マーキュリー・セブン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 04:05 UTC 版)
マーキュリー・セブン(Mercury Seven)は、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」のため、1959年4月9日にアメリカ航空宇宙局(NASA)によって選抜された7名の宇宙飛行士のことである[1]。オリジナル・セブンや第1期宇宙飛行士(Astronaut Group 1)などの呼称が用いられることもある。NASAの20世紀のすべての種類の有人宇宙船(マーキュリー、ジェミニ、アポロ、スペースシャトル)にメンバーのいずれかが搭乗したことがある。
- ^ “The 40th Anniversary of the Mercury 7”. NASA. 2017年9月24日閲覧。
- 1 マーキュリー・セブンとは
- 2 マーキュリー・セブンの概要
- 3 関連項目
マーキュリー・セブン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 04:26 UTC 版)
「ドナルド・スレイトン」の記事における「マーキュリー・セブン」の解説
1959年1月、スレイトンは、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるNASAのマーキュリー計画の宇宙飛行士の候補者の一人に選ばれた。最初は宇宙飛行には興味がなかったが、宇宙飛行士の選考を受けることに同意した。ワシントンD.C.のカッツ・マディソン邸(英語版)に置かれた臨時のNASA本部で一次面接を受けた後、スレイトンはニューメキシコ州アルバカーキのラブレース医院で、後に宇宙飛行士となるスコット・カーペンター、ジム・ラヴェルらとともに心理的・肉体的テストを受けた。1959年4月2日、スレイトンは宇宙飛行士に選ばれたことを知らされた。スレイトンは、家族とともにエドワーズ空軍基地からフォート・ユースティス近くの住宅地に引っ越した。近くには同じマーキュリー・セブンの仲間であるガス・グリソムやウォルター・シラーの家もあった:66, 69–75。 スレイトンはNASAに入った後、コンベア社のアトラス LV-3B(英語版)ロケットの開発に配属された:98。1959年、高Gトレーニング(英語版)中に心電図検査を受けたところ、心臓の動きが不規則であることが判明した。ブルックス空軍基地(英語版)で精密検査を受けた結果、特発性(英語版)心房細動と診断されたが、宇宙飛行には支障なしと判断された:78–79, 85–86。マーキュリー・アトラス4号の軌道飛行では、バミューダの追跡基地で働いた。スレイトンは、アメリカで2回目の有人軌道ミッションであるマーキュリー・アトラス7号に選ばれ、識別名は「デルタ7」とするつもりだった:104–105, 110。1962年初頭、NASA長官のジェームズ・ウェッブは、スレイトンの心房細動に関する調査を開始した。マーキュリー・アトラス7号の打ち上げの2か月前の1962年3月15日、マーキュリー・アトラス7号でのスレイトンの飛行は中止となり、代わりにスコット・カーペンターが飛行することになった:111–114。当初は、マーキュリー計画の他のミッションで飛行する可能性は残されており、スレイトンは定期的な運動と禁酒で健康状態を改善しようとしていた。その後、NASA上層部は、スレイトンが心房細動のリスクを抱えているとして、スレイトンの宇宙飛行は行わないことを決定した:115–116。フライトドクターは、スレイトンが先天性疾患を患っているかどうかを確認するために心臓カテーテル検査を勧めたが、NASA上層部は手術のリスクを考慮してこの提案を拒否した。
※この「マーキュリー・セブン」の解説は、「ドナルド・スレイトン」の解説の一部です。
「マーキュリー・セブン」を含む「ドナルド・スレイトン」の記事については、「ドナルド・スレイトン」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- マーキュリー・セブンのページへのリンク