桧山進次郎 経歴

桧山進次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 13:08 UTC 版)

経歴

プロ入り前

京都府京都市右京区出身。平安高校を経て、東洋大学へ進学。東都大学野球リーグ通算76試合出場、261打数83安打打率.318, 13本塁打、45打点。ベストナイン3回。第20回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された際は後にプロでチームメイトとなる金本知憲と同室になった。

1991年プロ野球ドラフトで、三井浩二のクジを外した阪神から4位指名を受け入団した。入団会見で「巨人オロナミンCならば、リポビタンDのCMをしたい」と笑いを誘った[6]。担当スカウト今成泰章[7]

阪神時代

1992年(1年目)のみ守備位置登録は内野手登録であり(当年は外野にしか就いていない)[2]、2年目以降は外野手登録となる。プロ入り後は一軍二軍を行ったり来たりだったが、1995年、開幕早々レギュラー右翼手の亀山努が怪我で離脱し、空いた右翼を八木裕関川浩一と共に穴を埋め初めてほぼ年間一軍で試合に出続けた。

1996年藤田平が正式に一軍監督に就任し、4月6日の巨人との開幕戦東京ドーム)で3番・右翼手で初の開幕スタメン3打数1安打(相手の斎藤雅樹開幕投手として完封勝利、桧山に被安打も村田真一が盗塁阻止し27人でシャットアウトの準完全試合)5番・左翼手に定着し、中日ドラゴンズ野口茂樹から2試合にまたがって4打席連続本塁打を放つなど22本塁打を記録。来日外国人を除く阪神在籍野手で、1シーズンに20本以上の本塁打を放った左打ちの選手は藤田平掛布雅之に続いてこの年の桧山が3人目であった[8](本拠地の阪神甲子園球場は「浜風」の影響で右翼方向に打球が飛びにくいと言われている)[9]。桧山本人はレギュラーを掴んだのはこの1996年だったと振り返っている[10]

1997年吉田義男が監督が就任し、シーズンを通して4番・右翼手レギュラーで起用され、共に前年を更新する23本塁打(キャリアハイ)・82打点を記録した。しかし打率は.227で三振もリーグ2位の150を記録し、確実性の面で課題を残した(同年セ・リーグ三振数1位が清原和博152三振、3位が新庄剛志120三振)。チームは久々に5位に浮上した。オフに中日の中村武志と複数トレードの話が持ち上がったが、本社からNGが出たため破談になっている[11][12](このトレードは最終的には関川浩一+久慈照嘉大豊泰昭+矢野燿大となった)。

1998年は中日から大豊やアロンゾ・パウエルの加入により開幕対横浜3連戦を2番スタメンレギュラーで起用されたが、打順を意識してしまい10打数1安打と全く打てず3連敗を受けて打順が変更され[13]、新人の坪井智哉右翼手に定着しパウエルの退団後は左翼手で起用された。打率.226、本塁打15本、打点52と、元々低かった打率に加えて長打力も落とした。

1999年野村克也が監督が就任し、開幕に出遅れたことや不振などもあり、出場試合は95試合に留まり、2000年にはトニー・タラスコらとのレギュラー争いに敗れ代打要員となった。

2001年は開幕当初は新戦力などが優先され控えや時折スタメンでの出場だったが4月25日対巨人戦からレギュラーに復帰し、シーズン後半は帰国したイバン・クルーズに代わって4番を務める。無理に長打を狙わないことで当時の史上7位・球団記録となる28試合連続安打や自身初の打率3割を記録。また、この年からチームの選手会長にも就任した。

2002年は主に5番・右翼手レギュラーとして出場。終盤に左肩亜脱臼で戦列を離れ、矢野燿大藪恵壹の離脱と並びチーム失速の一因となった。濱中治の台頭に加わり、シーズン終了後に広島東洋カープから金本知憲FA移籍が決定的になると、フロントに対してレギュラー構想の説明を求めるも回答がなかったとしてFAを宣言した。しかし、期限内に他球団からのオファーはなく、また監督の星野仙一から慰留されたこともあり権利を行使した上で阪神に残留した。

2003年は濱中が4番・右翼手に入り、桧山は春季キャンプから2000年に14試合就いたことのある一塁手へのコンバートに挑戦した。開幕当初は、ジョージ・アリアス片岡篤史との併用で一塁手として出場。4月10日に一軍公式戦への通算1000試合出場を達成すると、同年18日はプロ入り後初めてのサヨナラ本塁打を記録した。濱中が右肩の負傷で戦線を離脱した6月13日以降は、「4番・右翼手」としてレギュラーに復帰。7月2日の対中日戦で史上58人目(62度目)のサイクル安打を達成(なおこの前日には、ヤクルトの稲葉篤紀とダイエーの村松有人が達成していて、NPB史上初の同日達成となった翌日の達成となったため、2日間で3人の達成者が出た)。チームは18年ぶりにリーグ優勝した。日本シリーズでも4番・右翼手として出場し、第5戦で決勝適時打、第6戦で本塁打を放ち優秀選手賞を獲得。同年、選手会長を退任して後任の今岡誠に引き継いだ。

2004年5月5日の対広島戦で1イニング2三振のプロ野球タイ記録を作るが、シーズン成績は自己新の84打点、打率.306、打撃スタイルを変えた2001年以降では最多の18本塁打を記録した。

2005年シェーン・スペンサーとの併用で出場。シーズン序盤は打撃不振に見舞われたが、8月25日にはプロ通算1000本安打、同月31日にはプロ通算150号本塁打をそれぞれ記録。尻上がりの調子でシーズンを終えたものの、通算成績は過去数年に比べてやや下降した。

2006年は主に代打として出場するが、不振にあえぎ一軍定着後最低の打率.180を記録。代打としても出塁率.300・打率.208に終わった。同年、2度目となるFA権を取得したが行使せずに残留。

2007年シーズン当初は二軍で5月4日に一軍合流したが、濱中に加えて桜井広大林威助などの台頭もあって前年より更にスタメンの機会は減り、控え外野手としても葛城育郎の好調の陰に隠れた。8月21日の対東京ヤクルトスワローズ戦で松岡健一から、自身初の代打満塁本塁打を放ちチームの逆転勝利に貢献。次の試合も適時打を放つなど、シーズン終盤には随所で勝負強い打撃を見せた。9月5日には、一軍公式戦への通算1500試合出場を達成している。しかし、通算打率は、前年に続いて1割台と低迷。さらに、代打での打率は.186と、前年から大きく落ち込んだ。10月15日、『デイリースポーツ』紙の1面に「阪神を退団」という記事が掲載され、桧山自身が自らのサイトでこれを否定する一幕もあった。

2008年は進退をかけて臨み、開幕直後から代打で安打を重ねて高橋光信や葛城らと共に代打として活躍。勝負強さを買われてセ・パ交流戦を中心にスタメンでも起用された。打率3割を記録し、この年から八木裕に代わる「代打の神様」として定着した。

2009年も主に代打として出場したが、前年よりも打撃成績は落ち込んだ。10月4日の対中日最終戦で、同年限りでの引退を表明した同学年の立浪和義に対し、阪神を代表して慰意の花束を贈呈した。

2010年は5月18日の対福岡ソフトバンクホークス戦で遠井吾郎の球団記録に並ぶ代打通算108安打[14]、6月4日の対オリックス・バファローズ戦で球団新記録となる代打通算109安打を記録した[リンク切れ][15]。また9月16日の対横浜ベイスターズ戦では、代打で登場した金本が怪我のため守備につくのが困難なことや、他の控え外野手を使い切ってしまっていたことから、9回裏1イニングだけライトのポジションについた。この年守備についたのはこの一度であるが、桧山が打席に立たずに守備だけで出場するのは、2007年7月6日の中日戦以来3年ぶりのことであった。

2011年は、5月8日の対横浜戦の7回に適時打を打ち、代打での通算86打点で球団3位タイの記録に並び[16]、5月14日の対中日戦で9回裏二死に代打で登場して本塁打を放ち、球団新記録の代打通算14本塁打および球団3位の代打通算87打点を記録した[17]。シーズン終了後の11月22日には、海外FA権を行使せずに阪神への残留を表明。しかし翌23日に、自身の公式サイト「桧舞台」が主催するイベントで転倒して左鎖骨を骨折(後述)。同月30日に手術を受けた[18]

2012年には、前述の骨折の影響で、公式戦の開幕直前から一軍に合流。開幕から代打での起用が続いていたが、5月27日の対埼玉西武ライオンズ戦では5番右翼で先発出場。スタメンは2009年6月13日の対千葉ロッテマリーンズ戦以来3年ぶりだが、守備についてのスタメンとなると2008年8月7日の対広島戦以来4年ぶりであった。しかし代打では、8月23日の中日戦で安打を放ったことを最後に、翌年5月8日の対巨人戦(東京ドーム)まで22打席ノーヒットが続いた[19]

2013年も開幕から一軍に帯同すると、前述の巨人戦で自身23打席ぶりの安打を放つとともに、球団新記録でセ・リーグ史上第3位となる代打通算99打点を挙げた[20]。5月12日の対ヤクルト戦でも適時打を放ち、宮川孝雄浅井樹に次ぐ代打通算150安打、宮川・川又米利に次ぐ代打通算100打点(ともに史上3人目)を記録。8月7日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、セ・リーグ歴代単独2位となる代打通算155安打を放った[21]。9月7日に同年限りでの現役引退を表明[22]。引退試合となった10月5日の対巨人戦(甲子園)には、「5番・右翼手」でスタメンに起用されたものの、3打数0安打で8回表の守備から交代した。最終打席となった第3打席は一塁ゴロ。試合後のセレモニーでは「今日ここまで皆さんと共に2回のリーグ優勝を僕は手に入れました。しかしながら、日本一という称号はまだ手に入れてません。この忘れ物をいつか必ず取りに来ます。その時はまた、ファンの皆さん、タイガース球団の皆さん、一緒に戦いましょう。本当に僕は幸せ者でした。22年間、ありがとうございました」と挨拶した[23]。なお、チームがシーズン2位でクライマックスシリーズ(CS)への進出を決めていたことから、引退試合の後も広島との同シリーズ・ファーストステージ(甲子園)に出場。第1戦では、7回裏一死一・二塁からの代打で遊飛に倒れた。しかし第2戦では、5点ビハインドで迎えた9回裏二死一塁の場面で代打で登場。2003年の日本シリーズでの広澤克実(41歳6か月)の記録を更新するポストシーズン史上最年長(44歳3か月)本塁打となる2点本塁打をライトスタンドに放つ。しかし、チームは4対7で敗れたためCSでの敗退が決定。結果として、前述の本塁打を放った打席が、桧山にとって現役最後の打席となった[24]

現役引退後

2013年10月23日付で、セントラル・リーグから任意引退公示[25]。これを機に、阪神タイガースを退団した。同年12月1日付でホリプロとマネジメント契約を締結。「ベースボール&スポーツ・コメンテーター」として活動することを表明した。

2014年からは、朝日放送の野球解説者や、日刊スポーツ新聞西日本(大阪本部)専属の野球評論家を務める[3]。同年2月20日には、現役時代に阪神のコンディショニングコーチや個人トレーナーとして桧山と接してきた仲田健(ホリプロ所属のストレングス&コンディショニングコーチ)との共同執筆による自身初の著書「代打の哲学」が、幻冬舎から刊行された。同年3月31日には、自身初の単著「待つ心、瞬間の力」を、廣済堂出版から発売している。

2020年3月24日からはYouTuber活動を開始。チャンネル名は「桧山進次郎の何しよ?」


注釈

  1. ^ a b プロ1年目の1992年のみ守備位置登録は内野手登録であり(当年は外野にしか就いていない)[2]、1993年以降は外野手登録となる。

出典

  1. ^ a b 平成28年法務省告示第130号、官報平成28年3月4日 本紙第6728号
  2. ^ a b ベースボール・レコード・ブック1993(ベースボール・マガジン社 1992年12月)393p
  3. ^ a b 新年の御挨拶(桧舞台2014年1月1日付記事)
  4. ^ a b 朝鮮日報-阪神タイガースの檜山進次郎選手が「在日」を公表 朝鮮日報、2004年1月20日。※リンク先は、インターネットアーカイブ2007年4月18日付保存キャッシュ。
  5. ^ a b 元阪神・桧山氏、ホリプロとマネジメント契約スポーツ報知、2013年12月2日、同日閲覧。[リンク切れ]
  6. ^ 阪神・桧山進次郎「神様男の22年裏伝説」(1)“夏バテ”で引退を決意
  7. ^ 「ドラフト4位」の桧山進次郎はあの日、なぜ阪神入りを決めたのか
  8. ^ ホリプロ公式サイト
  9. ^ 掛布雅之 甲子園にラッキーゾーン復活を
  10. ^ 屈辱と栄光を知る男 桧山進次郎インタビュー 「低迷期は負けグセがあった。2003年は勢い、05年は勝つべくして勝った」 週刊ベースボール 2019年4月10日
  11. ^ 星野氏 中村紀洋獲得のためタクシーのトランクで脱出の過去
  12. ^ 悔し涙で入団の阪神ラストは感謝の涙/矢野という男
  13. ^ 吉田義男監督描いた「攻撃型の2番」/桧山進次郎
  14. ^ 阪神、熱戦制し2位浮上!桧山が同点タイムリー サンケイスポーツ、2010年5月18日、2010年6月6日閲覧。
  15. ^ 阪神:桧山、代打で左前適時打…代打通算で球団記録を更新 毎日新聞、2010年6月5日、2010年6月6日閲覧。
  16. ^ 桧山 代打通算86打点!球団3位真弓に並ぶ デイリースポーツ、2011年5月9日。
  17. ^ 【阪神】桧山代打弾!八木抜いた14本目 日刊スポーツ、2011年5月14日。
  18. ^ 【阪神】鎖骨骨折の桧山が退院日刊スポーツ、2011年12月5日
  19. ^ 12回V打 神様桧山様!巨人に3連勝で2・5差 スポーツニッポン、2013年5月8日。
  20. ^ 桧山“代打の神様”超え99打点!阪神3連勝で2・5差だ”. スポーツニッポン (2013年5月8日). 2021年4月11日閲覧。
  21. ^ 代打155安打!虎・桧山、セ歴代単独2位浮上 サンケイスポーツ、2013年8月8日。
  22. ^ 阪神・桧山が現役引退表明 デイリースポーツ、2013年9月7日。
  23. ^ 【阪神】桧山「幸せ者」引退あいさつ全文 日刊スポーツ、2013年10月6日
  24. ^ a b 阪神・桧山 惜別弾 44歳ポストシーズン最高齢アーチスポーツニッポン2013年10月14日配信
  25. ^ 2013年度 任意引退選手 日本野球機構オフィシャルサイト 2013年10月24日閲覧。
  26. ^ a b 八木裕、新庄剛志、濱中治……。 惜しかった阪神の“生え抜きスラッガー候補”たち” (日本語). 週刊野球太郎 (2016年11月29日). 2021年9月24日閲覧。
  27. ^ 42歳桧山現役続行 衰え知らずの勝負強さ - プロ野球ニュース” (日本語). 日刊スポーツ (2011年8月20日). 2021年9月24日閲覧。
  28. ^ 第1回「若林忠志賞」は桧山進次郎選手が受賞阪神タイガース公式サイト2011年12月1日付「球団ニュース」
  29. ^ 京都府庁へ訪問(「桧舞台」2010年10月29日付記事)西宮市役所へ訪問(「桧舞台」2010年11月8日付記事)
  30. ^ グアム自主トレ(「桧舞台」2014年1月16日付記事)および寄付のご報告(「桧舞台」同月6日付記事)
  31. ^ 仙台慰問時の写真「桧舞台」2011年6月3日付記事
  32. ^ 阪神桧山鎖骨骨折だった…キャンプ微妙
  33. ^ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日). http://www.sanspo.com/baseball/photos/20161123/tig16112305040011-p6.html 2017年9月8日閲覧。 
  34. ^ 一般社団法人日本生活文化推進協会桧山進次郎
  35. ^ 月刊タイガース2000年5月号 45p






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