込んだホーナー社製のハーモニカで『ジングルベル』を演奏し、スタッフォードがベルで伴奏した:165。
※この「ジェミニ計画」の解説は、「ウォルター・シラー」の解説の一部です。
「ジェミニ計画」を含む「ウォルター・シラー」の記事については、「ウォルター・シラー」の概要を参照ください。
ジェミニ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/22 17:19 UTC 版)
1965年10月25日、アトラス・アジェナDのアジェナの段がジェミニ6号ミッションのランデブー目標として使用される予定だった最初のアジェナ標的機(GATV)の軌道投入に失敗した。この失敗を受けてNASAは6号を有人のジェミニ7号にランデブーさせることとした。
※この「ジェミニ計画」の解説は、「アトラス・アジェナ」の解説の一部です。
「ジェミニ計画」を含む「アトラス・アジェナ」の記事については、「アトラス・アジェナ」の概要を参照ください。
「ジェミニ計画」の例文・使い方・用例・文例
- ジェミニ計画のページへのリンク