阪神・淡路大震災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 23:07 UTC 版)
被害
都道府県 | 人的被害 | 住家被害 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
死者 | 行方不明者 | 負傷者 | 全壊 | 半壊 | 全焼 | 半焼 | |
兵庫県 | 6,402 | 3 | 40,092 | 104,004 | 136,952 | 7,035 | 89 |
大阪府 | 31 | 3,589 | 895 | 7,232 | 1 | 5 | |
京都府 | 1 | 49 | 3 | 6 | |||
徳島県 | 21 | 4 | 84 | ||||
奈良県 | 12 | ||||||
滋賀県 | 9 | ||||||
和歌山県 | 7 | ||||||
香川県 | 7 | ||||||
岐阜県 | 2 | ||||||
三重県 | 1 | ||||||
高知県 | 1 | ||||||
鳥取県 | 1 | ||||||
岡山県 | 1 | ||||||
合計 | 6,434 | 3 | 43,792 | 104,906 | 144,274 | 7,036 | 96[注釈 9] |
- 死者
- 負傷者
- 避難人数(ピーク時): 316,678人
- 住家被害:全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟[18]
- 火災被害:全焼7,036棟、焼損棟数7,574棟、罹災世帯8,969世帯[18]
- その他被害:道路7,245箇所、橋梁330箇所、河川774箇所、崖崩れ347箇所[18]
- 被害総額:約10兆円規模
- 関東大震災では木造住宅が密集する地域での火災が被害を大きくしたため、おもに焼死により日本の災害で最悪となる約10万人の死者を出した。東日本大震災では、主に津波による水死で1万5千人を超える戦後最悪の死者を出した。これらと比べ、当震災では断層沿いに被害が集中して被災地域が狭かったものの冬季の早朝に発生し、自宅で就寝中の者が多かったため主に圧死で6千人を超える死者を出した。甚大な被害を伴った震災であったが、その中でもいくつかの被害軽減の要因となった事項が挙げられる。
- 発生時刻が冬季の早朝であったため、公共交通機関・道路の利用率が少なく(山陽新幹線の下り列車は新大阪発6時始発[27])、外出者も少なかったことで、市街地・自宅外での被害を抑えられた。それに伴い、多くの市民が自宅での被災だったため帰宅困難者などが発生しづらく、安否確認が比較的容易な状況であった。
また、発災が早朝であった為、初動以降の生存確率が高い時間帯且つ人員や物資が整った中での救助活動が日中となった。これにより照明機材が無くとも活動できたことから、夜間と比べて生存者の発見や救助活動自体が容易であった。 - 発災した1月は気温が一年で最も低くなる時期とはいえ、甚大な被害が出た神戸市の1月の最高気温は10℃前後、最低気温は3℃前後となる気候・地理条件だった即ち、高温が原因となる熱中症、或いは低温が原因となる凍傷等が発生する条件になかった。これら倒壊家屋に閉じ込められた被災者を衰弱させる要因がなかったことが人的被害を抑えた。
これに加えて多くの被災者が就寝時の被災であったことから、本震時は毛布で身体を覆うことで落下物から防護したり、救出までくるまって暖をとっていたりした被救助者もいた。 - 甚大な被害が出た瀬戸内海沿岸地域はこの時期でも積雪が1cmに満たないことから、積雪や雪崩の危険性によって救助活動や交通が阻害されることが無かった。
- 地震発生時は風が穏やかだったことに加え、発生時刻が早朝だったため火の使用も少なかった。このことから降水量が少ない中でも延焼が最小限に抑えられた。
- 発生時刻が冬季の早朝であったため、公共交通機関・道路の利用率が少なく(山陽新幹線の下り列車は新大阪発6時始発[27])、外出者も少なかったことで、市街地・自宅外での被害を抑えられた。それに伴い、多くの市民が自宅での被災だったため帰宅困難者などが発生しづらく、安否確認が比較的容易な状況であった。
被災者の死因
NHKによる死体検案書の分析によると、地震当日に死亡した5,036人の76%に当たる3,842人は地震から1時間以内に死亡しており、このうちの9割が圧迫死(圧死、窒息死など)だった[28]。多くは木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとみられる。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。
2階建て木造住宅の場合、「(屋根瓦と2階の重みで)1階の柱が折れて潰れるケース」が多かったが、建物が倒壊しても2階の場合は生存のスペースが残りやすく、死者は少なかった。
死者の90% 程度は圧死とされている[29]。なお、死亡に至るまでの時間も短かった。遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2,456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2,221人と92%にも上り、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた[30]。サンデー毎日による調査では、分析対象とした247人のうち47人が建物の下敷きになる一方で、家具の下敷きは2人のみだった[31]。
死者のうち20代が30代よりも200人近く多く、年齢階層ごとに死者数が増える東日本大震災と異なった様相を呈している[32]。20代が多かった理由としては、大学が多い神戸市灘区などで高齢者と同様、文化住宅など木造アパートに住んでいた学生が倒壊したアパートの下敷きになったケースが多いと見られている[33]。31の大学で111人が死亡し、特に神戸大学では学生39人、教職員2人の大学関係最多の死者を出した[34][35]。
建造物
倉庫・病院・ビル・マンション
超高層建築物はおおむね無事であった。さらに、1978年宮城県沖地震の被害を踏まえて1981年(昭和56年)に改正された建築基準法にしたがって建築されたビルは、被害も少なかった。
港町・神戸に象徴される多くのレンガ造りやコンクリート造りの古い倉庫等の物流施設の他、老朽化したビルや一階が駐車場のビル・マンションの物件(いわゆるピロティ構造)では被害も多かった[36]ものの、幸い死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは火災が発生していたが、隣戸に延焼することはなかった。
だが古いビルでは、日本ではありえないとされていた中層階のパンケーキクラッシュが多数起こり、低層ビル1階部分の崩壊、建物が土台から切り離されて倒壊するなど、今まで日本では見られなかったような被害が多数あった。傾いた状態だった柏井ビルは翌朝の余震によって完全にフラワーロードに横倒しになった。そのほかにも、神戸市兵庫区の三菱銀行兵庫支店(1968年、鉄筋6階建て)、兵庫県薬剤師会館(1967年)、第一勧業銀行神戸支店(1926年、2階建て、長野宇平治設計)が崩壊した。
病院
兵庫県内の342病院のうち、全半壊焼失が13件であった。診療所をあわせた2,926件のうち、全壊239件、半壊270件、全半焼13件、インフラの停止による診療停止973件となり、約半数が機能を停止した。公式に数えられた負傷者だけでも35,000人である。神戸市内の災害医療機関3つのうち、西市民病院本館が全壊し中央市民病院が孤立するなど機能を失った。県立西宮病院438人、明和病院658人、笹生病院1,029人、西宮渡辺病院1,200人など負傷者で溢れかえった。逆に西宮市武庫川町の兵庫医科大学病院では救命救急センターの22人を含む274人の医師が待機したが、患者は平日の8%の約200人だけだった。
長田区にある神戸市立西市民病院は、本館5階が圧壊して入院中の患者44人と看護師3人が閉じ込められる状態になったが、生存空間があったため即死することはなかった。のちに患者1名が死亡した。他の損壊を免れた病院には多大な数の負傷者が搬送されることとなり、病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、またはほかの病院に転院させるなどして病床をできるだけ確保した。しかしそれでも病床の数がまったく足りず、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置を取らざるを得なかった。また、治療を行う医師の数も患者の数に対して圧倒的に不足していたこともあり、治療を待っている間に息絶えた人もいた[注釈 11]。
長田区海運町の高橋病院には87人の入院患者がいたが、熱風や爆発のため鷹取中学校に避難した。
ビル
神戸発祥の竹中工務店建築では、神戸国際会館7階、神戸市役所第2庁舎6階、神戸新聞会館、神戸阪急ビルが倒壊し、2,500件のビルのうち倒壊17件、大破25件、解体56件、補修217件であった。大成建設施工の明治生命ビルは、フラワーロードに2.5mせり出した。
画像外部リンク | |
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被災した新聞会館 神戸新聞 |
神戸新聞は本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに、編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年(平成8年)7月に神戸情報文化ビルへと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。
当時、神戸市須磨区にあったラジオ関西の本社も被災し敷地内の仮設スタジオに移転した後、1996年(平成8年)6月に現在のハーバーランドへと移転した。
マンション
芦屋市若葉町・高浜町に位置する海岸沿いの高級高層マンション群「芦屋浜シーサイドタウン」[注釈 12]では厚さ5cm、幅50cmの極厚ボックス骨が3cm程度の距離で全面破断し、52棟中25棟で57箇所の破断があった。これは想定通りの被害であったが[37][注釈 13]、重量鉄骨造の脆性破壊の、日本での初めての例であった。マンションの鉄骨はむき出しとなっており、当時の気温(0℃程度)や使用鉄骨の低温特性、埋立地で増幅された地震動の高層ビルの固有周期との一致などにより、限界を超えたと考えられている。
瓦屋根・木造・日本家屋の危険性
日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで筋交いの少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、神戸地域においては新築の瓦屋根はほとんど見られなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けている[38]。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」にもかかわらず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解されている[39][40]。
古い木造住宅は、年月の経過によって乾燥している点、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅が地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重く、なおかつ瓦の固定方法も屋根に土を葺いてその上に瓦を載せる方法が多かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる工法の住宅が高い耐震性を示している。3階建住宅の被害もほとんどなかった。
生存空間
日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法で多くの即死者が出た原因は、潰れた建物の下敷きになり、生存空間がなくなったためである。分解しやすい構造のため、地震の場合瓦屋根、屋根土、土壁、床、柱がバラバラになって落下し、下敷きになって人体が潰れる。揺れが小さい場合は土壁が建物を守るが、揺れが大きい場合は土壁も破壊され落下し凶器になる場合がある。
鉄筋コンクリート造りの場合は強固な一体構造であり、大破しても柱、屋根、床はバラバラになって潰れることがない。柱は破壊されても、天井が低くなるだけで床や屋根部分はバラバラになることはなく、即死することが少ない。さらに普通のマンションの場合、壁が多く、壁が柱の役目をするので構造的に潰れにくい。マンションは大破した場合でドアが開かない、大きな亀裂が入るなど住むことはできないが、建物の下敷きになって怪我をしたり即死することはない。例外的に低層階に会社、スーパーマーケットなど窓が大きく、柱が少なく、壁の少ない構造のマンションでは一階の柱が破壊され、天井が極端に低くなった例がある。
建築基準法改正前の住宅
耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1981年(昭和56年)以降で1982年頃から建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。倒壊した木造家屋の98%が旧耐震基準で建てられたものであった[41]。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者の出た住宅は1982年(昭和57年)以前の建築物件で、当時の建築基準法により設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も1996年(平成8年)・2000年(平成12年)・2006年(平成18年)に建築基準法は改正されている。
危険な合法住宅の問題点としては、古い住宅の場合は耐震性がなく危険であっても違法ではない。違法かどうかは、新築時の建築基準法に対して判断するため、新築時の法規に適合していた建物は、その後に老朽化して危険になっても違法ではない(既存不適格と呼ぶ)。たとえば、建築基準法がない江戸時代の建造物は危険であっても合法である。
3階建て住宅ではほとんど被害が出ていないのは1988年(昭和63年)に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において木造3階建ての建築は禁止されていたため、耐震性がない合法3階建住宅(古い3階建て)がなかったためである。また、日本では耐震性が不十分な住宅が国土交通省の推計より2008年(平成20年)時点で約1,050万戸(日本の住宅総数の約23%に当たる)あるといわれている[42]。
交通
道路においては、中国自動車道や国道43号・国道2号において復旧のための車線規制による渋滞が発生した。特に、高架が崩落した阪神高速3号神戸線(第二神明道路や姫路バイパスなどと直結し、大阪 - 姫路間の連絡道路となっている。)は、長らくの間不通となった。このため、鉄道の不通と相まって単に関西を通過するだけの道路交通にも深刻な影響を及ぼし、復旧までの期間には国道9号・国道372号(両国道で、京都 - 姫路間を迂回できる。)や国道27号などの一般道に、長距離トラックや長距離バスが殺到した。当時は、被災区間を一般道を通らずに迂回できるルートが一つもなく、京阪神を通らない迂回ルートの貧弱さが浮き彫りとなった。
鉄道においては、兵庫県などを走る西日本旅客鉄道(JR西日本)、阪急電鉄、阪神電気鉄道、山陽電気鉄道などの路線が、震災による甚大な被害を受けた。(高架構造の駅舎である)ホームに、地震発生時に電車を留置した状態だった阪急伊丹線伊丹駅や東海道本線(JR神戸線)六甲道駅や阪神電鉄石屋川車庫の崩壊した映像は、阪神高速道路が倒壊した映像とともにこの震災を象徴することとなった。
地下の神戸高速鉄道東西線の大開駅が崩壊したために、その上の国道28号において陥没が発生した。直後の交通規制などが迅速に行われなかったため、国道43号・国道2号・山手幹線などの神戸方面にいたる主要幹線道路において、大規模な渋滞が発生した(規制をしなかった理由としては、この時の警察の方針が「倒壊家屋などからの人命救助」を優先していたためである)。
震災直後からJR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は、不通区間の解消とともに順次終了された。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった[43]。
神戸経済にとって大きな収益源である神戸港も被害を受け、多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区のポートアイランド、東灘区の六甲アイランド、芦屋市の芦屋浜、尼崎市の築地地区など埋立地を中心に、地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。
当時建設中であった明石海峡大橋も地震による直接的な被害はなかったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上に、フランス革命200周年記念事業として日仏友好モニュメントが建設予定で、1995年1月12日に日仏の関係者約220人が参加しくわ入れ式を挙行したが、その5日後に震災が発生し事業を休止していた。しかし2015年11月に発足時メンバーの逝去や建設再開の機運醸成が難しいことから、日仏友好のモニュメント日本委員会が事業中止と委員会解散を提唱した。関係者がこれに承諾し、このプロジェクトは未完に終わった[44]。
道路
阪神高速道路
阪神高速道路3号神戸線(延長39.6km)の倒壊は[45][注釈 14]、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく掲載された。橋脚1,175基のうち637基、橋桁1,304径間のうち551径間が損傷したが[45]、中でも東灘区(深江地区)では全長635mにわたって高架橋が横倒しになる(17基の橋脚が倒壊)という極めて衝撃的な光景が見られた[45][46][47][48]。
「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。橋脚と道路面の接合部分が地震によって破壊されたことも確認された。そのため、「柱の上にただ乗っかっている板」のような状態になり、耐震性はほぼゼロになったと考えられる。崩落した高速道路と辛うじて残った部分との境に取り残された高速バスの写真が印象深いが、その部分ではこの事象が発生していたと考えられている[49]。
被災し破損した構造物の実物や資料などは、1999年より阪神高速が東灘区に有する震災資料保管庫にて展示されており、事前予約をすることで誰でも見学することができる[50]。
中国自動車道
中国自動車道では、吹田JCTと西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、三重県亀山市(東海道沿線)や滋賀県米原市(中山道沿線)周辺から兵庫県姫路市(山陽道沿線)まで行くには、「迂回路」としての北近畿の福井県敦賀市(北陸地方南部)から兵庫県和田山町(現・朝来市)までを通らなければ到達できないということが指摘されている。近年、論議がかまびすしい道州制においてもこの北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべき」という意見が出されている。
交通規制
震災直後、被災地の幹線道路で大規模な交通規制が実施された。当初は、警察署が通行許可標章を発行していたが偽造が出回り渋滞の改善が見込めないため、その後コピーのできない新たな標章「復興標章」「除外標章」への切り替え、標章の交付審査を厳格にした。交通規制は阪神高速3号神戸線の復旧に合わせ徐々に緩和され1996年(平成8年)8月には全て解除となった。交通規制実施道路は次の通りである。
- 復興物資輸送ルート - 国道43号の一部区間・名神高速道路の一部区間・阪神高速5号湾岸線の一部区間(復興・除外標章掲示車両・バス・タクシー・緊急車両以外は通行できない。規制時間は日曜日・祝日を除く6時 - 19時)
- 生活・復興関連物資輸送ルート - 国道2号の一部区間・阪神高速7号北神戸線・新神戸トンネル有料道路・第二神明道路(復興・除外標章掲示車両・バス・タクシー・貨物車・二輪車・緊急車両以外は通行できない。規制時間は道路により異なる。)
JR
西日本旅客鉄道(JR西日本)も私鉄各社同様の被害を受けたが、どの私鉄よりも先に急速な復旧を遂げて、最初に全線での運行を再開した。「資本力の違い」「旧国鉄線だったため、線路脇に比較的余裕があり作業が行いやすかったこと」「旅客列車のほか、貨物列車も往来する物流の大動脈でもあったこと」「全国のJRグループから応援を呼んだこと」などが要因とされる。
被害
- JR神戸発富山行き「スーパー雷鳥」1号(鷹取駅まで回送中)…住吉駅で被災、三ノ宮駅700m手前で停止。10両中8両が脱線。
- JR「シュプール白馬・栂池」6号・西明石発京都行き普通列車…住吉駅 - 三ノ宮駅間で脱線。
- JR六甲道駅…駅舎が倒壊。
- JR新長田駅…駅舎が全壊。
- JR鷹取駅…駅舎が半壊。
- 山陽新幹線においては、橋脚の倒壊と倒壊箇所の調査から手抜き工事の痕跡が見つかっている。
- 東海旅客鉄道(JR東海)でも東海道新幹線の京阪間の一部で橋脚に亀裂が見つかったため、震災直後は京都駅 - 新大阪駅間で徐行運転(170 km/h程度)を行っていた。
JR神戸線
西宮駅 - 須磨駅間で貨物列車を含め8本が脱線したほか、鷹取工場でも39両が脱線、転覆した。駅施設関係では、六甲道駅を中心に高架橋や柱に大きな被害を受け、新長田駅付近の盛土が崩壊して駅設備が壊滅した。また、鷹取工場では建物が全壊したほか、検修庫や検修設備に損傷を受けたほか、土留め擁壁が倒壊するなどの被害を受けた。
発生直後から全線で運転を見合わせたが震災当日に運転再開することができず、翌18日には大阪駅 - 尼崎駅( - 福知山線塚口駅)間の上下外側線と西明石駅 - 姫路駅間で運転を再開した。運転再開は、折り返しができる駅を活用して工事が進められたが、折り返しができない須磨駅・住吉駅では新規にポイントを設置し、灘駅ではその先の東灘信号場の構内配線を変更して引き上げ線とすることにより折り返しができるようにした。
西明石方面からは、ホームのある上下電車線を優先して復旧を行ったが、灘駅 - 兵庫駅間は方向別線路となっていたため海側2線(下り列車線・電車線)を優先して復旧作業を行った。新長田駅付近では被害が大きかったため、下り列車線と和田岬線への小運転線を活用して複線化している。当時この小運転線は非電化であったため、急遽電化して対応した。なお、新長田駅は駅舎が全壊したため、1月30日に神戸駅 - 須磨駅間の運転を再開しても停車せず、3月10日に仮駅舎ができるまで通過していた。
ダイヤ面においては大阪方面から甲子園口駅までの復旧時は新快速(ただし大阪駅以西は各駅停車)と普通のみ運転され、京都方面からの快速は大阪駅で折り返し運転を行っていた。新快速は大阪方面からは芦屋駅開通時に運転を開始したが、姫路方面からは3月12日まで運転されることはなかった。(ただし加古川駅 - 姫路駅間では新快速運転を行う列車は存在していた。)
震災の復旧作業の進捗によって、不通区間が徐々に短縮されていったが不通区間の東西それぞれで封じ込められた車両で運用を行わなければならず、特に不通区間の東側では車両が不足していた。そのため、播但線を迂回ルートとして車両が回送されたが、播但線は非電化のためパンタグラフなどの付属機器を網干電車区(現在の網干総合車両所)で一旦撤去し、ディーゼル機関車の牽引により福知山運転所(現在の福知山電車区)まで回送され、同所で取り外した機器類を取り付けて自力で宮原電車区(現在の宮原総合運転所)などに回送された。
しかしこの再配置だけでは車両不足が解消できず、岡山電車区・広島運転所から115系19両および森ノ宮電車区・日根野電車区の103系が運用されたほか、震災時に鷹取工場に入場していた奈良電車区の221系も運用された。また、車両の増結を行うなどし、201系は通常7両編成で運用されているが、このうち4本を4M4Tの8両編成と8M4Tの12両編成に組み替え、201系では最長となる12両編成で運転された。
六甲道駅を含む住吉駅 - 灘駅間は高架橋の崩落が最も大きな被害を受けたため最後まで不通区間として残ることになったが、4月1日に74日ぶりに全線が開通した。これにより震災後、阪神間の鉄道が初めて復旧することになり、この日に行われたダイヤ改正で新快速を増発している。六甲道駅復旧の模様は日本放送協会 (NHK) のテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』でも取り上げられた。開通区間が延長されるたびに、開通直後から路盤固めまでの暫定ダイヤと、路盤が固まってから次に開通区間がのびるまでの暫定ダイヤの2種類が造られ、震災発生から全通まで18回のダイヤ改正が行われた。
播但線
1月20日から姫路駅 - 和田山駅間ノンストップ快速がキハ65形の4両編成で1日2往復運転され、21日・22日はキハ181系による5両編成で3往復の運転を行った。23日からは姫路駅 - 和田山駅 - 福知山駅 - 新大阪駅間でキハ181系による直通快速が1往復設定され、27日からはノンストップ快速に智頭急行HOT7000系も投入して最大6往復、キハ181系は7両編成で、HOT7000系は5両編成で東海道・山陽本線が開通する3月31日まで運転された。
寝台特急も地震発生により運行が中止されたが、「あかつき」「なは」は、1月30日から播但線を経由して迂回運転が行われ[51]、新製車両の甲種鉄道車両輸送も、3月14日甲種鉄道車両8本、特大貨物2本が迂回運転された。
定期列車では、JR西日本管内の気動車はもとより五能線で運用されていた東日本旅客鉄道(JR東日本)南秋田運転所(現・秋田総合車両センター南秋田センター)に所属するキハ58系6両までもが応援運用されていた。
震災の復旧作業の進捗によってJR神戸線の不通区間が徐々に短縮されていった中で、不通区間の東西ではそれぞれに封じ込められた車両での運行を強いられたため、特に不通区間の東側の網干や西明石などにある大規模な車両基地から切り離されたJR京都線・琵琶湖線では、車両が不足していた。
だが、回送ルートとして使用できる播但線は非電化で明治時代に建造された古いトンネルが多く、開口面積が小さかったのでパンタグラフなどの付属機器を網干電車区(当時)で一旦撤去し、ディーゼル機関車の牽引により回送した後に、福知山運転所(当時)で取り外した機器類を取り付けて自力で宮原電車区(当時)などに回送された。なお、生野駅 - 新井駅間の生野トンネルは特に開口面積が小さく、トンネル内に敷設されたケーブルなどの付帯設備などに当たらないよう速度を落とし15 km/hで通り抜けた[52]。
網干電車区からは震災による損傷が復旧して出場し、所属区所に回送された車両とあわせて149両が、また不通区間の西側での輸送力増強のため広島運転所と日根野電車区の103系8両が吹田工場(当時)から網干電車区に回送された。このほか、4月20日のダイヤ改正にあわせて新装された681系・207系も同様に播但線経由で回送された。
福知山線
迂回ルートで最も重要な線区として、最優先で福知山線の復旧作業が行われた。福知山線では川西池田駅 - 中山寺駅間の被害が大きく、地震発生の1月17日には広野駅 - 福知山駅間が開通し、その後順次運転を再開した。
輸送力の確保のため運転開始直後から臨時列車が運転され、5時30分から21時まで、1時間につき1本か2本の臨時列車を最大42本運転し、特急「北近畿」の増結も行われた。大阪駅を発着としていた特急列車は、東海道新幹線との接続のため3往復を新大阪駅発着で運転し、このほかに「北近畿」15号は福知山駅 → 和田山駅間で延長運転し、播但線との接続を改善した。またJR神戸線が全通した4月1日以降も4月17日まで、新大阪駅延長運転が2往復、和田山駅延長運転が行われた。
JR神戸線で運行されていた貨物列車の迂回運転も行われた。が、福知山線や山陰本線の和田山駅 - 湖山駅間では貨物列車が運転されなくなっていたため、重い貨物列車を毎日運転するには問題があり、乗務員の養成や設備の一部改良の必要性があったが、福知山線・山陰本線・伯備線を経由して2月11日から迂回運転が開始された[53]。貨物列車が運転されていなかった区間の迂回貨物列車の乗務は、JR西日本が担当した[54]。なお、ダイヤ改正にあわせた新製車両の甲種鉄道車両輸送も3月14日から8本、特大貨物2本が迂回運転された。
加古川線
加古川線は播但線よりも迂回距離・所要時間も短いが、ワンマン運転が主体の線区で列車の行き違いのため編成両数が制限されること、および谷川駅の福知山線と加古川線を結ぶ構内配線が非常用の分岐器しかないことから福知山線への直通運転ができず、線内列車の増発および増結で対応した。加古川線では西脇市駅で運行形態が分かれており、西脇市駅で乗り換えが必要であったが、乗り換えを解消して直通列車を設定し、震災前に9本しかなかった直通列車は同年2月6日には45本に増加し、ほとんどの列車で直通運転が行われた。このほか、加古川駅 - 谷川駅間で快速も運転された。
不通区間の解消状況
- 東海道・山陽本線(JR神戸線)…複々線であったため、地震発生翌日から姫路駅 - 西明石駅間、大阪駅 -(福知山線)塚口駅間(複線)で順次、運転を再開した。駅舎の半壊した鷹取駅は、JR鷹取工場(2000年(平成12年)に廃止)の操車場に仮設ホームを設置して営業を再開した。また駅舎が全壊した新長田駅は当分の間、通過扱いをすることになった。配線変更などにより部分的に開通し、地震発生から74日後の4月1日に最後の不通区間である灘駅 - 住吉駅間を復旧して、複々線での運転を再開し、新快速を朝夕に臨時扱いで増発した[注釈 15]。
- 山陽新幹線…震災が起こった直後に8箇所の橋脚が倒壊し(幸い地震発生が始発前で倒壊による列車への影響はなし)、新大阪駅と姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の4月8日に不通区間を解消した[55]。
そのほかの対応・影響
- 復旧に至るまでの間、関西から東海道本線と山陽本線を経由して九州地方へ向かう寝台特急「なは」「あかつき」は、大阪駅 - 姫路駅間を福知山線 - 山陰本線 - 播但線のルートに迂回して運転されたほか、新大阪駅 - 姫路駅間を同様のルートで運行する「直通快速」が運行された。また、不通区間の迂回乗車客への対応として、加古川線では普通列車(1時間間隔)の増発、播但線では「ノンストップ快速」などの臨時列車の運行がなされた。
- 東海道・山陽本線が分断されたために、電車列車(電車のパンタグラフを下ろした状態で運行する)をディーゼル機関車を使って、電化されていない区間の含まれる播但線・山陰本線を経由して福知山駅まで回送した。震災後は緊急時の迂回ルートとしての必要性があることから後の早期電化を求める結果となり、震災から10年後の2004年(平成16年)12月に加古川線の電化が完成した。新幹線は、JR東海・JR西日本ともに車両が他社区間に閉じ込められたために、復旧するまでお互いの車両を使用することとした。
私鉄
被災地区を運行する鉄道路線のうち、もっとも南を走行する阪神本線は、おもに東灘区から灘区における高架構造である区間に大きな被害を受けている。特に大きな被害を挙げると、御影駅西方の留置線の車両が横転して大きく損壊した。石屋川車庫も崩壊し、地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車両が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が高度経済成長期の1967年(昭和42年)に竣工した物件であり、耐震構造が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。この区間においては数箇所で鉄橋が落下し、南北に至る道路が遮断された。新在家駅付近では高架橋下を土地貸ししていたこともあって、復旧過程で借主に取り壊しの承諾を得るため避難先を回ったり、近隣住民から高架橋共々自宅の瓦礫も片付けてほしいと要望を受けたりしたという[56]。こうした阪神の被害状況は日本各地の橋梁において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなっている。
なお、三宮付近の地下区間で運行中に被災した車両と合わせて、41両の車両が一挙に廃車され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。このため、復旧車両や新造車両の導入も当面は尼崎車庫の容量で賄える範囲にとどまり、JRや阪急が開通と同時に震災前ダイヤ比で増発を行ったのに対して、阪神は減便ダイヤでの運転再開となった。他の事業者も線路や施設に大きな被害が出たものの、車両面で車庫1個級の被害を被ったのは阪神だけである。
主な被害
- 山陽・東二見駅発阪急三宮駅行き特急(6両・乗客約30人)…神戸高速鉄道東西線大開駅(地下)から90m時点で被災、時速58kmから130m走行後停止。大開駅部分が地震で崩壊したため、「10秒遅れていたら潰れたトンネルに挟まれていた」といわれる。
- 阪神・新開地駅発梅田駅行き普通列車…春日野道駅に停車・乗客降車中。1人負傷。
- 阪急今津線・宝塚駅発西宮北口駅行き普通列車…宝塚 - 宝塚南口間で脱線。武庫川の橋梁付近を走行しており、もし橋梁上で被災していれば甚大な被害は不可避であったが、免れた。
- 神戸高速鉄道東西線大開駅(地下)…崩壊。高速道路と同様、当時「地下鉄道は地震に強い」という風潮があったが、大開駅周辺は軟弱地盤かつ開削工法であったために、振動に揺さぶられて中間柱が崩壊したと考えられている。
- 阪急伊丹線伊丹駅…崩壊。交番勤務中の警察官1人が死亡した。
復旧が早かった路線
- 北神急行電鉄
- 北神線…比較的に被害が少なく、翌1月18日から運転再開した。
- 神戸市営地下鉄
- 神戸電鉄
鉄道会社ごとの不通区間の解消状況
- 阪急電鉄…(地震発生から146日後の)6月12日[57]、伊丹線伊丹(仮)- 伊丹間除く
- 山陽電気鉄道…(152日後の)6月18日[57]、東須磨以東は当時事業中だった地下化工事の完成を以って復旧。同区間の地上線復旧は見送られた。
- 神戸電鉄…(156日後の)6月22日、湊川駅 - 長田駅間が運転再開、同日神戸高速鉄道南北線新開地駅 - 湊川駅間も運転再開し、全線が復旧した[58]。
- 阪神電気鉄道…(160日後の)6月26日[57]
- 神戸高速鉄道(阪急・阪神・山陽の各社が相互乗り入れ)…(208日後の)8月13日[57]、大開駅は翌年1月まで通過
神戸市内中心部では、2月1日に阪神・神戸高速線が三宮駅 - 高速神戸駅間でピストン運転をしていた[59]。このピストン運転は2日前に運転再開された神戸以西のJRと連絡することで被災者の大きな足となった。2月下旬には阪急御影 - 王子公園、阪神岩屋 - 三宮間がそれぞれ復旧し、先に復旧していたJR住吉以東・阪神青木以東からこれらのルートを乗り継いで大阪方面から神戸市内に向かうことができた。特に阪急の同区間はJRの全線開通まで振替輸送先に指定された。一方で液状化現象が発生したポートアイランドや六甲アイランドを通る神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)や六甲アイランド線(六甲ライナー)の復旧には相当な時間を要し、再開予定を1ヶ月前倒しした前者で7月31日、後者は8月23日に全線開通した。
海上
神戸港にはフェリーなどが四国・九州方面を中心に多く発着していたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的には大阪南港などに発着地を変更して運航されていた。
陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして、その後機能した。また、ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて、大阪 - 神戸間、神戸 - 西宮間など短距離の臨時航路も整えられ、代替交通機関として疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行った。残された海岸部分を利用して、医療物資などの搬入も優先的に行っていた。多くの手助けのもと、2年後の1997年(平成9年)3月31日に、全ての埠頭・コンテナバースが復旧した。そして、同年5月19日に「神戸港復興宣言」が発表された。
空港
揺れの激しかった大阪国際空港(大阪府豊中市・池田市と兵庫県伊丹市)では滑走路・誘導路に亀裂が生じた。空港ターミナルビルも外壁などが損傷した。震源から離れた関西国際空港(震災発生前年の1994年に開港)も空港ターミナルビル・関西空港駅・駐車場エリアにて建物の損傷が確認された。しかし、両空港ともに航空機の運航等に影響は出なかった[60]。特に、被災地の大阪国際空港では、その日のうちに、警視庁や東京消防庁、自衛隊、アメリカ軍、政府チャーター便の機体が支援に多数飛来した。さらに、特別措置として大阪国際空港は通常7時〜21時の運用時間制限を設けているが、運用時間外になる21時台の臨時便を運航させるなどして復旧・復興に協力した[61]。
注釈
- ^ これは観測当時のものではなく、2001年(平成13年)4月23日に気象庁が、マグニチュードの算出方法の変更により修正したものである。そのため、古いモニュメントや資料の中にはM7.2とするものもある。
- ^ 三宮・元町・ポートアイランド
- ^ 地震発生直後の放送各局が被害報道したのが、亀岡市内の住宅全壊・半壊だった。読売テレビでは、同市内に別荘を持つ辛坊治郎に電話取材を試みた。
- ^ この顛末は、以下の書籍を参照。神谷周孝「1分で決まった『阪神大震災』」毎日新聞大阪本社(編)『ドキュメント希望新聞 阪神大震災と報道』毎日新聞社、1995年、22-25頁。ISBN 4-620-31073-5。
- ^ 「関東大震災以来の大惨事」という認識から、同震災を意識したものと説明している[13]。
- ^ 当初の「人的、物的な被害が関西圏に広がる」との判断からと説明している[13]。
- ^ 壊滅した地域が神戸であるためと説明している[13]。
- ^ 兵庫県および合計は消防庁2006年5月19日確定値[18]。兵庫県以外は消防庁2000年1月11日時点[19]。
- ^ 兵庫県以外の非住家2棟を含む。
- ^ この「柏井ビル」は、本震では斜めに傾いたのみで、なんとか持ち堪えていた(当初は完全に倒壊はしなかった)。しかし、その後の余震により完全に倒れてしまい、幅の広い大きな道路を塞ぐ結果となってしまった(そのため復旧に支障が出た)。
- ^ トリアージの重要性が意識されることとなった。
- ^ 設計は ASTM(アステム)(芦屋浜・新日本製鐵・竹中工務店・高砂熱学工業・松下電工〈現:パナソニック電工〉・松下興産)。管理は日本住宅公団・兵庫県住宅供給公社・兵庫県・民間。14〜29階建て、総戸数3,381戸。1979年(昭和54年)竣工。階段室と5階毎の共用部分の鉄骨によるラーメン構造。
- ^ 限界以上の力がかかった時の破壊順序が決められており、中核になる部分が最後に壊れるようになっている。その後の余震でも大きな変化はなかった。
- ^ 3号神戸線のほかに5号湾岸線なども被災した
- ^ 最後に開通した当該区間では阪急の復旧が早く、開通までは振替輸送が行われた。この臨時列車は利用の定着に伴い、翌1996年(平成8年)3月16日の改正で定期列車に格上げされた。
- ^ 2011年に発生した東日本大震災では、送電再開による火災発生が心配され、家を離れる場合等はブレーカーを切るようマスコミを通じて注意が喚起された。“東北電力からのお願い”. 東北電力. 2012年11月29日閲覧。
- ^ 山火事のような事態と違い、都市部の消火活動時はピンポイントでの消火剤散布が要求されるため、低空飛行が求められるが、火災旋風の中でヘリを低空飛行させることは完全な自殺行為(気流が不安定な上に、高温下では空気の密度が低く、ヘリが飛ぶのに必要な揚力が得られない)であり二次災害を引き起こす可能性が非常に高い。
- ^ 神戸市などは、2か月間は住民が無秩序に建物を建てないよう、建築基準法84条の建築規制をかけていた。『読売新聞』2011年4月12日
- ^ 後に、「被災市街地復興特別措置法」も作られた“被災地、建築制限8カ月に 特例法案を閣議決定”. 『毎日新聞』. (2011年4月23日)[リンク切れ]。
- ^ 1994年に発表した小説『オン・ハッピネス』(新潮社 後に文庫化)は神戸を舞台とした作品である。
- ^ 2022年(令和4年)現在は、内閣府特命担当大臣(防災担当)と内閣危機管理監が対応することになっている。
- ^ 官邸とは渡り廊下でつながっていた。
- ^ 「兵庫衛星通信ネットワーク」平成3年(1991年)に82億円を使い構築された。県内全域や国土庁、消防庁などと「スーパーバードB」衛星で通信できたはずだったが、非常用発電機の停止、送水管の破損に加え、担当専門家4人全員が出勤できなかったため情報を発信・受信できなかった。
- ^ 現在の神戸地方気象台。この震災の発災当時は中央区中山手通に位置。
- ^ 原因は「L-アデス」と呼ばれる大阪管区気象台と結ぶNTT専用回線の故障である。洲本測候所の記録も送信されなかった。
- ^ 震度空白域の発生による初期対応の遅れは新潟県中越地震でも起こり、その後比較的大きな余震の度に自衛隊のヘリコプターで通信途絶地域の被害状況の確認が行われた。
- ^ 課長補佐からの連絡に対して「この電話を災害派遣要請とみなしてよろしいですね」「お願いします」のやり取りがあった[85]。
- ^ この当時NHKは『ラジオ深夜便』を放送していたラジオ第1とFM放送を除いて24時間放送はしておらず、午前5時55分の気象情報から開始していた。なお、同年4月の改編で開始時刻は5時に繰り上がっている。
- ^ かつて午前や夕方帯などにローカル編成を行っていたが、1988年に休止、その後は全て大阪発の関西広域放送に充てられていた。その後2000年代に入って県域放送が復活する。
- ^ 在阪局では唯一震災発生時間帯に生放送されていた。
- ^ 毎日放送ではニューススタジオにあったセットが倒壊、朝日放送(現:朝日放送テレビ)では『おはよう天気です』冒頭に地震に襲われた。この際、当時の本社屋内で部分的に十数秒の停電が起こり(朝日放送記録グループ編『大震災放送局24時間』(朝日新聞社)19頁)、生放送中のスタジオでは照明が一時的に消えたため、映像が途切れたものの、音声(マイク)は生きていたことから、数分間は音声のみで放送を続けた。関西テレビではスタジオの天井にあったスポットライトが落下し、読売テレビではエレベーターが止まる被害を受けた。テレビ大阪ではデスクが倒れる被害を受けた。
- ^ 朝日放送では正式にCMの全面カットを始める前の時間帯でも、スポンサーや代理店との調整が難しいと判断し、午前10時頃から一部CMを風景映像や大阪ガスのマイコンメーター復帰方法の告知VTRを流すなどして対応していた。その後、関西テレビ、読売テレビ、テレビ大阪の3局も段階的にCMのカットへ移行した。
- ^ 東京では17日及び翌日以降も通常通りゴールデン・プライムタイムのバラエティ番組などは放送されていた。なお近畿での通常番組再開後は番組スポンサーを含むCMの箇所だけフィラーや公共広告機構(現在のACジャパン)、大阪ガスなどからのライフラインの呼びかけについての啓発CMに差し替えていた。
- ^ a b 特にサンテレビは、社屋内が「ぐちゃぐちゃになるほどの被害」を受けた。詳しくはサンテレビジョン#阪神・淡路大震災当時の放送体制を参照されたい。
- ^ 放送が6時まで停止した挙句、社屋そのものも全壊する被害を受けた。詳細はシェルタースタジオ117を参照されたい。
- ^ 神戸市は1994年にマルティメディア文化都市構想を発表し、行政・教育分野におけるインターネットでの情報発信の先駆けとなっていた[106]。
- ^ 神戸市外国語大学の芝勝徳によると、接続可能な経路を探す際には、繋がりにくい電話とパソコン通信を活用したという[107]。
- ^ 同大学の羽田久一によると、この情報発信は羽田の独断でおこなわれていたという[108]。
- ^ 当時これらの動きに注目した記事としては、ワシントン・ポストのEarthquake on the Internet: A Shock E-Mailed Round the World(1995年1月20日)がある[108]。
- ^ 取材時の言葉使い、無理なインタビューを避ける、早朝、深夜の避難所取材で迷惑を掛けないなどの被災者の生活を邪魔する印象を与えない、飲食物の粗末な扱いをしない。
- ^ 震災当時、筒井は断筆中だったため、1997年に断筆を解除してから震災について執筆した文をいくつか発表している。筒井康隆『笑犬樓の逆襲』(2004年新潮社、2006年新潮文庫)収録『阪神大震災はいまだ終わらず』など。また1995年4月25日付『読売新聞』夕刊掲載のインタビューで「今回の震災で五千五百もの人が死に、自分がその一人ではないという不思議さを感じる時、もう小説なんてどうでもよくなった。」と答えている。
- ^ たとえば、大阪府は1971年(昭和46年)までは自衛隊と共同して防災訓練を行っていたが、黒田了一の知事就任以降、「自衛隊に頼らない防災訓練」を目指した。その理由には「関西には地震が来ない」ということも挙げられていた。また、淀川の水害で自衛隊が出動した際には自衛隊に抗議を行っていた。黒田の退任後も、阪神大震災までそのままの関係であった。震災後、大阪府でも自衛隊との連携が再度模索され始め、大阪市も1995年(平成7年)、22年振りに防災訓練を自衛隊と共同実施することを決定した。(田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月)
- ^ 柱に、鉄板または炭素繊維を巻きつけるのが主流。
- ^ 損害保険では「オールリスク」タイプが一般向け保険であるが、「戦争」「自然災害」「自損」は入らない。
- ^ 2012年以降は東日本大震災発生時刻の14時46分にも黙祷を行っている。
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「社会党は伝統的に自衛隊の存在を違憲なものとしてきた。(中略)自治体側から要請が出されない限り、(実際重要な役割と責任を負う自衛隊の地域防災訓練への参加は認められてこなかった」などと書かれている。 - ^ 田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月号
「(関西地区の自治体の中には)面会を断る対象者リストを作り、そこに自衛隊の名前を挙げている所さえある」「5300名を超える死亡者の中で、「焼死」した人々が10%にも達した(2月16日現在)陰には、計画的、組織的救援活動の遅れがある」「一般に、戦後における災害観や災害文化 (Disaster Culture) の形成には、「進歩的」知識人が唱えた太平洋戦争観が大きく影響してたといえないであろうか。その結果、「イデオロギー」を優先させるあまり、国民のかけがえのない歴史的遺産の数々が忘れ去られ、人命をかした貴重な(地政学的・外交的教訓ばかりか)戦災「体験」を風化させてしまったのではあるまいか」「社会党や共産党などの革新政党の強い阪神地区では、実際に災害訓練においても自衛隊の参加は、政治的理由により拒まれ続けてきた。」などと述べられ、自治労の存在を背景に挙げている。さらに、自治労大阪が震災後に自衛艦の入港に反対するため街宣車を埠頭に派遣し、著者が災害のとき位は入港を認めるべきではないかという疑問を投げかけたところ、誰もこの質問に答えることはできなかったエピソードや、『週刊現代』1996年4月6日号で神戸大学名誉教授の早川和男等が仮設住宅設置の問題点や、避難所の強行閉鎖などを挙げて、復旧過程での神戸市の対応が冷淡であると批判していたことも引用して、批判的に書かれている。 - ^ 『デイリーヨミウリ』1995年1月28日での読売新聞調査研究本部主任研究員、高浜賛による社会・共産・革新系政党からの支持を受けた自治体首長への批判など
- ^ 例:ポール・ブルスタイン「対策の混乱は反自衛隊感情」『ワシントン・ポスト』1995年1月27日
ホバート・ローエン「地震が日本に関して示したこと」『ワシントン・ポスト』1995年2月2日
ホバート・ローエンを例にとると、救援の遅れについて官僚機構の硬直性と並んで、村山政権の「左翼的政治体質」を理由に挙げている。 - ^ 山崎太喜男「国民の安全忘れた村山政権」『自由』1995年5月号
「「自衛隊を違憲」と決めつける勢力が「反自衛隊闘争」を繰り広げてきた」「災害救助に出動しても「自衛隊帰れ」の叫びが被災地に充満することもあった」「そうした反自衛隊闘争の先頭に立っていたのが社会党」「社会党が過去に行った誤った政策による影響力の責任は極めて重大」などと書かれている。 - ^ 「記者の目」『毎日新聞』1995年5月9日朝刊4面
大下英治「戦慄。総理官邸の一〇〇時間」『潮』1995年4月
佐々淳行「村山政府『危機管理』の無策を告発する」『文芸春秋』1995年8月
田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月号 - ^ 週刊現代2018年12月29日号、連載亀井静香の政界交差点、第10回、村山富市、「責任は自分が取る」とすべてを任せた名宰相、62-63頁
- ^ “明日を守る-防災立県めざして- 第5部 行政の役割 当時首相 村山氏に聞く”. 『大分合同新聞』. (2006年)[リンク切れ]
- ^ 薬師寺克行:編「村山富市回顧録」岩波書店、2012年、p237~238
- ^ 岡田義光「日本の地震地図 南海トラフ・首都直下地震対応版」東京書籍、2014年、p193~194
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にも転載されている。 - ^ 東京文化財研究所『東文研アーカイブス』津高和一記事
- ^ 別冊宝島380『将棋王手飛車読本』[要文献特定詳細情報]
- ^ 大人気「涼宮ハルヒの憂鬱」の谷川流さん「楽しませ、楽しみたい」
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- ^ 「時代の証言者 桂文珍⑳震災 芸道の転機に」2014年1月6日『読売新聞』朝刊10面
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田中伯知「阪神大震災と自衛隊の出動」『自由』1996年6月等
『セキュリタリアン』の鼎談では、佐々淳行により災害対策基本法とともに、自衛隊法83条の問題点なども挙げられている。 - ^ 『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』より
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- ^ 阪神・淡路大震災から29年 今の被災地支援に教訓どう生かすか - NHKNEWSWEB・2024年1月17日11時27分配信
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- ^ “阪神大震災:神戸市が当時の写真1000枚、ネットで公開”[リンク切れ]
- ^ “阪神大震災の写真約1000枚、神戸市がCCライセンスで公開 2次利用OK”
- ^ 〈阪神・淡路大震災20年〉神戸市、大震災『1.17の記録』 写真1000点公開 防災情報新聞 防災情報機構 2014年12月15日
- ^ “阪神・淡路大震災の写真千点、ネットで公開 神戸市”. 神戸新聞NEXT. (2014年12月9日)
- ^ a b c d “阪神・淡路大震災直後の記録動画 全容を公開 神戸”. 神戸新聞. (2014年12月11日)
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